【日 付】2022年9月18日(日)
【山 域】加越国境 火燈山周辺
【天 候】晴れ
【メンバー】sato、山日和
【コース】大内峠登山口8:30---9:10ナメ床---10:55スラブ滝---12:00ランチ場13:05---14:00加越国境稜線---
14:05火燈山14:50---15:45大内峠---16:00登山口
台風の接近もあり、全国的に天気の悪い3連休。奇跡のように晴れマークが出ていたエアポケットが石川・
福井県境の日本海に近い山域だった。
大内峠登山口の駐車場には既に7台ほどの車が止まっていた。ほぼ全員が富士写ヶ岳から小倉谷山、火燈山
の周回だろう。
こちらは火燈古道の入口を横目に、大内谷川への林道を進む。荒れ気味の林道を、流れへ下りるタイミングを
見計らいながら歩く。ちょっと気になったところで下りてみると、きれいなナメがあった。
当然のことながら植林帯なので、あまり雰囲気があるとは言えないが、やはりナメはいい。
この谷筋は廃村になった大内集落の仕事場だったようで、河岸台地には立派な石垣を組んだ田畑の跡が残さ
れている。
まったく平凡な流れを辿っていると、突然目を疑うような光景が現れた。驚くほど巨大な岩が両岸に峙った
ゴルジュの中を滝が落ちている。通過不能なので左岸を巻くと、その奥にも同じような巨岩のゴルジュが続い
ていた。それを過ぎると何ごともなかったかのように、再び凡流に戻ってしまう。
あのゴルジュはいったいなんだったのか。まるで白昼夢のような唐突な風景だった。
流れが退屈なので再び林道に上がって終点まで進むと、目の前に現れたのは川幅一杯に広がる舗装路のよう
なナメだった。朝日に照らされてキラキラと光るナメの美しさに陶然となる。
惜しむらくはわずか30mほどで終わってしまうことである。
その後は変化に飛んでいるとは言えないまでも、いくつかの小滝やナメが出迎えてくれた。
最近おなじみの花崗岩ではなく、7月に訪れた小倉谷同様の火山岩質の谷は造形が面白い。
一見手も足も出なさそうな10mほどのナメ滝も、近くでよく見れば小さな穴があり、目一杯手足を伸ばして這
い上がった。ツルツルに見える岩が意外にヌメりが無くフリクションが利くのがありがたい。
本日も体調はイマイチなので、谷の中で早めのランチタイムとする。毎回体調が良くないと言ってるが、実
はこれが本調子なのかもしれない。
加越国境稜線までまだ200mの標高差を残している。支谷の出合を確認しながら、火燈山東のコルへ出る谷を
選んで進んだ。この近辺の谷は、下手に支谷へ入るととんでもないスラブ滝に出くわしたりするのである。
まあ、それはそれで面白いと言えるのだが。
この谷も終盤でなかなかの見せ場が待っていた。トータルすると50mぐらいはありそうな岩溝状の連瀑帯で
ある。水量が少なくホールドも豊富なので快適に直登することができた。
沢芯が鬱陶しくなってきたので、左手の小尾根に逃げることにした。最初はヤブもなく、樹林の中をサクッと
上がれるかに見えたが、やがてシャクナゲのヤブやスラブ壁に遭遇。
シャクナゲの密度はなかなかのものだが、うまい具合に踏み跡らしきものがあるところもあり、モンキークラ
イムを交えながらヤブの弱点を突いて高度を稼ぐ。
まわりがブナ林になると、ようやく加越国境稜線に到着である。山頂東のコルよりも余分に登らされてしま
ったが、これはこれで良しである。
今年だけで3回目となった火燈山に到着。去年まで一度も登ったことがなかった山に突如スポットライトが
当たった感があるが、いずれも火燈山頂が目的だったわけではない。
しかし展望は良く、広大な福井平野が眼下に広がる様子は雄大だ。
標高は800mをわずかに超える低山だが、実にいい山である。
日陰は無いが風が強いので涼しく、のんびりと靴を履き替えコーヒータイムを楽しんだ。
山頂の脇に腰の高さぐらいの栗の木が数本生えていた。イガが独立した丸い形ではなく、合体していびつな
形になっていたのが面白い。
下山は数年前に復活した火燈古道を辿る。この道は山中から白山へと向かう古の信仰の道である。
長らく廃道になっていたものを、地元の人々が手を入れて登山道として復活させたのだ。
下り始めはブナ林が続き、その雰囲気の良さに驚いた。その後は雑木林の道となるが、実によく整備されてい
て楽しく歩くことができた。シャクナゲも多く、花の時期には目を楽しませてくれるだろう。
トンネルを通る車のエンジン音が聞こえてきた。山中峠は目の前だ。
この峠は戦国時代に一向一揆と朝倉氏の争いの要所となった、重要な峠であるらしい。登山口のある山中の集
落跡には関所が設けられていたようだ。
堀切となった峠にはシデの大木とお地蔵さまが一体、ひっそりと佇んで、往時を偲ぶよすがもない。
もう、5分も峠道を下れば登山口だ。変化に富んだ沢山旅の余韻に浸るには、いささか短すぎるエピローグだった。
山日和
【加越国境】大内谷川から火燈山・火燈古道へ
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【 日 付 】
【 山 域 】
【メンバー】
【 天 候 】
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※ユーザーでなくても返信が可能です。ユーザー名に名前を入れて返信してください。
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【メンバー】
【 天 候 】
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※ユーザーでなくても返信が可能です。ユーザー名に名前を入れて返信してください。
Re: 【加越国境】大内谷川から火燈山・火燈古道へ
山日和さま
こんにちは。
あっという間に9月も今日で終わりですね。紅葉のお山が気になりながらも、今シーズンあと何回味わえるのだろう。
沢山旅への思いが募ります。
9月17,18,19日の三連休のうち、17,18日はお休み。
どんなお山のどんな風景に出会えるのだろう、と楽しみにしていましたが台風の接近。
今回は無理だな、と諦めました。でも、奇跡のように晴れマークが出ていた山域があったのですね。
そこは、なんと火燈山周辺。
まっしろな雪の季節に訪れ、すっかり魅了された小倉谷山と火燈山。次は谷から訪れましょうとお話して、
7月に小倉谷を遡り小倉谷山と火燈山を再訪することが出来ました。
今回は石川県側からの旅。大内谷川の右俣を遡り火燈山へ!どきどきしました。
富士写ヶ岳、小倉谷山、火燈山の周回は人気があるのですね。
この日の最高気温は、32,3度と暑い予報でしたのに、駐車場に着くと車がずらりと並んでいてびっくりしました。
お地蔵さまにご挨拶して林道に入ると、杉林の中に並ぶ石積みに目が吸い寄せられました。
石積みは林道終点からまだ先まで続いていきましたね。丁寧に築かれた石積みのひとつひとつの石に、
大内村に暮らした人びとの生き様を感じました。何世代にもわたり田畑を守り広げていったのですね。
田畑を辞める時、村を去る時、どんな思いでスギを植えたのだろう。胸に痛みを覚えました。
植林地の中のさらさら流れる小川に突然現れたゴルジュには驚きましたね。
まさに、白昼夢のような唐突な風景でした。どのようにしてこの地形が出来たのでしょう。
流れの中を歩いていてよかったです。林道を歩いていたら、この面白くて不思議な光景に出会えませんでした。
流れの先に光の道が見えた時も驚きました。
朝日に照らされてキラキラと光るナメと分かり、わぁっと駆け出したくなりました。
ここも夢のような場所でした。ちいさな宝石のような夢。ナメの真ん中にしゃがみ込み、
淀みに浮かぶ、秋の澄み渡った空から来た風に吹かれはらはらと舞い落ちてきた落ち葉を掬い上げ、
ゆったりと流れゆく煌めきに乗せながら、おとうさんおかあさんのお手伝いにきた子供たちも、ひと休みの時、
ここにしゃがみ込み、こうしてキラキラと光る水面を見つめながら落ち葉を流していたのだなぁ、と思いました。
むかしむかしから子供たちが見てきた輝きを感じました。
ここから先は、楽しく登れる小滝やナメが続いていきましたね。4番目のお写真のナメ滝は、私には厳しかったですね。
山日和さんが、目一杯手足を伸ばして登られるお姿を、息をのんで見上げていました。
ひたひた、するすると歩かれていたので、この日も体調が今ひとつとは気づきませんでした。
ビールを飲まれた後は、やっぱりすっかりと回復されましたね?岩溝状の連瀑帯、ニコニコしながら登られていました。
最後のシャクナゲのヤブ尾根は面白かったです。花の咲いている時に訪れていたら感激していたでしょうね。
今年三度目の火燈山の山頂。やっぱり、いいお山だなぁ、としみじみとした思いに包まれました。
後は整備された道。景色を楽しみながら、ゆっくりくつろぎの時間を味わうことが出来ました。
そう、コーヒーを飲みながら、お団子のようなイガグリがたくさんついたちいさな栗の木が気になっていました。
どうしちゃったの?というくらい大きなイガグリをたくさんつけていましたね。
今回の山旅は、下山の尾根も目的としていました。
白山信仰の修験者や加賀藩の巡視者が通った火燈古道と、数々の歴史が折り重なる大内峠が気になっていました。
数年前に整備されたというので、整備されすぎていたら残念だなぁ、と思ったのですが、杞憂でした。
ゆたかな森の中をほどよく整備された気持ちのいい道が続いていきました。
うつくしいブナの森、シャクナゲの回廊、穏やかな雑木林。素敵な尾根、素敵な道でしたね。
深く掘られた大内峠。加賀と越前を結ぶ要路だった大内峠道の面影を感じました。
このまま下ってしまうのがもったいなくて、お地蔵さまのお隣で、おおきなシデの木に見つめられながら最後の休憩。
戦国時代、この峠は、宗教弾圧に反対し武装した浄土真宗本願寺門徒と大名軍の戦いの場だったのですね。
トンネルを通る車の音がとぎれた時の穏やかな静けさに満ちた峠からは、
そういう時代、そういう歴史の足音を感じることが出来ませんでした。ただただ思いを巡らせるだけでした。
峠から登山口の大内村跡まではすぐでしたね。旅の余韻に浸る間はありませんでしたね。
登山口に着くと「今、大内の者すべてこの村を去る 心だけをこの地に残して」
という碑に刻まれた村びとの言葉が胸に突き刺さりました。
「誰れも去りたくてこの大内を去ったのではない、
今この地に立つと祖先の魂の悲嘆を大内の者達は確かに聞く、
敗戦後本来の文化の大切さを忘れ高度経済成長を目論見み文明を求めること急な国の施策に押し流され、
小さな村が一つづつ消えて行った。大内もその村の一つに過ぎない、
この地から去り難い心と、いつか誰かが移り住むことを願い、茲に碑を建てる。
昭和五十八年四月初旬 大内出身者一同」
黒い石碑の奥に田畑の広がるうつくしい山村の風景を感じました。
山に生きたひとびとの笑い声、かなしみの声を感じました。
今年出会い魅了されたお山の、変化に富んだ数かずの風景、山とひとの歴史を感じることが出来た味わい深い沢山旅でした。
ありがとうございました。
大内村のひとびとは、明治、大正、昭和の時代、焼き畑、炭焼き、ロクロ木地挽きを生業として暮らしてきましたが、
昭和36年に大内隧道が開通すると、人口流出が続き、昭和50年には、5戸、21人が暮らすだけとなってしまったそうです。
sato
こんにちは。
あっという間に9月も今日で終わりですね。紅葉のお山が気になりながらも、今シーズンあと何回味わえるのだろう。
沢山旅への思いが募ります。
9月17,18,19日の三連休のうち、17,18日はお休み。
どんなお山のどんな風景に出会えるのだろう、と楽しみにしていましたが台風の接近。
今回は無理だな、と諦めました。でも、奇跡のように晴れマークが出ていた山域があったのですね。
そこは、なんと火燈山周辺。
まっしろな雪の季節に訪れ、すっかり魅了された小倉谷山と火燈山。次は谷から訪れましょうとお話して、
7月に小倉谷を遡り小倉谷山と火燈山を再訪することが出来ました。
今回は石川県側からの旅。大内谷川の右俣を遡り火燈山へ!どきどきしました。
富士写ヶ岳、小倉谷山、火燈山の周回は人気があるのですね。
この日の最高気温は、32,3度と暑い予報でしたのに、駐車場に着くと車がずらりと並んでいてびっくりしました。
お地蔵さまにご挨拶して林道に入ると、杉林の中に並ぶ石積みに目が吸い寄せられました。
石積みは林道終点からまだ先まで続いていきましたね。丁寧に築かれた石積みのひとつひとつの石に、
大内村に暮らした人びとの生き様を感じました。何世代にもわたり田畑を守り広げていったのですね。
田畑を辞める時、村を去る時、どんな思いでスギを植えたのだろう。胸に痛みを覚えました。
植林地の中のさらさら流れる小川に突然現れたゴルジュには驚きましたね。
まさに、白昼夢のような唐突な風景でした。どのようにしてこの地形が出来たのでしょう。
流れの中を歩いていてよかったです。林道を歩いていたら、この面白くて不思議な光景に出会えませんでした。
流れの先に光の道が見えた時も驚きました。
朝日に照らされてキラキラと光るナメと分かり、わぁっと駆け出したくなりました。
ここも夢のような場所でした。ちいさな宝石のような夢。ナメの真ん中にしゃがみ込み、
淀みに浮かぶ、秋の澄み渡った空から来た風に吹かれはらはらと舞い落ちてきた落ち葉を掬い上げ、
ゆったりと流れゆく煌めきに乗せながら、おとうさんおかあさんのお手伝いにきた子供たちも、ひと休みの時、
ここにしゃがみ込み、こうしてキラキラと光る水面を見つめながら落ち葉を流していたのだなぁ、と思いました。
むかしむかしから子供たちが見てきた輝きを感じました。
ここから先は、楽しく登れる小滝やナメが続いていきましたね。4番目のお写真のナメ滝は、私には厳しかったですね。
山日和さんが、目一杯手足を伸ばして登られるお姿を、息をのんで見上げていました。
ひたひた、するすると歩かれていたので、この日も体調が今ひとつとは気づきませんでした。
ビールを飲まれた後は、やっぱりすっかりと回復されましたね?岩溝状の連瀑帯、ニコニコしながら登られていました。
最後のシャクナゲのヤブ尾根は面白かったです。花の咲いている時に訪れていたら感激していたでしょうね。
今年三度目の火燈山の山頂。やっぱり、いいお山だなぁ、としみじみとした思いに包まれました。
後は整備された道。景色を楽しみながら、ゆっくりくつろぎの時間を味わうことが出来ました。
そう、コーヒーを飲みながら、お団子のようなイガグリがたくさんついたちいさな栗の木が気になっていました。
どうしちゃったの?というくらい大きなイガグリをたくさんつけていましたね。
今回の山旅は、下山の尾根も目的としていました。
白山信仰の修験者や加賀藩の巡視者が通った火燈古道と、数々の歴史が折り重なる大内峠が気になっていました。
数年前に整備されたというので、整備されすぎていたら残念だなぁ、と思ったのですが、杞憂でした。
ゆたかな森の中をほどよく整備された気持ちのいい道が続いていきました。
うつくしいブナの森、シャクナゲの回廊、穏やかな雑木林。素敵な尾根、素敵な道でしたね。
深く掘られた大内峠。加賀と越前を結ぶ要路だった大内峠道の面影を感じました。
このまま下ってしまうのがもったいなくて、お地蔵さまのお隣で、おおきなシデの木に見つめられながら最後の休憩。
戦国時代、この峠は、宗教弾圧に反対し武装した浄土真宗本願寺門徒と大名軍の戦いの場だったのですね。
トンネルを通る車の音がとぎれた時の穏やかな静けさに満ちた峠からは、
そういう時代、そういう歴史の足音を感じることが出来ませんでした。ただただ思いを巡らせるだけでした。
峠から登山口の大内村跡まではすぐでしたね。旅の余韻に浸る間はありませんでしたね。
登山口に着くと「今、大内の者すべてこの村を去る 心だけをこの地に残して」
という碑に刻まれた村びとの言葉が胸に突き刺さりました。
「誰れも去りたくてこの大内を去ったのではない、
今この地に立つと祖先の魂の悲嘆を大内の者達は確かに聞く、
敗戦後本来の文化の大切さを忘れ高度経済成長を目論見み文明を求めること急な国の施策に押し流され、
小さな村が一つづつ消えて行った。大内もその村の一つに過ぎない、
この地から去り難い心と、いつか誰かが移り住むことを願い、茲に碑を建てる。
昭和五十八年四月初旬 大内出身者一同」
黒い石碑の奥に田畑の広がるうつくしい山村の風景を感じました。
山に生きたひとびとの笑い声、かなしみの声を感じました。
今年出会い魅了されたお山の、変化に富んだ数かずの風景、山とひとの歴史を感じることが出来た味わい深い沢山旅でした。
ありがとうございました。
大内村のひとびとは、明治、大正、昭和の時代、焼き畑、炭焼き、ロクロ木地挽きを生業として暮らしてきましたが、
昭和36年に大内隧道が開通すると、人口流出が続き、昭和50年には、5戸、21人が暮らすだけとなってしまったそうです。
sato
Re: 【加越国境】大内谷川から火燈山・火燈古道へ
satoさん、どうもです。
今回は無理だな、と諦めました。でも、奇跡のように晴れマークが出ていた山域があったのですね。
探せばあるもんです。
そこは、なんと火燈山周辺。
まっしろな雪の季節に訪れ、すっかり魅了された小倉谷山と火燈山。次は谷から訪れましょうとお話して、7月に小倉谷を遡り小倉谷山と火燈山を再訪することが出来ました。
今回は石川県側からの旅。大内谷川の右俣を遡り火燈山へ!どきどきしました。
今年だけで3回目(去年までゼロ)の火燈山とは、自分でもビックリです。
お地蔵さまにご挨拶して林道に入ると、杉林の中に並ぶ石積みに目が吸い寄せられました。
石積みは林道終点からまだ先まで続いていきましたね。
ここは林道がありますが、車の通れる道がないところに田畑のあるところが各地にあって驚きますね。
植林地の中のさらさら流れる小川に突然現れたゴルジュには驚きましたね。
まさに、白昼夢のような唐突な風景でした。どのようにしてこの地形が出来たのでしょう。
流れの中を歩いていてよかったです。林道を歩いていたら、この面白くて不思議な光景に出会えませんでした。
これは青天の霹靂という感じでした。すぐに何事もなかったかのように平流に変わってしまうのにもビックリです。
流れの先に光の道が見えた時も驚きました。
朝日に照らされてキラキラと光るナメと分かり、わぁっと駆け出したくなりました。
あの光はなんだ!!っという感じでしたね。
ゆったりと流れゆく煌めきに乗せながら、おとうさんおかあさんのお手伝いにきた子供たちも、ひと休みの時、ここにしゃがみ込み、こうしてキラキラと光る水面を見つめながら落ち葉を流していたのだなぁ、と思いました。
むかしむかしから子供たちが見てきた輝きを感じました。
私はそんな輝きを感じられませんでした。Satoさんならではの感じ方ですね。
ここから先は、楽しく登れる小滝やナメが続いていきましたね。4番目のお写真のナメ滝は、私には厳しかったですね。
山日和さんが、目一杯手足を伸ばして登られるお姿を、息をのんで見上げていました。
ここは一見巻きかなと思いましたが、近づいてみるとホールドがありそうでチャレンジしました。
ぬめりがなくてフリクションが抜群に効いたので登れました。
ひたひた、するすると歩かれていたので、この日も体調が今ひとつとは気づきませんでした。
ビールを飲まれた後は、やっぱりすっかりと回復されましたね?岩溝状の連瀑帯、ニコニコしながら登られていました。
これはすっかり恒例の行事になりました。
最後のシャクナゲのヤブ尾根は面白かったです。花の咲いている時に訪れていたら感激していたでしょうね。
「花の時期に訪れたい」と話しているところは大抵訪れないというのが登山あるあるです。
今年三度目の火燈山の山頂。やっぱり、いいお山だなぁ、としみじみとした思いに包まれました。
最初は雪原の絶景ピーク、2回目は灼熱地獄のピークで素通り、今回はコーヒータイムを味わえました。
登山口まで1時間あまりで下れるという余裕がありましたね。
今回の山旅は、下山の尾根も目的としていました。
白山信仰の修験者や加賀藩の巡視者が通った火燈古道と、数々の歴史が折り重なる大内峠が気になっていました。
数年前に整備されたというので、整備されすぎていたら残念だなぁ、と思ったのですが、杞憂でした。
ゆたかな森の中をほどよく整備された気持ちのいい道が続いていきました。
うつくしいブナの森、シャクナゲの回廊、穏やかな雑木林。素敵な尾根、素敵な道でしたね。
歴史の道は雪が積もってると実感が湧きませんからね。
整備されたとは聞いてましたが、傾斜も緩く、歩きやすい樹林の道が続いていてよかったですね。
深く掘られた大内峠。加賀と越前を結ぶ要路だった大内峠道の面影を感じました。
このまま下ってしまうのがもったいなくて、お地蔵さまのお隣で、おおきなシデの木に見つめられながら最後の休憩。
戦国時代、この峠は、宗教弾圧に反対し武装した浄土真宗本願寺門徒と大名軍の戦いの場だったのですね。
いかにも峠らしい、趣きのある場所でした。
私もちょうど歴史絡みの福井の山の本を読んでいるところだったので、興味深く歩きました。
登山口に着くと「今、大内の者すべてこの村を去る 心だけをこの地に残して」
という碑に刻まれた村びとの言葉が胸に突き刺さりました。
「誰れも去りたくてこの大内を去ったのではない、
今この地に立つと祖先の魂の悲嘆を大内の者達は確かに聞く、
敗戦後本来の文化の大切さを忘れ高度経済成長を目論見み文明を求めること急な国の施策に押し流され、
小さな村が一つづつ消えて行った。大内もその村の一つに過ぎない、
この地から去り難い心と、いつか誰かが移り住むことを願い、茲に碑を建てる。
昭和五十八年四月初旬 大内出身者一同」
廃村の記念碑はよく見ますが、これだけお上への恨みつらみを書いた碑は珍しいでしょう。
行政に翻弄されて、ふるさとを捨てることを余儀なくされた住民の怨念に近い思いが滲み出ていましたね。
今年出会い魅了されたお山の、変化に富んだ数かずの風景、山とひとの歴史を感じることが出来た味わい深い沢山旅でした。
谷そのものはどちらかというと平凡な部類でしたが、最後のシャクナゲ尾根のツメ、火燈山頂からの眺め、
火燈古道と大内峠の佇まいと、いろんな意味で楽しめた山旅でした。
大内村のひとびとは、明治、大正、昭和の時代、焼き畑、炭焼き、ロクロ木地挽きを生業として暮らしてきましたが、
昭和36年に大内隧道が開通すると、人口流出が続き、昭和50年には、5戸、21人が暮らすだけとなってしまったそうです。
道路が通って便利になると、町へ出て行く人が増えるのは必然の流れですね。
山日和
今回は無理だな、と諦めました。でも、奇跡のように晴れマークが出ていた山域があったのですね。
探せばあるもんです。
そこは、なんと火燈山周辺。
まっしろな雪の季節に訪れ、すっかり魅了された小倉谷山と火燈山。次は谷から訪れましょうとお話して、7月に小倉谷を遡り小倉谷山と火燈山を再訪することが出来ました。
今回は石川県側からの旅。大内谷川の右俣を遡り火燈山へ!どきどきしました。
今年だけで3回目(去年までゼロ)の火燈山とは、自分でもビックリです。
お地蔵さまにご挨拶して林道に入ると、杉林の中に並ぶ石積みに目が吸い寄せられました。
石積みは林道終点からまだ先まで続いていきましたね。
ここは林道がありますが、車の通れる道がないところに田畑のあるところが各地にあって驚きますね。
植林地の中のさらさら流れる小川に突然現れたゴルジュには驚きましたね。
まさに、白昼夢のような唐突な風景でした。どのようにしてこの地形が出来たのでしょう。
流れの中を歩いていてよかったです。林道を歩いていたら、この面白くて不思議な光景に出会えませんでした。
これは青天の霹靂という感じでした。すぐに何事もなかったかのように平流に変わってしまうのにもビックリです。
流れの先に光の道が見えた時も驚きました。
朝日に照らされてキラキラと光るナメと分かり、わぁっと駆け出したくなりました。
あの光はなんだ!!っという感じでしたね。
ゆったりと流れゆく煌めきに乗せながら、おとうさんおかあさんのお手伝いにきた子供たちも、ひと休みの時、ここにしゃがみ込み、こうしてキラキラと光る水面を見つめながら落ち葉を流していたのだなぁ、と思いました。
むかしむかしから子供たちが見てきた輝きを感じました。
私はそんな輝きを感じられませんでした。Satoさんならではの感じ方ですね。
ここから先は、楽しく登れる小滝やナメが続いていきましたね。4番目のお写真のナメ滝は、私には厳しかったですね。
山日和さんが、目一杯手足を伸ばして登られるお姿を、息をのんで見上げていました。
ここは一見巻きかなと思いましたが、近づいてみるとホールドがありそうでチャレンジしました。
ぬめりがなくてフリクションが抜群に効いたので登れました。
ひたひた、するすると歩かれていたので、この日も体調が今ひとつとは気づきませんでした。
ビールを飲まれた後は、やっぱりすっかりと回復されましたね?岩溝状の連瀑帯、ニコニコしながら登られていました。
これはすっかり恒例の行事になりました。
最後のシャクナゲのヤブ尾根は面白かったです。花の咲いている時に訪れていたら感激していたでしょうね。
「花の時期に訪れたい」と話しているところは大抵訪れないというのが登山あるあるです。
今年三度目の火燈山の山頂。やっぱり、いいお山だなぁ、としみじみとした思いに包まれました。
最初は雪原の絶景ピーク、2回目は灼熱地獄のピークで素通り、今回はコーヒータイムを味わえました。
登山口まで1時間あまりで下れるという余裕がありましたね。
今回の山旅は、下山の尾根も目的としていました。
白山信仰の修験者や加賀藩の巡視者が通った火燈古道と、数々の歴史が折り重なる大内峠が気になっていました。
数年前に整備されたというので、整備されすぎていたら残念だなぁ、と思ったのですが、杞憂でした。
ゆたかな森の中をほどよく整備された気持ちのいい道が続いていきました。
うつくしいブナの森、シャクナゲの回廊、穏やかな雑木林。素敵な尾根、素敵な道でしたね。
歴史の道は雪が積もってると実感が湧きませんからね。
整備されたとは聞いてましたが、傾斜も緩く、歩きやすい樹林の道が続いていてよかったですね。
深く掘られた大内峠。加賀と越前を結ぶ要路だった大内峠道の面影を感じました。
このまま下ってしまうのがもったいなくて、お地蔵さまのお隣で、おおきなシデの木に見つめられながら最後の休憩。
戦国時代、この峠は、宗教弾圧に反対し武装した浄土真宗本願寺門徒と大名軍の戦いの場だったのですね。
いかにも峠らしい、趣きのある場所でした。
私もちょうど歴史絡みの福井の山の本を読んでいるところだったので、興味深く歩きました。
登山口に着くと「今、大内の者すべてこの村を去る 心だけをこの地に残して」
という碑に刻まれた村びとの言葉が胸に突き刺さりました。
「誰れも去りたくてこの大内を去ったのではない、
今この地に立つと祖先の魂の悲嘆を大内の者達は確かに聞く、
敗戦後本来の文化の大切さを忘れ高度経済成長を目論見み文明を求めること急な国の施策に押し流され、
小さな村が一つづつ消えて行った。大内もその村の一つに過ぎない、
この地から去り難い心と、いつか誰かが移り住むことを願い、茲に碑を建てる。
昭和五十八年四月初旬 大内出身者一同」
廃村の記念碑はよく見ますが、これだけお上への恨みつらみを書いた碑は珍しいでしょう。
行政に翻弄されて、ふるさとを捨てることを余儀なくされた住民の怨念に近い思いが滲み出ていましたね。
今年出会い魅了されたお山の、変化に富んだ数かずの風景、山とひとの歴史を感じることが出来た味わい深い沢山旅でした。
谷そのものはどちらかというと平凡な部類でしたが、最後のシャクナゲ尾根のツメ、火燈山頂からの眺め、
火燈古道と大内峠の佇まいと、いろんな意味で楽しめた山旅でした。
大内村のひとびとは、明治、大正、昭和の時代、焼き畑、炭焼き、ロクロ木地挽きを生業として暮らしてきましたが、
昭和36年に大内隧道が開通すると、人口流出が続き、昭和50年には、5戸、21人が暮らすだけとなってしまったそうです。
道路が通って便利になると、町へ出て行く人が増えるのは必然の流れですね。
山日和