【南伊勢】古道歩きも楽じゃない 近長谷寺・丹生峠・西ノ城
Posted: 2026年3月11日(水) 05:45
【日 付】2026年3月8日(日)
【山 域】南伊勢
【コース】7:15近長谷寺---9:35丹生峠---10:00県道---10:35西ノ城---12:40近長谷寺
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.490146/13 ... z0r0s0m0f1
古道歩きも後半にさしかかってきて、情報の少ない峠が残り近長谷寺のある城山、丹生峠、西ノ城跡を探ることにした。起点の丹生山近長谷寺は仁和元年(885年)に創建され、本尊の十一面観音は6.6mの直立の巨像で右手に錫杖を持った大和長谷寺の元型を感じさせる素朴さと力強さを兼ね備えた平安後期の仏像だ。現在は毎週日曜日に長谷集落の人たちが輪番で世話をしてくれており、集落の人の葬式では近長谷寺の大日如来に全員でお参りする風習は今でも続いている。
白阻山(P256)手前の茶臼山砦(260m)を見に金剛座寺につながるトラバース道を行くと、三疋田から上がってくる道の分岐に上部に仏像が彫られた金剛座寺参道の道標があった。道横の小高い丘が砦で、この付近には掘割がいくつも残っていることから近長谷城と金剛座寺をつなぐ稜線が戦いの砦と化していたようだ。近長谷寺裏の城山(P291)には南北朝時代に近長谷城があり伊勢神宮外宮禰宜の度会家行が河内の楠木正行の恭兵に呼応して築城した。近長谷寺の参道口には鳥居があり、寺裏の神社の祠や山頂の石積みの祠跡があるのもその名残だろう。近長谷寺の大日如来(平安中期)が智拳印を結んだ金剛界大日如来なのも外宮との関係によるもので、両部神道では天照大神の本地仏は大日如来とされ、内宮を胎蔵界大日如来、外宮を金剛界大日如来として礼拝されており、この影響と考えられる。ただ、寺裏や山頂の祠は明治の神仏分離により佐那神社に合祀された。城山からは昔は熊野街道をはさんで国束山が正面に見えたようだが、今は竹やぶで見る影もない。
近長谷寺の庫裏から続く道を進むとすぐに林道に出るが、丹生峠への道は無さそうだ。ヤブをかき分けてP256まで竹やぶを我慢して上ると歩きやすくなり、稜線上に目印の大木が何本も残されているので昔は歩かれていた道のようだ。最後は沢沿いに下って丹生峠に下りたが、丹生峠道は歩かれている感じはない。櫛田川に向かう沢筋の道はどこが道だかわからない所も多い。道沿いに「南無阿弥」と読める石仏があり、行き倒れの旅人の供養のために残されたようだ。林道に合流する手前には「右にゅうみち」の道標があり、下りきった県道沿いには「左丹生大師道」の大きな道標がある。歩かれなくなった道からは想像もつかないが、これらの石碑が当時の賑わいを感じさせてくれる。
奈良の大仏の金メッキの材料のほとんどが丹生の水銀だったように古代より水銀採掘がされており顔料や防腐剤、薬に使われていた。中世以来、射和では水銀を加工して軽粉を造り、中世には水銀座が設けられ販売を独占し繁栄を極めた。さらに伊勢神宮の御師が土産として各地に配ったことで伊勢白粉として全国に広まった。射和と丹生鉱山のある丹生を結ぶのが丹生峠で、水銀を射和に運ぶ大動脈として地図にも大きく記載されている。
林道入口から西ノ城(P216)より東北東に伸びる尾根の末端から取りつく、炭窯跡や溝道もあり歩かれていた道のようだ。山頂手前の広くなった所はマエヤマと言い、山頂が「西ノ城跡東」で多気トンネルを越えた所に「西ノ城跡西」があり、南の谷は字悪城谷と呼ばれている。西ノ城も中世の城で、近長谷城と同じく丹生を守るために配置されている。
西ノ城から丹生峠への稜線には卯山や丹生峠山といった山名があり、ここにも目印の大木があった。峠から丹生につながる道を下り、途中から駐車地に向かう送電線下の実線道を目指してトラバースしていくが、道はなく高速道路が作られた後に放置されたようだ。高速道の側道を少し歩き田んぼ道の近長谷寺に向かう道に入る。この道が地元の人が言っていた丹生からの参拝道で、途中で近長谷寺への車道に合流した。
【山 域】南伊勢
【コース】7:15近長谷寺---9:35丹生峠---10:00県道---10:35西ノ城---12:40近長谷寺
【メンバー】単独
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.490146/13 ... z0r0s0m0f1
古道歩きも後半にさしかかってきて、情報の少ない峠が残り近長谷寺のある城山、丹生峠、西ノ城跡を探ることにした。起点の丹生山近長谷寺は仁和元年(885年)に創建され、本尊の十一面観音は6.6mの直立の巨像で右手に錫杖を持った大和長谷寺の元型を感じさせる素朴さと力強さを兼ね備えた平安後期の仏像だ。現在は毎週日曜日に長谷集落の人たちが輪番で世話をしてくれており、集落の人の葬式では近長谷寺の大日如来に全員でお参りする風習は今でも続いている。
白阻山(P256)手前の茶臼山砦(260m)を見に金剛座寺につながるトラバース道を行くと、三疋田から上がってくる道の分岐に上部に仏像が彫られた金剛座寺参道の道標があった。道横の小高い丘が砦で、この付近には掘割がいくつも残っていることから近長谷城と金剛座寺をつなぐ稜線が戦いの砦と化していたようだ。近長谷寺裏の城山(P291)には南北朝時代に近長谷城があり伊勢神宮外宮禰宜の度会家行が河内の楠木正行の恭兵に呼応して築城した。近長谷寺の参道口には鳥居があり、寺裏の神社の祠や山頂の石積みの祠跡があるのもその名残だろう。近長谷寺の大日如来(平安中期)が智拳印を結んだ金剛界大日如来なのも外宮との関係によるもので、両部神道では天照大神の本地仏は大日如来とされ、内宮を胎蔵界大日如来、外宮を金剛界大日如来として礼拝されており、この影響と考えられる。ただ、寺裏や山頂の祠は明治の神仏分離により佐那神社に合祀された。城山からは昔は熊野街道をはさんで国束山が正面に見えたようだが、今は竹やぶで見る影もない。
近長谷寺の庫裏から続く道を進むとすぐに林道に出るが、丹生峠への道は無さそうだ。ヤブをかき分けてP256まで竹やぶを我慢して上ると歩きやすくなり、稜線上に目印の大木が何本も残されているので昔は歩かれていた道のようだ。最後は沢沿いに下って丹生峠に下りたが、丹生峠道は歩かれている感じはない。櫛田川に向かう沢筋の道はどこが道だかわからない所も多い。道沿いに「南無阿弥」と読める石仏があり、行き倒れの旅人の供養のために残されたようだ。林道に合流する手前には「右にゅうみち」の道標があり、下りきった県道沿いには「左丹生大師道」の大きな道標がある。歩かれなくなった道からは想像もつかないが、これらの石碑が当時の賑わいを感じさせてくれる。
奈良の大仏の金メッキの材料のほとんどが丹生の水銀だったように古代より水銀採掘がされており顔料や防腐剤、薬に使われていた。中世以来、射和では水銀を加工して軽粉を造り、中世には水銀座が設けられ販売を独占し繁栄を極めた。さらに伊勢神宮の御師が土産として各地に配ったことで伊勢白粉として全国に広まった。射和と丹生鉱山のある丹生を結ぶのが丹生峠で、水銀を射和に運ぶ大動脈として地図にも大きく記載されている。
林道入口から西ノ城(P216)より東北東に伸びる尾根の末端から取りつく、炭窯跡や溝道もあり歩かれていた道のようだ。山頂手前の広くなった所はマエヤマと言い、山頂が「西ノ城跡東」で多気トンネルを越えた所に「西ノ城跡西」があり、南の谷は字悪城谷と呼ばれている。西ノ城も中世の城で、近長谷城と同じく丹生を守るために配置されている。
西ノ城から丹生峠への稜線には卯山や丹生峠山といった山名があり、ここにも目印の大木があった。峠から丹生につながる道を下り、途中から駐車地に向かう送電線下の実線道を目指してトラバースしていくが、道はなく高速道路が作られた後に放置されたようだ。高速道の側道を少し歩き田んぼ道の近長谷寺に向かう道に入る。この道が地元の人が言っていた丹生からの参拝道で、途中で近長谷寺への車道に合流した。
【南伊勢】古道歩きも楽じゃない 近長谷寺・丹生峠・西ノ城