【南アルプス】 灼熱の夏空の下、岩礫に試され、花々に和まされ、絶景にこころ震えた鋸岳への旅
Posted: 2025年9月02日(火) 17:17
【日 付】 2025年7月29,30日
【山 域】 南アルプス鋸岳周辺
【天 候】 晴れ
【メンバー】 夫 sato
【コース】 29日 戸台~角兵衛沢出合と熊穴沢出合の中間地あたりの戸台川の河原
30日 テント場~熊穴沢~中ノ川乗越~第二高点~鹿窓~第一高点~角兵衛のコル~角兵衛沢~テント場~戸台
シャボン玉のように、ふうっと浮かび上がり、煌めく光でドキドキさせては、ぱちっと消えてしまう。
恋焦がれるとまではいかないけれど、あぁいいなぁと思い、行こうと思い立っては、諸事情によって諦めてしまっている山がいくつもある。
暑い暑い今年の夏の7月の終わり、そのように浮かんでは消えていたひとつの山がふたたび浮かび上がった。
でも今度は消えることなく現実味を帯びた強い光で呼びかけてくる。鋸岳だ。
泊まりの仕事が中止になってしまい、時間が出来た夫が、アルプスに行こうと声を掛けてくれ、
夏山最盛期のこの時期でも静かな山ということで提案してくれたのだった。
鋸岳は、夫にとっても頭の片隅に置かれ続けている山だという。天気予報を見ると、29,30日とも天気は安定している。
いよいよ訪れる日が来たのだ。浮かび上がった光を手のひらでしっかりと包みこむ。
29日。朝ゆっくりと家を出て、14時前に北沢峠行きのバスが出る戸台パークに着くと、
この先一般車両通行止め進入禁止の看板は見あたらず、戸台まで入れそうだった。
丹渓新道入り口までバスに乗り、戸台川に下る予定だったが、戸台に車を停められたら帰りが楽になる。
バスの出る14時20分までまだ時間がある。駄目だったら戻ろうとそのまま進ん行くと、戸台まで何の看板も無くすんなりと行けた。
河原へと下る手前に3台くらいの車が置けるスペースがあったので、そこに停めさせていただく。
リュックを背負って河原に出ると、きれいに整地された道が目に飛び込んだ。
何年か前の大雨で、この一帯は土石流に埋まってしまい護岸工事が進められている。
10年ちょっと前の冬、行きはよいよい帰りはこわいで、甲斐駒ヶ岳と仙丈ケ岳に登った帰り、
疲れ切った足をため息をつきながら持ち上げ、ごろごろ積み重なる岩を踏みしめながら戸台へと戻っていった日のことを思い出し、
歩きやすくなって助かったね、と頷き合いながら上流へと向かっていく。発電所のあたりまで、右岸に道は出来ていた。
その先は、薄っすらと残る記憶の風景を辿りながら、ごろごろの河原や木立の中を進んで行く。
ギラギラと照りつける陽射しで、全身から汗が吹き出してとまらない。白い岩の上にぽたぽたと黒い粒が描かれていく。
左岸に渡り、暑さで顔が火照り頭がぼおっとしかけた時、角兵衛沢出合の看板が現れ、少し先に水の流れる枝谷が見えた。
幕営適地が見つかりほっとする。
テントを張り、荷物の整理を終えた後、サンダルを履いて川を渡り、熊穴沢入り口の確認をしに行く。
崩壊した岩石と倒木で埋まった伏流の谷を見上げ、歩けるのだろうかと思ったが、木々が生い茂った左の斜面は登っていけそうだ。
29年前のガイドブックだけど『アルペンガイド南アルプス』にも、「沢とおしに登り、左寄りの樹林帯に入る」と書いてある。
「大丈夫。10年前にも登ったし。怖いとも思わなかった」
夫の朗らかな声で、緑の斜面にくねくねとしたルートが見えてくる。
「明日が楽しみだね」
渡渉地点に木の枝を立てて、テントに戻る。
30日。コーヒーを飲み、ちょこっとパンを食べて、4時半に、リュックに登山靴を入れサンダルを履いて出発。
渡渉した後、サンダルをビニール袋に入れて木の枝にぶら下げておく。昨日確認していたので、渡渉も取り付きもスムーズだった。
樹林帯を少し登ると踏み跡が出てきたので辿っていく。でもしばらく進むと消えてしまう。
だだっ広い針葉樹の森。左に寄り過ぎないように注意しながら登っていくが、歩きやすいところを選んで歩いたら左に逸れていた。
地図とGPSを見て修正しながら歩みを進めるが、ところどころガレ場もあり、そちらがルートのように見えてしまったりして、
ルートファインディングに神経を使う。
標高1700mを越えたあたりで大きなガレ場に出た。左の谷は鹿窓の方に突き上げるので右の岩礫の谷に向かう。
右俣の終わりはVの字に切れ込み、左にそそり立つ崖が朝の光を浴び、赤褐色に輝いている。あそこが中ノ川乗越だ。
わぁ高揚感に包まれたが、「まだまだ遠いなぁ」という夫の声に我に返る。GPSを見ると、まだ標高差は500m以上ある。
スケールが大きくて距離感がつかめない。夫が言うように、ここからが長くてより神経も使わされた。
谷は岩礫で見事に埋め尽くされていて、少しでも安全と思われるところを選んで一歩を踏み出すが、
踏んだ岩全てが不安定で不気味な音を立てて動く。手で岩を抑えながら、そろ、そろ、そろとしか進めない。
高度を上げるにつれて斜度も増し、四つ足歩行でしか歩けなくなる。
最後は左側に逃げ、草を掴んで崖の際を登り、飛び出した大きな岩を剥がれないか確認しながらおそるおそる越えて、
また四つ足歩行になる。8時25分、やっとのことで2485mの鞍部に出た。
シャツの袖で額ににじんだ汗を拭い、早くも痛い位の熱を発している青天を見上げ、「ふぅ」と大きく息を吐く。
ガラガラの谷を登り切った安堵感と、この先はどうなっているのだろうというドキドキ感、
もし行き詰って戻りこの谷を下ることになったらという不安感が入り混じり、そのまま立ち尽くしてしまう。
「朝ごはんにしよ~」
少し離れた場所で景色に見入っていた夫が、大切なことに気づいたという勢いでやって来る。
あらゆる状況を想定し考えることは大切だけど、心配性すぎるのも困る。夫の明るい声が、余計な不安を吹き払ってくれた。
お腹が満たされた後、ロープの確認をして、ハーネスを装着して第二高点へと向かう。標高差200メートル弱。
草付きとガレのルンゼを登っていくが、ここは踏み跡があるので登りやすい。
岩陰には、大好きなミネウスユキソウ、そして、鮮やかなピンク色のお花が咲いている。タカネビランジだ!
憧れのお花にこんなところで出会えるとは。わぁっと感激して、ぐんと力が出る。
振り返ると、甲斐駒が、北岳が、仙丈が青く輝いている。
あぁ素敵、あぁ素晴らしいと感激しているうちに鉄剣が祀られている第二高点に到着した。
剣と共に眺め入るアルプスの峰々は思わず手を合わせてしまう神々しさ。
第一高点鋸岳本峰は、思ったよりもこじんまりとしていて、近くに見える。ここから2時間もかかるようには思えない。
でも、ここからが核心部だという。
稜線は大ギャップがあり、完全な登攀となるので、信州側を大ギャップ底から落ちるガレ場まで下り、
岩壁をトラバースしながら鹿窓のあるルンゼに登っていくという。
夫の記憶、古いガイドブックの説明に従い10mほど戻ると、信州側の尾根に踏み跡があり、ここだねと言いながら下っていく。
急坂だが、うつくしいダケカンバが立ち並ぶ樹林帯で、幹を掴みながら下れるので安心感がある。
でも下った先は絶壁。どこを歩くのだろうと目を凝らすと、ほとんど垂直の壁に細い鎖が垂れ下がっている。
あそこを登るの?とギョッとなる。これも目の錯覚で、ガレ場から見上げると傾斜は緩んだが、足を滑らせたら最後、
どこまでも落ちていきそうな岩壁だ。
岩壁は、足場はあるが高度感があり緊張する。
鎖のラインは脆そうな岩の直登なので、草付きまでトラバースして登った方が安全だと思い、バンドに沿って左に逃げる。
ここが鹿窓ルンゼ。ガラガラの急斜面を登っていくと、ルンゼの終点で立ち憚るように鎮座するごつごつとした岩の塊に、
ちいさなが穴が開いているのが見えた。鹿窓だ。なんとも不思議で魅惑的な自然の造形。
青い青い空が覗くちいさな穴は、何かの門の入り口であり出口でもあるように見える。そこに近づいていくのだ、と胸が高鳴る。
しかし、この登りも不安定な岩ばかりで神経を使う。掴んだ岩は剥がれ落ちるし、足元の石は転がり落ちる。
緊張が途切れるのを許さない。鹿窓直下は鎖があるが、岩は少し斜めになっていて、脆くて崩れるので細心の注意を払う。
門を前に、お山の神様からこころを試されているように感じる。
「ちょっと待って」
稜線に出た夫から声がかかり、ロープを垂らしてくれる。意地を張ることはない。頼れるものは頼ろう。ありがたく確保してもらう。
鹿窓から第一高点へは、小ギャップの岩壁が待っている。下降場所には鎖があるが、岩が脆そうなので、右の草付きを選ぶ。
安全確保でロープを使って下っていく。登りはほとんど垂直の岩壁で、ここも鎖がかけられている。
クライミングをしている人にとっては何ということはない壁なのだろうが、少しオーバーハングになっている箇所があるので、
先に登った夫がまたロープを垂らしてくれる。
ギャップを越えた先は普通に歩ける。最後は、展望を楽しみながらハイマツの尾根を登っていく。
11時30分、遮るものがない大絶景の2685mの山頂に到着した。第二高点からやはり2時間ほどかかった。
ヒヤヒヤの難所続き。近くに見えて遠かった。
夏山最盛期の澄み渡った青空が広がる申し分のないお天気の日、ここまで誰にも会わず、山頂も誰もいない。
正午過ぎまで、光溢れる静かな頂の至福の時を楽しむ。
ぐるりとひと回りして風景を目に焼き付け、角兵衛沢コルへと向かう。
ここも急坂だが、しっかりとした道があり、今までの道のりを思えば楽。130mあまりぐんぐんと下っていく。
左側の木立の間を注意して見ていると角兵衛沢入り口の踏み跡があり、辿っていくとガレ場に出た。
うっすらと踏み跡は続いている。踏み跡は石が踏み固められいて歩きやすい。よかった、とほっとする。
が、少し進むと消えてしまい、熊穴沢と同様、ガレとの忍耐の時間となった。
足を置く度にガラガラ崩れる石にうんざりしてくる。するとタカネビランジが現れた。花は道しるべのように点々と現れる。
過酷な環境で生を謳歌する健気で可憐なタカネビランジに励まされ、よし頑張ろう、と大汗を拭う。
角兵衛沢のガレ場は夫も初めて。たまに出てくるピンクテープで方向を確認しながら、そろ、そろ、ふぅ、そろと下っていく。
標高2050mあたりで踏み跡が現れ、普通に歩けるようになる。大岩下ノ岩小屋と呼ばれる大岩と水場への分岐は見過ごしてしまった。
2000mを切る辺りで樹林帯に入ると、しっかりとした道になりピンクテープも頻繁に見られるようになる。
暑くて疲れも溜まっているが、早くテント場に着きたくてペースが上がる。
傾斜が緩くなり、もう少しで河原というところで夫が立ち止まった。
「多分、ここだと思う。この踏み跡に誘導されて熊穴沢に行ってしまった」と言い、
「これで謎が解けた。来てよかった」と笑う。
10年前、戸台から鋸岳~甲斐駒ヶ岳~仙丈ケ岳周回の山旅に出かけ、
角兵衛沢から第一高点を目指したはずだったのに熊穴沢に出てしまい、引き返すのが面倒でそのまま登り、
中川乗越にテント等の要らない荷物を置いて第一高点を往復したという。
角兵衛沢出合に着いた時、まだ暗くて、GPSも持っていなかったので、暫く間違いに気づかなかったそうだ。
「そうかぁ。謎が解けてよかったね。私は鋸岳を縦走周回できてよかったよ」
よかった、よかったと笑いながら、河原に出た。
少し上流に向かい、サンダルを取りに行く。登山靴を脱いでサンダルに履き替え、水の中に足をつける。
ひやりとして気持ちいい。テントが見えた。
15時40分。河原にポツンと置かれたテントに汗ダクダクで戻ってきた。
「どうする?」
「ちょっと休憩して帰ろうか」
夫は宿題が片付き晴れ晴れとし、今度は山頂で受信した仕事のメールが気になっているようだ。
2泊分の食糧を準備してきたので、河原で足を浸し、やっと訪れることが出来、頑張って歩いた鋸岳を眺めながら、
まったりしあわせな時間を過ごしたいなと思ったが、まぁいいか温泉で汗を流せるしと思い直し、「うん、帰ろう」と相槌を打つ。
パッキングを済ませ出発する前に、もう一度、河原の向こうにそびえ立つ旅してきた鋸岳の岩肌をむきだしたギザギザの山容を、
汗がしたたりひりひりした目でゆっくりとなぞり、目を閉じ手を合わせる。
ひと呼吸して目を開けて、適当に物を押し込んで行きより膨らんだリュックをよいしょと背負い、
まだまだ熱を発している白い雲が描かれた青い青い空を見上げ、
「暑いなぁ」と言いながら、愛車が待つ戸台へとごつごつした白い河原を下っていく。
sato
【山 域】 南アルプス鋸岳周辺
【天 候】 晴れ
【メンバー】 夫 sato
【コース】 29日 戸台~角兵衛沢出合と熊穴沢出合の中間地あたりの戸台川の河原
30日 テント場~熊穴沢~中ノ川乗越~第二高点~鹿窓~第一高点~角兵衛のコル~角兵衛沢~テント場~戸台
シャボン玉のように、ふうっと浮かび上がり、煌めく光でドキドキさせては、ぱちっと消えてしまう。
恋焦がれるとまではいかないけれど、あぁいいなぁと思い、行こうと思い立っては、諸事情によって諦めてしまっている山がいくつもある。
暑い暑い今年の夏の7月の終わり、そのように浮かんでは消えていたひとつの山がふたたび浮かび上がった。
でも今度は消えることなく現実味を帯びた強い光で呼びかけてくる。鋸岳だ。
泊まりの仕事が中止になってしまい、時間が出来た夫が、アルプスに行こうと声を掛けてくれ、
夏山最盛期のこの時期でも静かな山ということで提案してくれたのだった。
鋸岳は、夫にとっても頭の片隅に置かれ続けている山だという。天気予報を見ると、29,30日とも天気は安定している。
いよいよ訪れる日が来たのだ。浮かび上がった光を手のひらでしっかりと包みこむ。
29日。朝ゆっくりと家を出て、14時前に北沢峠行きのバスが出る戸台パークに着くと、
この先一般車両通行止め進入禁止の看板は見あたらず、戸台まで入れそうだった。
丹渓新道入り口までバスに乗り、戸台川に下る予定だったが、戸台に車を停められたら帰りが楽になる。
バスの出る14時20分までまだ時間がある。駄目だったら戻ろうとそのまま進ん行くと、戸台まで何の看板も無くすんなりと行けた。
河原へと下る手前に3台くらいの車が置けるスペースがあったので、そこに停めさせていただく。
リュックを背負って河原に出ると、きれいに整地された道が目に飛び込んだ。
何年か前の大雨で、この一帯は土石流に埋まってしまい護岸工事が進められている。
10年ちょっと前の冬、行きはよいよい帰りはこわいで、甲斐駒ヶ岳と仙丈ケ岳に登った帰り、
疲れ切った足をため息をつきながら持ち上げ、ごろごろ積み重なる岩を踏みしめながら戸台へと戻っていった日のことを思い出し、
歩きやすくなって助かったね、と頷き合いながら上流へと向かっていく。発電所のあたりまで、右岸に道は出来ていた。
その先は、薄っすらと残る記憶の風景を辿りながら、ごろごろの河原や木立の中を進んで行く。
ギラギラと照りつける陽射しで、全身から汗が吹き出してとまらない。白い岩の上にぽたぽたと黒い粒が描かれていく。
左岸に渡り、暑さで顔が火照り頭がぼおっとしかけた時、角兵衛沢出合の看板が現れ、少し先に水の流れる枝谷が見えた。
幕営適地が見つかりほっとする。
テントを張り、荷物の整理を終えた後、サンダルを履いて川を渡り、熊穴沢入り口の確認をしに行く。
崩壊した岩石と倒木で埋まった伏流の谷を見上げ、歩けるのだろうかと思ったが、木々が生い茂った左の斜面は登っていけそうだ。
29年前のガイドブックだけど『アルペンガイド南アルプス』にも、「沢とおしに登り、左寄りの樹林帯に入る」と書いてある。
「大丈夫。10年前にも登ったし。怖いとも思わなかった」
夫の朗らかな声で、緑の斜面にくねくねとしたルートが見えてくる。
「明日が楽しみだね」
渡渉地点に木の枝を立てて、テントに戻る。
30日。コーヒーを飲み、ちょこっとパンを食べて、4時半に、リュックに登山靴を入れサンダルを履いて出発。
渡渉した後、サンダルをビニール袋に入れて木の枝にぶら下げておく。昨日確認していたので、渡渉も取り付きもスムーズだった。
樹林帯を少し登ると踏み跡が出てきたので辿っていく。でもしばらく進むと消えてしまう。
だだっ広い針葉樹の森。左に寄り過ぎないように注意しながら登っていくが、歩きやすいところを選んで歩いたら左に逸れていた。
地図とGPSを見て修正しながら歩みを進めるが、ところどころガレ場もあり、そちらがルートのように見えてしまったりして、
ルートファインディングに神経を使う。
標高1700mを越えたあたりで大きなガレ場に出た。左の谷は鹿窓の方に突き上げるので右の岩礫の谷に向かう。
右俣の終わりはVの字に切れ込み、左にそそり立つ崖が朝の光を浴び、赤褐色に輝いている。あそこが中ノ川乗越だ。
わぁ高揚感に包まれたが、「まだまだ遠いなぁ」という夫の声に我に返る。GPSを見ると、まだ標高差は500m以上ある。
スケールが大きくて距離感がつかめない。夫が言うように、ここからが長くてより神経も使わされた。
谷は岩礫で見事に埋め尽くされていて、少しでも安全と思われるところを選んで一歩を踏み出すが、
踏んだ岩全てが不安定で不気味な音を立てて動く。手で岩を抑えながら、そろ、そろ、そろとしか進めない。
高度を上げるにつれて斜度も増し、四つ足歩行でしか歩けなくなる。
最後は左側に逃げ、草を掴んで崖の際を登り、飛び出した大きな岩を剥がれないか確認しながらおそるおそる越えて、
また四つ足歩行になる。8時25分、やっとのことで2485mの鞍部に出た。
シャツの袖で額ににじんだ汗を拭い、早くも痛い位の熱を発している青天を見上げ、「ふぅ」と大きく息を吐く。
ガラガラの谷を登り切った安堵感と、この先はどうなっているのだろうというドキドキ感、
もし行き詰って戻りこの谷を下ることになったらという不安感が入り混じり、そのまま立ち尽くしてしまう。
「朝ごはんにしよ~」
少し離れた場所で景色に見入っていた夫が、大切なことに気づいたという勢いでやって来る。
あらゆる状況を想定し考えることは大切だけど、心配性すぎるのも困る。夫の明るい声が、余計な不安を吹き払ってくれた。
お腹が満たされた後、ロープの確認をして、ハーネスを装着して第二高点へと向かう。標高差200メートル弱。
草付きとガレのルンゼを登っていくが、ここは踏み跡があるので登りやすい。
岩陰には、大好きなミネウスユキソウ、そして、鮮やかなピンク色のお花が咲いている。タカネビランジだ!
憧れのお花にこんなところで出会えるとは。わぁっと感激して、ぐんと力が出る。
振り返ると、甲斐駒が、北岳が、仙丈が青く輝いている。
あぁ素敵、あぁ素晴らしいと感激しているうちに鉄剣が祀られている第二高点に到着した。
剣と共に眺め入るアルプスの峰々は思わず手を合わせてしまう神々しさ。
第一高点鋸岳本峰は、思ったよりもこじんまりとしていて、近くに見える。ここから2時間もかかるようには思えない。
でも、ここからが核心部だという。
稜線は大ギャップがあり、完全な登攀となるので、信州側を大ギャップ底から落ちるガレ場まで下り、
岩壁をトラバースしながら鹿窓のあるルンゼに登っていくという。
夫の記憶、古いガイドブックの説明に従い10mほど戻ると、信州側の尾根に踏み跡があり、ここだねと言いながら下っていく。
急坂だが、うつくしいダケカンバが立ち並ぶ樹林帯で、幹を掴みながら下れるので安心感がある。
でも下った先は絶壁。どこを歩くのだろうと目を凝らすと、ほとんど垂直の壁に細い鎖が垂れ下がっている。
あそこを登るの?とギョッとなる。これも目の錯覚で、ガレ場から見上げると傾斜は緩んだが、足を滑らせたら最後、
どこまでも落ちていきそうな岩壁だ。
岩壁は、足場はあるが高度感があり緊張する。
鎖のラインは脆そうな岩の直登なので、草付きまでトラバースして登った方が安全だと思い、バンドに沿って左に逃げる。
ここが鹿窓ルンゼ。ガラガラの急斜面を登っていくと、ルンゼの終点で立ち憚るように鎮座するごつごつとした岩の塊に、
ちいさなが穴が開いているのが見えた。鹿窓だ。なんとも不思議で魅惑的な自然の造形。
青い青い空が覗くちいさな穴は、何かの門の入り口であり出口でもあるように見える。そこに近づいていくのだ、と胸が高鳴る。
しかし、この登りも不安定な岩ばかりで神経を使う。掴んだ岩は剥がれ落ちるし、足元の石は転がり落ちる。
緊張が途切れるのを許さない。鹿窓直下は鎖があるが、岩は少し斜めになっていて、脆くて崩れるので細心の注意を払う。
門を前に、お山の神様からこころを試されているように感じる。
「ちょっと待って」
稜線に出た夫から声がかかり、ロープを垂らしてくれる。意地を張ることはない。頼れるものは頼ろう。ありがたく確保してもらう。
鹿窓から第一高点へは、小ギャップの岩壁が待っている。下降場所には鎖があるが、岩が脆そうなので、右の草付きを選ぶ。
安全確保でロープを使って下っていく。登りはほとんど垂直の岩壁で、ここも鎖がかけられている。
クライミングをしている人にとっては何ということはない壁なのだろうが、少しオーバーハングになっている箇所があるので、
先に登った夫がまたロープを垂らしてくれる。
ギャップを越えた先は普通に歩ける。最後は、展望を楽しみながらハイマツの尾根を登っていく。
11時30分、遮るものがない大絶景の2685mの山頂に到着した。第二高点からやはり2時間ほどかかった。
ヒヤヒヤの難所続き。近くに見えて遠かった。
夏山最盛期の澄み渡った青空が広がる申し分のないお天気の日、ここまで誰にも会わず、山頂も誰もいない。
正午過ぎまで、光溢れる静かな頂の至福の時を楽しむ。
ぐるりとひと回りして風景を目に焼き付け、角兵衛沢コルへと向かう。
ここも急坂だが、しっかりとした道があり、今までの道のりを思えば楽。130mあまりぐんぐんと下っていく。
左側の木立の間を注意して見ていると角兵衛沢入り口の踏み跡があり、辿っていくとガレ場に出た。
うっすらと踏み跡は続いている。踏み跡は石が踏み固められいて歩きやすい。よかった、とほっとする。
が、少し進むと消えてしまい、熊穴沢と同様、ガレとの忍耐の時間となった。
足を置く度にガラガラ崩れる石にうんざりしてくる。するとタカネビランジが現れた。花は道しるべのように点々と現れる。
過酷な環境で生を謳歌する健気で可憐なタカネビランジに励まされ、よし頑張ろう、と大汗を拭う。
角兵衛沢のガレ場は夫も初めて。たまに出てくるピンクテープで方向を確認しながら、そろ、そろ、ふぅ、そろと下っていく。
標高2050mあたりで踏み跡が現れ、普通に歩けるようになる。大岩下ノ岩小屋と呼ばれる大岩と水場への分岐は見過ごしてしまった。
2000mを切る辺りで樹林帯に入ると、しっかりとした道になりピンクテープも頻繁に見られるようになる。
暑くて疲れも溜まっているが、早くテント場に着きたくてペースが上がる。
傾斜が緩くなり、もう少しで河原というところで夫が立ち止まった。
「多分、ここだと思う。この踏み跡に誘導されて熊穴沢に行ってしまった」と言い、
「これで謎が解けた。来てよかった」と笑う。
10年前、戸台から鋸岳~甲斐駒ヶ岳~仙丈ケ岳周回の山旅に出かけ、
角兵衛沢から第一高点を目指したはずだったのに熊穴沢に出てしまい、引き返すのが面倒でそのまま登り、
中川乗越にテント等の要らない荷物を置いて第一高点を往復したという。
角兵衛沢出合に着いた時、まだ暗くて、GPSも持っていなかったので、暫く間違いに気づかなかったそうだ。
「そうかぁ。謎が解けてよかったね。私は鋸岳を縦走周回できてよかったよ」
よかった、よかったと笑いながら、河原に出た。
少し上流に向かい、サンダルを取りに行く。登山靴を脱いでサンダルに履き替え、水の中に足をつける。
ひやりとして気持ちいい。テントが見えた。
15時40分。河原にポツンと置かれたテントに汗ダクダクで戻ってきた。
「どうする?」
「ちょっと休憩して帰ろうか」
夫は宿題が片付き晴れ晴れとし、今度は山頂で受信した仕事のメールが気になっているようだ。
2泊分の食糧を準備してきたので、河原で足を浸し、やっと訪れることが出来、頑張って歩いた鋸岳を眺めながら、
まったりしあわせな時間を過ごしたいなと思ったが、まぁいいか温泉で汗を流せるしと思い直し、「うん、帰ろう」と相槌を打つ。
パッキングを済ませ出発する前に、もう一度、河原の向こうにそびえ立つ旅してきた鋸岳の岩肌をむきだしたギザギザの山容を、
汗がしたたりひりひりした目でゆっくりとなぞり、目を閉じ手を合わせる。
ひと呼吸して目を開けて、適当に物を押し込んで行きより膨らんだリュックをよいしょと背負い、
まだまだ熱を発している白い雲が描かれた青い青い空を見上げ、
「暑いなぁ」と言いながら、愛車が待つ戸台へとごつごつした白い河原を下っていく。
sato
何年か前の大雨で、この一帯は土石流に埋まってしまい護岸工事が進められている。