【高見山地】太陽の道と堀坂山
Posted: 2024年2月05日(月) 04:56
【日 付】2024年2月3日(土)
【山 域】高見山地
【コース】浄眼寺駐車場8:35---10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山---14:30浄眼寺駐車場
【メンバー】単独
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置している。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
北畠氏の菩提寺である浄眼寺に駐車する。北畠当主より発給された文書など南北朝時代の多くの文化財が残っている。阿坂城のハイキングコースを歩く。阿坂城は北畠親房が築城し羽柴秀吉により落城するまで217年の歴史があり、南伊勢の入口と多気への入口を監視できる場所になる。城までコースに着かず離れずといった感じで昔の溝道が続いていおり、城には虎口や土塁や堀が残っている。城からは伊勢平野と伊勢湾が見え、西には矢頭山が構えている。
尾根筋の道は自然林が残っており明るく、「鈴の音アルプス」とマジックで書かれたピンクテープが時たま現れる。枳峠は以前は車道があったような5mの切通があるが、今は見る影もない。峠は森本城のあった向山と阿坂を結んでおり、東に下った所に枳城がある。阿坂城から1km離れており、峠の守りとして置かれたのかもしれない。森本城は一志米輸送路線の監視、防衛のために築かれたので、森本城―阿坂城から続く尾根筋を守っていたのだろう。
鉢ヶ峰を越えると岩内方面からの溝道が現れる。北畠13人衆の一人になる岩内氏の岩内城と岩内御所が谷を下った瑞巌寺のあたりにあり、山を越えれば森本城につながる。日川富士に立ち寄って、下ると日川峠でこちらは岩内と与原をつなぐ峠になっている。鈴の音アルプスは北畠氏にとって前線基地となる山脈で、城や集落をつなぐ山越えの道もいくつかあったようだ。
観音岳からは掘坂山と神島が見えた。下りきると堀坂峠で、昔は与原峠と言ったようで本居宣長が吉野の帰路に歩いた道が残っている。松阪と多気を結ぶ最短の峠路になる。
掘坂大権現の鳥居を通り登山道を歩く。整備された道を歩いていくと立派な大日如来の銅像がある。背中には延宝8年(1680)とある。元号が変わった1674年以降、延宝3年「宮川増水の為渡船転覆して百余人溺死す」延宝7年「大雨洪水、十ヶ年未聞の高水」など次々起こる災害の鎮めを願ったのか。藤堂藩お抱えの鋳物師藤原秀種の作で、寄進をした周辺住民の思いが込められている。側には役行者と不動明王の石像もあり神仏習合の密教の色合いが濃い。それぞれの石像にはしきみやみかんが進ぜられ、しめ縄が掛けられていた。古いしめ縄が捨てられてあったので、正月につけかえたようだ。仏像にしめ縄だが、とてもなじんでいる。
すぐに山頂で、大日如来の祠が日の出の方向に祀られていた。春分の日・秋分の日には神島より日が上り、矢頭山・倶留尊山に日が沈むことになる。来た道を堀坂峠まで戻り、デポしておいた自転車に乗る。大宮さんと書かれた鳥居があるので、ガードレールを越えて沢筋に下りると、お地蔵さんがあった。僧の形をした地蔵菩薩で、平安時代後期に流行ったようだ。錫杖と宝珠を持っているので地蔵菩薩に間違いないのだが、古い時代の形のようだ。橋を渡った先には大宮神社と彫られた石がありここにもしめ縄がかけられ地蔵菩薩にはみかんが供えてあった。
道を下ると峠路にあったであろう地蔵さんが道路端にかためられていた。この先には大日如来の石碑があり、しめ縄とみかんが供えてあった。掘坂山より森林公園に下る登山口には十五丁目の丁石があった。掘坂山は伊勢富士とも呼ばれた信仰の山で、参道には丁石が並んでいたのだろう。
高速道路を越えたあたりに灯篭や南無地蔵大菩薩と彫られた石塔に「左ほっさか右よこたき」の道標などが集められている。「ほっさか」は掘坂山(掘坂大権現)「よこたき」は横滝寺のことで信仰の地を示した道標だ。石灯籠を見ると掘坂大明神と彫られている。
伊勢寺神社に立ち寄ると鳥居の横に隠れるように「禁殺生」と彫られた古い石碑がある。見ると掘坂神社と書かれている。そして社殿の端に隠れるように大日如来の祠と金光の石碑が掘坂山を向いて立っていた。目の前に掘坂山が大きく構えるこの地の神社の名には掘坂神社がふさわしい。調べてみると掘坂神社は伊勢寺の魔ヶ谷にあり、岩内城のあたりにあった。創建は明らかではないが延喜式飯高9座のひとつであることや国分寺の旧記に行基菩薩徘徊の時、「掘坂神社はは森林繁茂して日の光漏れず」とあることから相当古くからあったものと考えられる。これだけ歴史のある神社が明治になって合祀の対象となり今の伊勢寺神社に合祀された。掘坂大明神と書かれた石灯籠や「禁殺生」の石碑に大日如来の祠などは魔ヶ谷の掘坂神社を閉社する際に移されたのだろう。
掘坂神社は、神仏習合の色濃い神社であったことと、大日如来を祀っていた事で明治政府に疎まれたようだ。天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に作られた国家神道にとって、天照大神の本地である大日如来は邪魔という事だ。本地垂迹説では、神道の神々は仏が化身として現れた姿であり、仏である大日如来が天照大神に姿を変えて現れたということになる。天照大神は仮の姿で、大日如来が本来の姿というのは到底受け入れられなかったようだ。太陽の道上にあり古代より信仰の対象であった掘坂山や掘坂神社の影響力が低下した背景なのだろう。こうした時代の流れを受けつつも、山麓の人々の信仰はいまなお続いている。
帰りに丹生寺の大日如来の石碑を見に行った。この地も太陽の道の線上にあり、神聖な場所なのだろうが、現在は明治に集められた山の神や庚申塚と一緒に固められていた。
【山 域】高見山地
【コース】浄眼寺駐車場8:35---10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山---14:30浄眼寺駐車場
【メンバー】単独
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置している。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
北畠氏の菩提寺である浄眼寺に駐車する。北畠当主より発給された文書など南北朝時代の多くの文化財が残っている。阿坂城のハイキングコースを歩く。阿坂城は北畠親房が築城し羽柴秀吉により落城するまで217年の歴史があり、南伊勢の入口と多気への入口を監視できる場所になる。城までコースに着かず離れずといった感じで昔の溝道が続いていおり、城には虎口や土塁や堀が残っている。城からは伊勢平野と伊勢湾が見え、西には矢頭山が構えている。
尾根筋の道は自然林が残っており明るく、「鈴の音アルプス」とマジックで書かれたピンクテープが時たま現れる。枳峠は以前は車道があったような5mの切通があるが、今は見る影もない。峠は森本城のあった向山と阿坂を結んでおり、東に下った所に枳城がある。阿坂城から1km離れており、峠の守りとして置かれたのかもしれない。森本城は一志米輸送路線の監視、防衛のために築かれたので、森本城―阿坂城から続く尾根筋を守っていたのだろう。
鉢ヶ峰を越えると岩内方面からの溝道が現れる。北畠13人衆の一人になる岩内氏の岩内城と岩内御所が谷を下った瑞巌寺のあたりにあり、山を越えれば森本城につながる。日川富士に立ち寄って、下ると日川峠でこちらは岩内と与原をつなぐ峠になっている。鈴の音アルプスは北畠氏にとって前線基地となる山脈で、城や集落をつなぐ山越えの道もいくつかあったようだ。
観音岳からは掘坂山と神島が見えた。下りきると堀坂峠で、昔は与原峠と言ったようで本居宣長が吉野の帰路に歩いた道が残っている。松阪と多気を結ぶ最短の峠路になる。
掘坂大権現の鳥居を通り登山道を歩く。整備された道を歩いていくと立派な大日如来の銅像がある。背中には延宝8年(1680)とある。元号が変わった1674年以降、延宝3年「宮川増水の為渡船転覆して百余人溺死す」延宝7年「大雨洪水、十ヶ年未聞の高水」など次々起こる災害の鎮めを願ったのか。藤堂藩お抱えの鋳物師藤原秀種の作で、寄進をした周辺住民の思いが込められている。側には役行者と不動明王の石像もあり神仏習合の密教の色合いが濃い。それぞれの石像にはしきみやみかんが進ぜられ、しめ縄が掛けられていた。古いしめ縄が捨てられてあったので、正月につけかえたようだ。仏像にしめ縄だが、とてもなじんでいる。
すぐに山頂で、大日如来の祠が日の出の方向に祀られていた。春分の日・秋分の日には神島より日が上り、矢頭山・倶留尊山に日が沈むことになる。来た道を堀坂峠まで戻り、デポしておいた自転車に乗る。大宮さんと書かれた鳥居があるので、ガードレールを越えて沢筋に下りると、お地蔵さんがあった。僧の形をした地蔵菩薩で、平安時代後期に流行ったようだ。錫杖と宝珠を持っているので地蔵菩薩に間違いないのだが、古い時代の形のようだ。橋を渡った先には大宮神社と彫られた石がありここにもしめ縄がかけられ地蔵菩薩にはみかんが供えてあった。
道を下ると峠路にあったであろう地蔵さんが道路端にかためられていた。この先には大日如来の石碑があり、しめ縄とみかんが供えてあった。掘坂山より森林公園に下る登山口には十五丁目の丁石があった。掘坂山は伊勢富士とも呼ばれた信仰の山で、参道には丁石が並んでいたのだろう。
高速道路を越えたあたりに灯篭や南無地蔵大菩薩と彫られた石塔に「左ほっさか右よこたき」の道標などが集められている。「ほっさか」は掘坂山(掘坂大権現)「よこたき」は横滝寺のことで信仰の地を示した道標だ。石灯籠を見ると掘坂大明神と彫られている。
伊勢寺神社に立ち寄ると鳥居の横に隠れるように「禁殺生」と彫られた古い石碑がある。見ると掘坂神社と書かれている。そして社殿の端に隠れるように大日如来の祠と金光の石碑が掘坂山を向いて立っていた。目の前に掘坂山が大きく構えるこの地の神社の名には掘坂神社がふさわしい。調べてみると掘坂神社は伊勢寺の魔ヶ谷にあり、岩内城のあたりにあった。創建は明らかではないが延喜式飯高9座のひとつであることや国分寺の旧記に行基菩薩徘徊の時、「掘坂神社はは森林繁茂して日の光漏れず」とあることから相当古くからあったものと考えられる。これだけ歴史のある神社が明治になって合祀の対象となり今の伊勢寺神社に合祀された。掘坂大明神と書かれた石灯籠や「禁殺生」の石碑に大日如来の祠などは魔ヶ谷の掘坂神社を閉社する際に移されたのだろう。
掘坂神社は、神仏習合の色濃い神社であったことと、大日如来を祀っていた事で明治政府に疎まれたようだ。天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に作られた国家神道にとって、天照大神の本地である大日如来は邪魔という事だ。本地垂迹説では、神道の神々は仏が化身として現れた姿であり、仏である大日如来が天照大神に姿を変えて現れたということになる。天照大神は仮の姿で、大日如来が本来の姿というのは到底受け入れられなかったようだ。太陽の道上にあり古代より信仰の対象であった掘坂山や掘坂神社の影響力が低下した背景なのだろう。こうした時代の流れを受けつつも、山麓の人々の信仰はいまなお続いている。
帰りに丹生寺の大日如来の石碑を見に行った。この地も太陽の道の線上にあり、神聖な場所なのだろうが、現在は明治に集められた山の神や庚申塚と一緒に固められていた。