【高見山地】剣ヶ峯城から杉峠を経て丹生俣筋
Posted: 2024年1月07日(日) 16:56
【日 付】2024年1月6日(土)
【山 域】高見山地
【コース】美杉道の駅駐車場8:00---10:30剣ヶ峯城跡---11:30杉峠---12:30美杉道の駅駐車場
【メンバー】単独
江戸時代に描かれた「多気城下絵図」には、峠に置かれた八つの番所とともに剣ヶ峯城という城が載っている。伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述があるが、近代になってその存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。地元の人たちもこの城の事は知らない。平成6、7年度に皇学館大学考古学研究会が再発見し測量を行った。平成11年5月には伊賀中世城館調査会によって測量図が発表され場所が確定した。P727の杉峠北峰の付近にあったようだ。今回は飼坂峠から尾根をつないで剣ヶ峯城跡を経て杉峠まで歩くことにした。
道の駅に車を置いて飼坂峠に向かう。坂の下の蔵のある屋敷を見ながら伊勢本街道の山道に入る。伐採された植林地を過ぎると飼坂峠で、番所が置かれていた。前に来た時は霧山城に向かう北の尾根を歩いたが、今日は南に向かう。植林の尾根筋に道は続いている。尾根は津市有林や複数の山林地主の境界になっており、境界杭や木に地主のマークがある。地元の小学校に通っていた同僚は小学校の遠足で飼坂峠から尾根通しで川上まで歩いたと言っていた。確かに尾根筋は広く歩きやすいが、植林は放置されたままで獣たちの幹線道路になっている。尾根からは大洞山と三多気集落がよく見える。
奥津と上多気から道が途中まで上がってきている鞍部に着くと10mの大きな切通しになっている。上多気側には九十九折れの道が続いている。植林をした段階では奥津と上多気はつながっていたようだが、今はまったく使われずに荒れ放題になっている。切通しの規模からして発破をかけたようだ。切通しを避けて獣道を使い尾根に復帰した。P639で尾根は南西に方向を変える。上多気から道が川上から破線道が途中まで上がってきている鞍部のあたりから林相が変わってくる。川上側の植林が間伐され枝打ちもされており、放置植林と違い気持ちが良い。テープもあるので、川上側の杣道は生きていてつながっていそうだ。
P727には「杉峠北峰 二の字山」「剣ヶ峰」という二つのプレートがかかっていた。このあたりに剣ヶ峯城があったようだ。正面に霧山城が構え飼坂番所を両側から挟み撃ち出来る場所になる。また、大和口の見つけ城というだけあって大和への玄関口の三多気も見通せる。土塁や堀切があるのだが植林になっていてよくわからない。ただ、ここまでの尾根に無かった大石が散乱しており土塁に使ったようだ。
杉峠に向かうが、杣道は川上側に下りるように導いてくる。杉トンネルが出来て杉峠に下りる人がいないのと小尾根がいくつかあって、2度ルートを修正した。杉峠が近づいてくると昔のテープがあらわれ直接峠に下りられた。道路は丹生俣から峠までは来ているが、川上側は昔の山道で車は通れない。峠には川上の若宮八幡宮の参詣道を示す道標がたてられていたので、小学校の遠足はここから川上に向かったのだろう。それにしても当時の小学生はよく歩く。
杉峠には杉峠番所が置かれていた。他の7つの番所が外部との境の峠に置かれているのに、ここだけが丹生俣と川上という多気の領域内の峠に番所が置かれていたので違和感を持っていた。杉峠番所は剣ヶ峯城の喉ぼとけに当たる場所で、城を守るために置かれたようだ。そして剣ヶ峯城は飼坂番所と杉峠番所をつなぐ形で建てられたようだ。麓の川上から高さにして400m以上あり攻めにくい場所だが、尾根筋は問題なく守りに適した城だったのだろう。
峠道を下ると杉トンネルが見えてきた。デポしておいた自転車に乗って西俣を下っていくと対岸に石垣道が続いており昔の杉峠越えの道だろう。八手俣川の本流に合流した所には自然石に彫られた「右 川上」の道標があった。しばらく走ると祠に石灰岩の自然石が祀られている。山の神で、山を越えた飯高や大台でも石灰岩を山の神として祀っている。よく見ると祠のまわりにも石灰岩がいくつか並んでいる。山の神をここに集めたようだ。山の神と彫られら石が集められているのは何度か見たことあるが、自然石の山の神が集められているのは初めて見た。
しばらく下ると、大師堂があり弘法大師が祀られている。弘法大師は空海の事で真言密教を開き修験道を確立させた人物だ。他にも古い地蔵や石灯篭などが集められている。中でも気になったのは僧侶の石像に「三丁目」と刻まれた丁石だった。密教では俗塵を離れた山岳に寺院を建て、修学研鑽の場としていた。参道が長いことから、伽藍まで何丁、奥院まで何丁と道標を兼ねて目的地までの距離を示すものが丁石と呼ばれる石造物だ。昔このあたりに修験の行場があり、時代が経てから散在していた石造物をここに集めた感じがする。その先には北畠氏の菩提寺であった松月院跡がある。本堂跡の上部には北畠氏の墓、地蔵や宝塔などが集められている。集められた地蔵の顔がすばらしい。どれもこれも人間味のある豊かな顔立ちをしている。
自転車で丹生俣を下ったが、とにかく修験の色が濃い。山の神、大師堂、松月院跡とめぐってきたが、花などが進ぜられており地元の人たちが暖かく見守ってくれているのがわかる。中世の歴史遺産が生活の中になじんでいる光景を見て、温かい気持ちで帰路についた。
【山 域】高見山地
【コース】美杉道の駅駐車場8:00---10:30剣ヶ峯城跡---11:30杉峠---12:30美杉道の駅駐車場
【メンバー】単独
江戸時代に描かれた「多気城下絵図」には、峠に置かれた八つの番所とともに剣ヶ峯城という城が載っている。伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述があるが、近代になってその存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。地元の人たちもこの城の事は知らない。平成6、7年度に皇学館大学考古学研究会が再発見し測量を行った。平成11年5月には伊賀中世城館調査会によって測量図が発表され場所が確定した。P727の杉峠北峰の付近にあったようだ。今回は飼坂峠から尾根をつないで剣ヶ峯城跡を経て杉峠まで歩くことにした。
道の駅に車を置いて飼坂峠に向かう。坂の下の蔵のある屋敷を見ながら伊勢本街道の山道に入る。伐採された植林地を過ぎると飼坂峠で、番所が置かれていた。前に来た時は霧山城に向かう北の尾根を歩いたが、今日は南に向かう。植林の尾根筋に道は続いている。尾根は津市有林や複数の山林地主の境界になっており、境界杭や木に地主のマークがある。地元の小学校に通っていた同僚は小学校の遠足で飼坂峠から尾根通しで川上まで歩いたと言っていた。確かに尾根筋は広く歩きやすいが、植林は放置されたままで獣たちの幹線道路になっている。尾根からは大洞山と三多気集落がよく見える。
奥津と上多気から道が途中まで上がってきている鞍部に着くと10mの大きな切通しになっている。上多気側には九十九折れの道が続いている。植林をした段階では奥津と上多気はつながっていたようだが、今はまったく使われずに荒れ放題になっている。切通しの規模からして発破をかけたようだ。切通しを避けて獣道を使い尾根に復帰した。P639で尾根は南西に方向を変える。上多気から道が川上から破線道が途中まで上がってきている鞍部のあたりから林相が変わってくる。川上側の植林が間伐され枝打ちもされており、放置植林と違い気持ちが良い。テープもあるので、川上側の杣道は生きていてつながっていそうだ。
P727には「杉峠北峰 二の字山」「剣ヶ峰」という二つのプレートがかかっていた。このあたりに剣ヶ峯城があったようだ。正面に霧山城が構え飼坂番所を両側から挟み撃ち出来る場所になる。また、大和口の見つけ城というだけあって大和への玄関口の三多気も見通せる。土塁や堀切があるのだが植林になっていてよくわからない。ただ、ここまでの尾根に無かった大石が散乱しており土塁に使ったようだ。
杉峠に向かうが、杣道は川上側に下りるように導いてくる。杉トンネルが出来て杉峠に下りる人がいないのと小尾根がいくつかあって、2度ルートを修正した。杉峠が近づいてくると昔のテープがあらわれ直接峠に下りられた。道路は丹生俣から峠までは来ているが、川上側は昔の山道で車は通れない。峠には川上の若宮八幡宮の参詣道を示す道標がたてられていたので、小学校の遠足はここから川上に向かったのだろう。それにしても当時の小学生はよく歩く。
杉峠には杉峠番所が置かれていた。他の7つの番所が外部との境の峠に置かれているのに、ここだけが丹生俣と川上という多気の領域内の峠に番所が置かれていたので違和感を持っていた。杉峠番所は剣ヶ峯城の喉ぼとけに当たる場所で、城を守るために置かれたようだ。そして剣ヶ峯城は飼坂番所と杉峠番所をつなぐ形で建てられたようだ。麓の川上から高さにして400m以上あり攻めにくい場所だが、尾根筋は問題なく守りに適した城だったのだろう。
峠道を下ると杉トンネルが見えてきた。デポしておいた自転車に乗って西俣を下っていくと対岸に石垣道が続いており昔の杉峠越えの道だろう。八手俣川の本流に合流した所には自然石に彫られた「右 川上」の道標があった。しばらく走ると祠に石灰岩の自然石が祀られている。山の神で、山を越えた飯高や大台でも石灰岩を山の神として祀っている。よく見ると祠のまわりにも石灰岩がいくつか並んでいる。山の神をここに集めたようだ。山の神と彫られら石が集められているのは何度か見たことあるが、自然石の山の神が集められているのは初めて見た。
しばらく下ると、大師堂があり弘法大師が祀られている。弘法大師は空海の事で真言密教を開き修験道を確立させた人物だ。他にも古い地蔵や石灯篭などが集められている。中でも気になったのは僧侶の石像に「三丁目」と刻まれた丁石だった。密教では俗塵を離れた山岳に寺院を建て、修学研鑽の場としていた。参道が長いことから、伽藍まで何丁、奥院まで何丁と道標を兼ねて目的地までの距離を示すものが丁石と呼ばれる石造物だ。昔このあたりに修験の行場があり、時代が経てから散在していた石造物をここに集めた感じがする。その先には北畠氏の菩提寺であった松月院跡がある。本堂跡の上部には北畠氏の墓、地蔵や宝塔などが集められている。集められた地蔵の顔がすばらしい。どれもこれも人間味のある豊かな顔立ちをしている。
自転車で丹生俣を下ったが、とにかく修験の色が濃い。山の神、大師堂、松月院跡とめぐってきたが、花などが進ぜられており地元の人たちが暖かく見守ってくれているのがわかる。中世の歴史遺産が生活の中になじんでいる光景を見て、温かい気持ちで帰路についた。