【京都北山】 源流の山の物語を掬う 経ヶ岳久良谷沢山旅  

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sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

【京都北山】 源流の山の物語を掬う 経ヶ岳久良谷沢山旅  

投稿記事 by sato »

【日 付】  2023年6月24日(土)
【山 域】  京都北山 久多川周辺
【天 候】  晴れ時々曇り
【メンバー】 山日和さん sato
【コース】   三軒屋~岩屋谷~久良谷~経ヶ岳~イチゴ谷山~P909~
       西尾根~P

川合町に入ると、まっすぐに伸びる青い稲がそよぐ田んぼが目に飛び込み、その清々しさに思わず見入ってしまう。
前回この道を走った日からひと月あまり、季節は着々と進んでいる。

近江、丹波、山城の三国境の三国岳を最源流とする久多川に沿って、上流から、上の町、中の町、下の町、川合町の4つの集落と、
西の支流大谷川沿いの宮の町の、5つの集落から成る久多。四方を山で囲まれた京都市最北端に位置する山村だ。
久多川は、朽木針畑を源流域とする針畑川と合わさり、びわ湖に注ぐ安曇川へと流れゆく。

むかしむかしから山城の国久多は、木材の供給地で、切り出された木は、昭和10年代頃まで、
いかだでびわ湖へと運ばれていった歴史があり、江戸時代は朽木藩の所領だったこともあり、近江の国との結びつきが強く、
風俗、習慣など、近江の影響が大きいという。
いかだ流しの仕事は危険と隣り合わせ。安曇川流域には、産土神でありいかだ流しの安全をお守りしてくれる
「しこぶちさま」を祀る神社が点在し、久多にも思古渕神社が建つ。
そして、久多は、若狭と都を繋ぐ若狭越の道のひとつ、針畑越の道が通った地。
小浜から、根来坂峠、丹波越、オグロ坂峠、フジ谷峠、杉峠、花脊峠、といくつもの峠を越え都へと向かう道は、
若狭越の道の中で最も古く、最短距離の道であったという。
20年ちょっと前、京都に来て出会った久多の山と山村の歴史。訪れる度に関心が高まる、興趣尽きない山域だ。
安曇川のたもとで暮らすようになってからは、目の前を流れる川の源流の山と村という想いも重なる。

下の町の駐在所を過ぎ、橋を渡り、大谷川に沿った広河原への山越えの道、能見峠道を見送り、北へと向きを変えた久多川を遡る。
今日は、先月20日に訪れた上の町に流れ落ちるフカンド山を源とする上の谷より、さらに上流の東側の谷に分け入ろうとやって来た。

イチゴ谷という不思議な響きの谷の出合にある、三軒屋という字の今は廃屋が残るだけとなった広場に車を置かせていただき歩き始める。
うつくしい滝がかかる、これもまた不思議な響きのミゴ谷をちらりと覗いて歩みを進めていくと、大きな二俣に着いた。
左俣が滝谷。右俣が三年前の同じ時期に遡行した岩屋谷だ。岩屋谷の林道を進み、
大きな木を輪切りにして作った看板がかけられたトチの木の下に立つ。看板には京都府立大学演習林の地図が刻まれている。
ここで岩屋谷と別れ、東の目指す谷、以前から気になっていた久良谷に一歩を踏み入れた。
P6240008_1.JPG
経ヶ岳一帯を源とする久良谷は、入ってしばらくは両岸が立っていて、細くて少し薄暗い感じだけど、
50mほど遡るとゆるりと谷幅が広がり明るい感じに。標高570mと600m二俣周辺は気持ちよさそう。
570m左俣の源流の地形にも惹かれるけれど、本流右俣の地形はさらに面白い。
ゆるゆると標高を上げていき、標高620mから80mほどは急こう配、そのあとは、また穏やかになり、
さぁっと手の指を広げたようにいくつにも分れて広がっていく。標高差400mに満たないちいさな谷だけど、
変化に富む地形。地図を見て、どんな風景が展開していくのだろうと想像しワクワクしていたのだった。

爽やかな緑の匂いが鼻をくすぐった。植林と思っていたけれど、深い緑の森。
苔むした岩の間を流れ落ちる水飛沫がやわらかに足元を撫でていく。
岸辺には岩に負けないくらい苔を纏ったトチの木がぽつぽつと並んでいる。
見上げた両岸の急斜面にも、風格のあるトチの木が佇む。そして、あっと、思ったところには炭焼き窯跡が。
ところどころで、蜂の巣箱の残骸のようなものも見かけた。お茶碗やビンの欠片も落ちている。
山と人間の物語の詰まったしみじみとした風景が続いていく。
P6240046_1.JPG
600mの二俣は想像していた通り、トチの木と炭焼き窯跡のある穏やかな輝きに満ちた場所だった。
苔の緑が目に染み入る。ここから、ゴロゴロした岩が目立つようになり、地形図通り620mあたりで滝が現れた。
両岸はヤマグルマがへばりつく岩壁となり、今までの穏やかな空気が一変する。
登れるかな、巻くなら右岸かな。でも谷に復帰できるかな。考えている間に、山日和さんは滝を登ってしまわれた。
ロープを垂らしていただき後に続く。ふたつめ、みっつめ、と小滝を登ると、両岸はますます迫ってきた。
そして、細く勢いよく流れ落ちる滝が目の前に。「あぁ」とため息をつく。わたしには登れない。
P6240067_1.JPG
この地点からは高巻きも出来ない。登った小滝の流れの横を、お尻をつきながら、そろりと下る。
最初の滝の下まで戻ると思ったが、山日和さんが、左岸側に出来た細いルンゼを見上げ、ここから登ろう、とおっしゃった。
からだの幅ぐらいしかないけれど、よく見たら手がかりはある。大丈夫だ。滝の落ち口の高さを目指して登っていく。
この辺かなというところで、灌木に捕まりながら左の急斜面に移動していると、頭上で、山日和さんの「わぁ」という声が聞こえた。

場所を譲っていただき、木にしがみつきながら、ぽっかりと開いた空間の先に目をやると、
わたしも「わぁー」と驚きと感嘆の入り混じった声をあげていた。
そこには、想像もしなかった光景が繰り広げられていた。深いゴルジュの中を滑り落ちていく数十メートルの直瀑。
地形図では確かに急こう配だけど、こんなにも険しく切り立った地形だったとは。ぞくぞくとした感動がこみ上がる。
「久良谷は当て字で、本来は、嵓だったのだろうね」感慨深げに山日和さんの呟く声が、頭の中に響き渡る。
P6240071_1.JPG
いつまでも、見入ってはいられない。ここからは谷への復帰は不可能。懸垂下降でルンゼに戻り、さらに登って行くことした。
でも、上がるにつれ傾斜が増し、手がかりも乏しくなってしまう。もうこれ以上は登れない。また下らなければならないか。
しばらく斜面を睨んでいた山日和さんだったが、ルンゼ内のすこし上にあるちいさな突起に左足を置いてから、
掴むには頼りなさげな草木がまだらに茂る右の斜面に移り、小尾根に乗られた。左足首が思うように曲がらないわたしは、
同じルートは無理。確保していただき、そうっと横のズルズルの斜面に移り、引っ張り上げていただく。

滑らぬよう神経を集中させながら尾根によじ登り、標高720mくらいからトラバースしながら谷に向かう。
降り立った谷は、えっ?と思うくらいやさしく穏やかにわたしたちを迎えてくれた。
時計を見ると、最初の小滝を登ってから1時間が経過していた。
滝の落ち口を見ようと少し下ってみると、その数歩先は宙になっていた。荘厳たるゴルジュだったなぁ。
土が食い込んだ爪を見つめて、ぶるっとなる。
P6240085_1.JPG
ここからは、ところどころ倒木が目につくが、明るい自然林の中、小滝やナメのあるうつくしい流れが続いていった。
枝分かれする谷の雰囲気もいい。ひとつひとつ覗いてみたくなるが、
標高760m二俣右の、経ヶ岳北の稜線に食い込んでいるような面白い地形へと向かう。
地形図の通り穏やかな詰め。すぅっと導かれるように稜線に出た。

このあたりは、地形も不思議で面白いが、謎を秘めた歴史も持つ。
この稜線と朽木桑原からの・662の尾根がぶつかる鞍部が丹波越で、朽木側の峠下には、お茶屋さんもあったといわれているが、
久多側の道は、どこを通っていたのかは分からないという。
遡ってきた久良谷の最初と最後は人の営みの痕跡を色濃く感じるが、真ん中が険しすぎる。
右岸をおおきくまわりながらつけられていたのか。それとも、経ヶ岳を越えた先の鞍部下のミゴ谷につけられていたのか。
そして、お経巻を埋めたといわれる経ヶ岳。お経巻を埋めたのは、旅の安全を祈ってだろうか。何故、この山に埋められたのだろう。
久良谷で掬い上げた、こんもりとした緑のお山の中の、深く険しいゴルジュの中を滑り落ちる滝音が胸の中で轟く。
久多の人々はこのお山に特別な神聖さを感じたからではないだろうか。
不思議な響きの、ミゴ谷、イチゴ谷も、巫女を意味する、神子、市子が由来だったのでは・・・。
山頂に向かいながらあれこれ思いを巡らせてしまう。

経ヶ岳山頂は、しんとした空気に包まれていた。スギの木立の中にちいさな経塚が白く浮かんでいる。
どこかの陰から、誰かの、何かの、祈りの声が聞こえるような気がした。

今日は、・909まで歩く予定。腰を下ろさずに歩みを進める。820mピークまでは、植林がちで黙々と歩いていたが、
その先は清々しい自然林となり、頬が緩む。花盛りのヤマボウシやネジキもこころ躍らせてくれる。
もう6月も下旬。ヤマボウシは散ってしまっただろうな、と思っていたのでうれしさもひとしおだ。
イチゴ谷山から・909は、凛とした存在感を放つブナやトチの大木が立ち並ぶ。
初めて訪れた時、人知れず気高く聳え立つ木々に感激したのを覚えている。
P6240114_1.JPG
・909山頂からは、比良山の眺望が素晴らしい。傍らには鈴なりの花を咲かせた大きなネジキの木が立っていた。
こんなに、ヤマボウシとネジキが多い稜線だったとは。
何度か歩くと知ったような気分になったりするけれど、ほんとうは知らないことだらけ、と感じ入る。
そして、そう感じる瞬間が、わたしは好きなのだなぁ、と思う。

下山の・909西尾根も、トチの巨木やちいさな池(ヌタ場?)などが目を楽しませてくれる味わい深い尾根。
ころころした真っ黒なクマにも出会った。今回は距離があったので、気持ちにも余裕があった。
植林地帯に入り、足早になっていると、足元に、ちいさな白い煌めきが。
わたしの好きな、まっ直ぐな夏を告げるお花、ツルアリドオシだった。

なんか、なんか、すごくうれしい山旅だったな。我が家の裏を流れる安曇川の源流のお山で、今日掬い上げた輝きの数々。
わたしの中で、あらたな物語が紡がれようとしているのを感じながら、車道に着地した。

sato
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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【京都北山】 源流の山の物語を掬う 経ヶ岳久良谷沢山旅  

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、satoさん。

むかしむかしから山城の国久多は、木材の供給地で、切り出された木は、昭和10年代頃まで、
いかだでびわ湖へと運ばれていった歴史があり、江戸時代は朽木藩の所領だったこともあり、近江の国との結びつきが強く、
風俗、習慣など、近江の影響が大きいという。
いかだ流しの仕事は危険と隣り合わせ。安曇川流域には、産土神でありいかだ流しの安全をお守りしてくれる
「しこぶちさま」を祀る神社が点在し、久多にも思古渕神社が建つ。

「しこぶちさま」は初めて聞きました。
土山には産土神の「ずずいこさま」というのがありますが
「しこぶちさま」も歴史がありそうですね。


爽やかな緑の匂いが鼻をくすぐった。植林と思っていたけれど、深い緑の森。
苔むした岩の間を流れ落ちる水飛沫がやわらかに足元を撫でていく。
岸辺には岩に負けないくらい苔を纏ったトチの木がぽつぽつと並んでいる。
見上げた両岸の急斜面にも、風格のあるトチの木が佇む。そして、あっと、思ったところには炭焼き窯跡が。
ところどころで、蜂の巣箱の残骸のようなものも見かけた。お茶碗やビンの欠片も落ちている。
山と人間の物語の詰まったしみじみとした風景が続いていく。

アッと思う場所の炭焼き窯跡・・いいですねえ。
見るとなんだかホットします。
昭和の物かな?


場所を譲っていただき、木にしがみつきながら、ぽっかりと開いた空間の先に目をやると、
わたしも「わぁー」と驚きと感嘆の入り混じった声をあげていた。
そこには、想像もしなかった光景が繰り広げられていた。深いゴルジュの中を滑り落ちていく数十メートルの直瀑。
地形図では確かに急こう配だけど、こんなにも険しく切り立った地形だったとは。ぞくぞくとした感動がこみ上がる。
「久良谷は当て字で、本来は、嵓だったのだろうね」感慨深げに山日和さんの呟く声が、頭の中に響き渡る。

久良谷は予想どうり厳しかったですか。
嵓谷って感じです。


滑らぬよう神経を集中させながら尾根によじ登り、標高720mくらいからトラバースしながら谷に向かう。
降り立った谷は、えっ?と思うくらいやさしく穏やかにわたしたちを迎えてくれた。
時計を見ると、最初の小滝を登ってから1時間が経過していた。
滝の落ち口を見ようと少し下ってみると、その数歩先は宙になっていた。荘厳たるゴルジュだったなぁ。
土が食い込んだ爪を見つめて、ぶるっとなる。
ここからは、ところどころ倒木が目につくが、明るい自然林の中、小滝やナメのあるうつくしい流れが続いていった。
枝分かれする谷の雰囲気もいい。ひとつひとつ覗いてみたくなるが、
標高760m二俣右の、経ヶ岳北の稜線に食い込んでいるような面白い地形へと向かう。
地形図の通り穏やかな詰め。すぅっと導かれるように稜線に出た。

沢登りの醍醐味ですね。
うらやましい・・


このあたりは、地形も不思議で面白いが、謎を秘めた歴史も持つ。
この稜線と朽木桑原からの・662の尾根がぶつかる鞍部が丹波越で、朽木側の峠下には、お茶屋さんもあったといわれているが、
久多側の道は、どこを通っていたのかは分からないという。
遡ってきた久良谷の最初と最後は人の営みの痕跡を色濃く感じるが、真ん中が険しすぎる。
右岸をおおきくまわりながらつけられていたのか。それとも、経ヶ岳を越えた先の鞍部下のミゴ谷につけられていたのか。

丹波越はミゴ谷のようですね。
金久さんも苦労したようですが
出合から下流数十メートルの杉林の中に一間幅の古道を見つけたとあります。
白髪峠のようにクランク状に乗越す峠だったんですね。


そして、お経巻を埋めたといわれる経ヶ岳。お経巻を埋めたのは、旅の安全を祈ってだろうか。何故、この山に埋められたのだろう。
久良谷で掬い上げた、こんもりとした緑のお山の中の、深く険しいゴルジュの中を滑り落ちる滝音が胸の中で轟く。
久多の人々はこのお山に特別な神聖さを感じたからではないだろうか。
不思議な響きの、ミゴ谷、イチゴ谷も、巫女を意味する、神子、市子が由来だったのでは・・・。
山頂に向かいながらあれこれ思いを巡らせてしまう。
経ヶ岳山頂は、しんとした空気に包まれていた。スギの木立の中にちいさな経塚が白く浮かんでいる。
どこかの陰から、誰かの、何かの、祈りの声が聞こえるような気がした。

経ヶ峰にお経巻を埋めたのは、権力者が国家安泰を願って埋めた場合が多いようです。
津の経ヶ峰も麓に伊勢平氏の館があり平氏が埋めたといわれています。
平清盛の父の忠盛まで一族はここに住んでいました。

津の経ヶ峰の春秋分の日没方向にはいくつかの古墳や遺跡が並んでいます。
太陽の動きと山の位置を意識したようです。
その先には浄土真宗高田派の総本山専修寺という大寺院もあります。
専修寺は何もない川沿いに建っていますが・・
経ヶ峰の春秋分の日没方向と冬至の神島からの日の出方向を結んだ接点に建立されています。
経ヶ峰は調べてみるといろいろわかるかもしれません。


下山の・909西尾根も、トチの巨木やちいさな池(ヌタ場?)などが目を楽しませてくれる味わい深い尾根。
ころころした真っ黒なクマにも出会った。今回は距離があったので、気持ちにも余裕があった。
植林地帯に入り、足早になっていると、足元に、ちいさな白い煌めきが。
わたしの好きな、まっ直ぐな夏を告げるお花、ツルアリドオシだった。

お疲れさまでした。
意外なところでご褒美の花が待っていてくれましたね。


                             わりばし

アバター
山日和
記事: 3585
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:12
お住まい: 大阪府箕面市

Re: 【京都北山】 源流の山の物語を掬う 経ヶ岳久良谷沢山旅  

投稿記事 by 山日和 »

satoさん、こんばんは。ようやくのアップでしたね。 :lol:

近江、丹波、山城の三国境の三国岳を最源流とする久多川に沿って、上流から、上の町、中の町、下の町、川合町の4つの集落と、
西の支流大谷川沿いの宮の町の、5つの集落から成る久多。四方を山で囲まれた京都市最北端に位置する山村だ。

昔ながらの山村の面影が残る地域ですね。道の狭いのが難点。

むかしむかしから山城の国久多は、木材の供給地で、切り出された木は、昭和10年代頃まで、
いかだでびわ湖へと運ばれていった歴史があり、江戸時代は朽木藩の所領だったこともあり、近江の国との結びつきが強く、風俗、習慣など、近江の影響が大きいという。


そうでしょうねえ。山城の都に出るには峠越えが必要ですからね。

いかだ流しの仕事は危険と隣り合わせ。安曇川流域には、産土神でありいかだ流しの安全をお守りしてくれる「しこぶちさま」を祀る神社が点在し、久多にも思古渕神社が建つ。

字は違えど「しこぶち」神社があちこちにあるのを不思議に思ってましたが、そういうことでしたか。

IMG_20180422_071128_1.jpg

イチゴ谷という不思議な響きの谷の出合にある、三軒屋という字の今は廃屋が残るだけとなった広場に車を置かせていただき歩き始める。
うつくしい滝がかかる、これもまた不思議な響きのミゴ谷をちらりと覗いて歩みを進めていくと、大きな二俣に着いた。


標識では「市後谷」「見後谷」とありましたが、これは当て字なのかな?

大きな木を輪切りにして作った看板がかけられたトチの木の下に立つ。看板には京都府立大学演習林の地図が刻まれている。
ここで岩屋谷と別れ、東の目指す谷、以前から気になっていた久良谷に一歩を踏み入れた。


この看板は実に味がありますね。背後のトチも見事です。
私も前々から気になっていた谷です。「癒し系の谷」として。 :mrgreen:


P6240010_1.JPG

50mほど遡るとゆるりと谷幅が広がり明るい感じに。標高570mと600m二俣周辺は気持ちよさそう。
570m左俣の源流の地形にも惹かれるけれど、本流右俣の地形はさらに面白い。
ゆるゆると標高を上げていき、標高620mから80mほどは急こう配、そのあとは、また穏やかになり、
さぁっと手の指を広げたようにいくつにも分れて広がっていく。標高差400mに満たないちいさな谷だけど、
変化に富む地形。地図を見て、どんな風景が展開していくのだろうと想像しワクワクしていたのだった。

爽やかな緑の匂いが鼻をくすぐった。植林と思っていたけれど、深い緑の森。
苔むした岩の間を流れ落ちる水飛沫がやわらかに足元を撫でていく。
岸辺には岩に負けないくらい苔を纏ったトチの木がぽつぽつと並んでいる。
見上げた両岸の急斜面にも、風格のあるトチの木が佇む。そして、あっと、思ったところには炭焼き窯跡が。
ところどころで、蜂の巣箱の残骸のようなものも見かけた。お茶碗やビンの欠片も落ちている。
山と人間の物語の詰まったしみじみとした風景が続いていく。


この序盤は想定通りの穏やかな谷でした。植林臭さがなく、トチの大木も素晴らしかったですね。
お約束の大きな炭焼き窯もあり。
このまま源流まで行くのかと思いきや・・・


P6240019_1.JPG
P6240047_1.JPG

600mの二俣は想像していた通り、トチの木と炭焼き窯跡のある穏やかな輝きに満ちた場所だった。

ここは思わずザックを降ろしたくなる場所でしたね。

苔の緑が目に染み入る。ここから、ゴロゴロした岩が目立つようになり、地形図通り620mあたりで滝が現れた。
両岸はヤマグルマがへばりつく岩壁となり、今までの穏やかな空気が一変する。
登れるかな、巻くなら右岸かな。でも谷に復帰できるかな。考えている間に、山日和さんは滝を登ってしまわれた。
ロープを垂らしていただき後に続く。ふたつめ、みっつめ、と小滝を登ると、両岸はますます迫ってきた。
そして、細く勢いよく流れ落ちる滝が目の前に。「あぁ」とため息をつく。わたしには登れない。


そうは問屋が卸さないって感じになってきました。いきなり両岸が立つゴルジュに。
でも中の滝は大したことなかったので登って行きましたが、目の前に現れた滝にビックリ。
登る人は登るんだろうけど、私にも登れませんよ。 :lol:

P6240054_1.JPG

この地点からは高巻きも出来ない。登った小滝の流れの横を、お尻をつきながら、そろりと下る。
最初の滝の下まで戻ると思ったが、山日和さんが、左岸側に出来た細いルンゼを見上げ、ここから登ろう、とおっしゃった。
からだの幅ぐらいしかないけれど、よく見たら手がかりはある。大丈夫だ。滝の落ち口の高さを目指して登っていく。
この辺かなというところで、灌木に捕まりながら左の急斜面に移動していると、頭上で、山日和さんの「わぁ」という声が聞こえた。


場所を譲っていただき、木にしがみつきながら、ぽっかりと開いた空間の先に目をやると、
わたしも「わぁー」と驚きと感嘆の入り混じった声をあげていた。
そこには、想像もしなかった光景が繰り広げられていた。深いゴルジュの中を滑り落ちていく数十メートルの直瀑。
地形図では確かに急こう配だけど、こんなにも険しく切り立った地形だったとは。ぞくぞくとした感動がこみ上がる。
「久良谷は当て字で、本来は、嵓だったのだろうね」感慨深げに山日和さんの呟く声が、頭の中に響き渡る。

そろそろ落ち口かと覗き込んだ先にあった凄い滝にまたまたビックリでした。 :o
手も足も出ないとはこのことです。
立った場所から滝つぼまでも数メートルの壁。もしさっきの滝を登ってたらにっちもさっちも行かなくなってたかもですね。

P6240075_1.JPG

いつまでも、見入ってはいられない。ここからは谷への復帰は不可能。懸垂下降でルンゼに戻り、さらに登って行くことした。
でも、上がるにつれ傾斜が増し、手がかりも乏しくなってしまう。もうこれ以上は登れない。また下らなければならないか。
しばらく斜面を睨んでいた山日和さんだったが、ルンゼ内のすこし上にあるちいさな突起に左足を置いてから、
掴むには頼りなさげな草木がまだらに茂る右の斜面に移り、小尾根に乗られた。左足首が思うように曲がらないわたしは、
同じルートは無理。確保していただき、そうっと横のズルズルの斜面に移り、引っ張り上げていただく。

このルンゼ登りは、最初の内は傾斜もそこそこでホールドがあったけど、上がるに従って斜度が増し、信用できるホールドが少なくなってきました。落ちればsatoさんもろともなので絶対に落ちられないし、一手一足慎重に運びました。
私の代わりにカメラが落ちて行ったけど、ナイスキャッチで助かりました。 :lol:
チェーンスパイクは岩のルンゼの中では少々邪魔でしたが、草付きへ移る場面では無しではとても無理でしたね。土の中から細い木の根を掘り出してだましだまし体重移動。爪が真っ黒になりました。 :mrgreen:

滑らぬよう神経を集中させながら尾根によじ登り、標高720mくらいからトラバースしながら谷に向かう。
降り立った谷は、えっ?と思うくらいやさしく穏やかにわたしたちを迎えてくれた。
時計を見ると、最初の小滝を登ってから1時間が経過していた。
滝の落ち口を見ようと少し下ってみると、その数歩先は宙になっていた。荘厳たるゴルジュだったなぁ。

谷への復帰は立ったまま歩ける斜面でよかったですね。
しかし、今のはなんだったと思うような平和な流れでした。大滝の上はこういうケースが多いですが。


P6240078_1.JPG

ここからは、ところどころ倒木が目につくが、明るい自然林の中、小滝やナメのあるうつくしい流れが続いていった。
枝分かれする谷の雰囲気もいい。ひとつひとつ覗いてみたくなるが、
標高760m二俣右の、経ヶ岳北の稜線に食い込んでいるような面白い地形へと向かう。
地形図の通り穏やかな詰め。すぅっと導かれるように稜線に出た。


最後はホントの癒しの谷でした。林相がもう少し良ければでしたが、稜線は林道と植林なのがわかってたので失望もしませんでしたね。

この稜線と朽木桑原からの・662の尾根がぶつかる鞍部が丹波越で、朽木側の峠下には、お茶屋さんもあったといわれているが、
久多側の道は、どこを通っていたのかは分からないという。
遡ってきた久良谷の最初と最後は人の営みの痕跡を色濃く感じるが、真ん中が険しすぎる。
右岸をおおきくまわりながらつけられていたのか。それとも、経ヶ岳を越えた先の鞍部下のミゴ谷につけられていたのか。


経ヶ岳の先の鞍部がミゴ越と呼ばれているので、ミゴ谷に付けられてたんでしょうね。
久良谷のゴルジュを大きく巻くように水平道があるようですが、そちらの可能性もあるのかな。

今日は、・909まで歩く予定。腰を下ろさずに歩みを進める。820mピークまでは、植林がちで黙々と歩いていたが、その先は清々しい自然林となり、頬が緩む。花盛りのヤマボウシやネジキもこころ躍らせてくれる。
もう6月も下旬。ヤマボウシは散ってしまっただろうな、と思っていたのでうれしさもひとしおだ。
イチゴ谷山から・909は、凛とした存在感を放つブナやトチの大木が立ち並ぶ。
初めて訪れた時、人知れず気高く聳え立つ木々に感激したのを覚えている。


お腹が空いてたけど、経ヶ岳山頂をパスしてイチゴ谷山手前のピークまで我慢してよかったですね。
すっかり記憶から消えてたけど、実にいいランチ場でした。
やっぱりああいう林相になるとモチベーションが変わります。 :D

P6240103_1.JPG

・909山頂からは、比良山の眺望が素晴らしい。傍らには鈴なりの花を咲かせた大きなネジキの木が立っていた。
こんなに、ヤマボウシとネジキが多い稜線だったとは。
何度か歩くと知ったような気分になったりするけれど、ほんとうは知らないことだらけ、と感じ入る。

私はネジキも知りませんでしたが。 :mrgreen:

下山の・909西尾根も、トチの巨木やちいさな池(ヌタ場?)などが目を楽しませてくれる味わい深い尾根。
ころころした真っ黒なクマにも出会った。今回は距離があったので、気持ちにも余裕があった。


この尾根は登ったけどまったく記憶無し。トチの巨木だけは覚えてたけど、あんな場所だったかなあという感じです。
もっと開けたところに立ってたような記憶でした。
最後にクマにも出会えてよかったですね。satoさんとクマに遭うのはもう5回目ぐらいかな? :lol:

植林地帯に入り、足早になっていると、足元に、ちいさな白い煌めきが。
わたしの好きな、まっ直ぐな夏を告げるお花、ツルアリドオシだった。


これも勉強になりました。 :D

                  山日和
sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【京都北山】 源流の山の物語を掬う 経ヶ岳久良谷沢山旅  

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
朝早くからコメント下さりありがとうございます。朝の時間は、一日をよりよく過ごすための時間といいますが、
わりばしさんは、毎朝、いいお時間をお過ごしなのだなぁと思います。私は、ぼぉっとしたり、バタバタしたりして過ぎています。

「しこぶちさま」は不思議な響きの神さまですね。安曇川沿いには、「しこぶち」という名前の神社が15社、神社跡が2社あります。
思子淵、志子淵、志古淵など色々な漢字が当てられていますが、「しこ」は「恐ろしい、醜い」、「ぶち」は「淵」を意味するそうです。
恐ろしい岩や淵の難所を次々と越えなければならない、危険と隣り合わせのいかだ流しを見守ってくださる神さまなのですね。
久多の志古淵神社は、久多川と大谷川が合流する場所にあります。ヒンドゥーの世界でも、川の合流地点は聖なる場所を考えられています。
川と川、谷と谷が合わさる場所に立つと、私も何か不思議な感覚を覚えたりします。
「安曇川RIVER MAP」という地図があり、安曇川本流と、針畑川、久多川、北川、麻生川に点在する岩や淵の197か所に
名前があるのを知りました。それだけ、川と人々の繋がりが深かったのですね。

そう、ひょんなご縁で、安曇川河口近くにある佃煮屋さんで働いているのですが、
社長のおじいさんは島根県出身で、安曇川のいかだ流しの船頭さんのお仕事をするために、この地へやって来たそうです。
そして、いかだ流しという歴史が幕を閉じ、田畑を持っていない社長のお父さんは、
リヤカーをひいてびわ湖の魚やしじみの行商を始められ、時代の流れに乗って、会社を経営するまでになったそうです。
安曇川河口の北船木南船木は、運ばれてきた材木を扱う材木屋で栄えていたそうです。
家の造りも独特で面白いです。

土山の人々には「ずずいこさま」という産土神さまがいらっしゃるのですね。
「ずずいこさま」も不思議な響きですね。気になってしまいます。
経ケ峰は、鈴鹿南部の山から眺め、きれいな形のお山だなぁと思っていました。
経塚は、時代時代、様々な人が、それぞれの目的、願いを持ち、築かれたものなのですね。
権力者、政治と深く結びついてきた仏教。経ケ峰のお経巻は平氏が埋めたといわれているのですね。
この山頂からの春分秋分の日の日没方向に、古墳や遺跡が並び、浄土真宗高田派の総本山専修寺は、
経ケ峰の春分秋分日没方向と、冬至の神島からの日の出方向を結んだ接点に建立されている、というお話は、とても興味深いです。

古代から人びとは、真東から登り真西に沈む春分秋分の日の太陽に、神聖なものを感じていたのでしょうね。
ピラミッドは春分秋分の日の太陽を位置を計算して配置されたといわれていますし、アブシンベル神殿は、この二日だけ、
一番奥の最も神聖な場所まで太陽光が射し、神々が照らし出されます。
インドのアーメダバードには、春分秋分の日、日の出が、太陽神スリヤが祀られる本殿に射しこむお寺があります。
いろいろなことを思い出しました。

話が、どんどん脱線していきそうなので軌道修正しますね。
久良谷は、穏やかな箇所は、思っていた以上にうつくしく、急こう配だなぁ、と思ったところは、
とんでもなく険しく、予想外づくしの谷でした。
地形図を見てあれこれ想像しながら遡り、次々と展開していく風景に驚き、よろこび、時に、ぎょっとして・・・。
分け入ってこそ感じる風景。沢山旅の醍醐味ですね。
台高や大峰のような深い谷が形成されている山域では、これほどびっくりしないでしょうが、
900mに満たない里山の谷で、こんなにも険しく厳かな風景に出会えるとは、と感動に包まれました。登っている時は必死でしたが。
私は、谷の風景の中に、暮らしの痕跡を感じ、思いを巡らせるのが好きですので、炭焼き窯跡に出会うと、そうですね。なんかうれしくなります。


丹波越の道ですが、金久昌業さんは、峠から経ヶ岳へ尾根をまいて歩きミゴ谷を下る、と推測されていますね。
このミゴ谷道は、朽木平良と久多を結ぶミゴ越の峠道。
若狭越の道は、桑原から国境の稜線に登っていたといわれていますが、平良から登ってミゴ谷を下る人もいたのでは、と思ったり。
近世になると、小浜から水坂峠、檜峠、花折峠、途中越、の峠を越えて京に入る若狭街道が主に歩かれるようになったので、
丹波越はあまり歩かれることがなくなり、道の位置も分からなくなってしまったのでしょうね。
歴史というものは、語る人、書き残す人がいなくなると埋もれていく。
私たちのまわりには、どれだけの埋もれてしまった歴史があるのだろう。

ふっと出会ったお花は、旅の思い出をより印象付けてくれます。

わりばしさんは、峠道探索と沢登りの夏でしょうか。味わい深い山旅を重ねていらっしゃるのでしょうね。
次のレポ、楽しみにしております!

sato
sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【京都北山】 源流の山の物語を掬う 経ヶ岳久良谷沢山旅  

投稿記事 by sato »

山日和さま

こんにちは。
暑いですね。ぐったりしています。
「レポ、書きたいです」と申し上げながら、なかなか時間が取れず(夜ご飯の後は睡魔に襲われ)、
パソコンに向かっても、ふっと他のことを考えていたりして、集中できず、時間がかかってしまいました。
集中してスラスラと紡いでいくことが出来る山日和さん、すごいなぁ、と思います。

今、安曇川ではアユのヤナ漁解禁中で、早朝、漁師さんから買い付けたアユを、佃煮用と鮮魚での出荷用に分ける作業を、
70歳の社長と70代後半のおばちゃんと三人で行う日々が続いていて、ちょっと疲れ気味。
魚を炊くのは、70代後半のおじちゃんと80代のおばちゃん。私以外はみな高齢者なのですが揃って働き者。
若手の私が、体調を崩したりと一番へなちょこです。
簾を扇形に設置して川の水をせき止め、遡上して来たアユを川岸に追い込んで捕らえるヤナ漁は、
河口の北船木の集落において古代から続いてきた伝統漁法で、北船木は京都上賀茂神社の御厨として、
平安時代からアユを献上してきた歴史があります。
働き始めるまで、ヤナ漁という漁法も、アユの佃煮(びわ湖の魚の佃煮も)も知りませんでした。
山とうみを感じるこの仕事に出会ったことに、不思議なご縁を感じます。

いきなり、話が飛んでしまい失礼いたしました。

私は、頑固な鼻風邪が続いていて、あまり濡れずに済む谷ならば大丈夫かなという感じで、
山日和さんも、土曜日は早めに下山したいということで、「短く癒し系の谷」で、以前から候補に上がっていた久良谷に、
この日、行こうということになったのでしたね。
地形図の急こう配の箇所が気になったのですが、山日和さん、「問題ないだろう」のひと言でした。

安曇川が流れる梅の木から久多への道は、そう、細くて、くねくねしていて、対向車が来たら嫌だなぁ、と思いながら運転しています。
針畑越の道が、朽木桑原から針畑川を南下して川合からオグロ坂や梅の木に向かわなかったのは、川沿いの険しい地形を避けたからなのでしょうね。

久多から尾越への道、オグロ坂峠道、八丁平も味わい深いですね。
小糠雨の中、三年前遡行したオグロ谷も、最初は、えっ?という感じでしたが、林道終点からは、こころに響く風景が続いていきましたね。

久多川の谷の入り口には谷名の看板が立てられていますね。「市後谷」「見後谷」は、どういう意味なのだろうと思っていました。
「久良谷」の嵓を見て、「本来は嵓谷だったのだろうね」という山日和さんのお言葉を聞き、市子、神子、が浮かびました。
あれこれ想像するのが好きで楽しいです。
そうそう、京都府立大学演習林の看板は、トチの木にかけられているのではなく、トチの木の前に立っています。

滝の下までは、トチとサワグルミの深い森が続いていきましたね。そして、ここ、と思う場所には炭焼き窯跡が。
しみじみと味わい深い谷でした。600m二俣は、やさしい空気に満たされていましたね。
標高620mから700mまでは急こう配ですが谷幅は広い感じかなと思っていましたので、いきなりゴルジュが現れ驚きました。

勢いよく流れ落ちる滝の前で行き詰まり、一段下がったところから向かった左岸のちいさなルンゼ。
山日和さんは、こんなルートを描けるのですね。私は、岩壁を見上げながら、滝の下まで降りて右岸を大高巻きかな、
そうしたら谷から離れていってしまうな、尾根歩きになってもいいかなと思っていました。
でも、落ち口かな、と思った地点からの光景には、唖然となりましたね。
引き返して登っていったルンゼは、からだの幅ぎりぎりでしたので緊張しました。カメラが落ちてきた時、片手でキャッチしました。
逃げ場がないので、石だったら、ゾッとしますね。
山日和さんが、右の草付きに移られる時も、私は、ちいさなホールドを掴みながら息を呑んで見つめるばかり。
支点もなく、手も離せず、何にも出来ませんでした。
雨後で地盤が緩み一層緊張する斜面を、土の中から根っこを掘り出し手がかりにして、進まれていったのですね。
山日和さんの洞察力と冷静な判断力を知っていますので、私も、緊張しながらも、大丈夫、とこころを落ち着かせて行動出来ました。

復帰した谷は、ほんとうに、今のは何だったと思うような平和な流れでした。お写真の流れの先が宙になっていますね。
経ヶ岳の山頂は、植林がちと認識していましたが、林道の存在は忘れていました。
詰めの地形が面白く、そのことしか頭に描かれていませんでした。
山頂に着いた時、正午近くになっていましたが、自然林の820mピークまで歩いてよかったですね。
ヤマボウシのお花を眺めながら、お昼ごはんをいただくことが出来ました。

何度か歩いた尾根や谷でも、風景はすっかり忘れてしまったり、実際とは異なる風景が記憶として刻まれていたり・・・。
感動した風景でさえ、感動したということは覚えていても、その風景が思い出せないことも。
だから、こうして、言葉に紡ぎたいなぁ、と思うのですが、これも、なかなか。
山日和さんと、クマに出会ったのは5回目でしたか。
始めて出会ったのはナベクボ峠でしたね。あの時は唸りながら突進してきて怖かったです。

まっ白で、ふたつ並んだちいさなお星さまのようなツルアリドオシは、大好きなお花です。
実もかわいくて不思議です。ふたつのお花が、秋にひとつの赤い実になるのです。
冬枯れの山で、ころんとした深緑色の葉っぱの上にちょこんと乗った赤い実を見つけると、こころときめきます。

家に帰って、服部文祥さんが『百年前の山を旅する』で、針畑越を書かれていたことを思い出し、読み返しました。
「久良谷の滝場を避けるように右岸に踏み跡がつづいていた」と書かれています。次は、道探しに出かけたいです。

今、久良谷の水が流れている安曇川の土手を眺めながら、お返事を書いています。
味わい深い沢山旅だったなぁ、と、あらためて感慨深い思いに浸っています。
ありがとうございました。

sato
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