【高見山地】酒米を運んだ請取峠をたどる
Posted: 2023年5月22日(月) 05:52
【日 付】2023年5月21日(日)
【山 域】高見山地
【コース】太良木駐車場8:05---9:50請取峠---11:42太良木駐車地
【メンバー】単独
飯高には紀州徳川藩の参勤交代の道である和歌山街道が通っている。高見山地を越えた美杉には飯南より分岐する伊勢本街道が通り、飯高と美杉方面を南北につなぐ山越えの峠がいくつかある。こうした峠がいつのころから何のためにつながれたのか気になり出かけることにした。
和歌山街道の本陣のあった波瀬より太良木川を上り、太良木神社先の北東に伸びる谷筋上部に破線道が書かれている林道入口に駐車する。車で入れるのはここまでで、それ以上は難しい。堰堤を過ぎ、植林地に入るとスギの大木が並んでおり、道の目印のようだ。谷筋の破線道は無く、植林の斜面を獣道をひろいながら登って行くと大きなモミが残されていた。尾根筋に取りつき進むと林道のガードレールが見え、どうにかたどり着く。
太良木の下手から来ている林道が来ている。展望の良い林道をしばらく行くと終点で、ここから峠道が続く。波瀬の宿場にある田中家は、江戸時代、酒造を営んでいたが、水田の少ない山間のこと、酒米の確保はできず伊賀の国から運んでいた。その流通路として伊賀米の流通路として重要な役割をはたしてきた道になる。天保14年(1843)の「伊勢国酒造人名前長帳」には田中家も含め波瀬に5戸の酒造家があったとある。参勤交代だけでなく伊勢参りの人たちが押し寄せていたのだろう。
峠道に入ると5mを越える石垣が出迎えてくれる。この先にも同じような石垣が無数に出来るがほとんど崩れていない。台高山脈の多くの木馬道を見てきたが、使用時期が限定されている木馬道よりしっかりと作られているようだ。岩場を削った場所もありこう配の少ない道が続いている。大八車が通れる車幅があり、昔は馬車で越えてきた道だったようだ。とはいえ、人があまり通らない古道だけに石垣で守られていない場所ではバリルートのようになっている場所もある。
2カ所炭窯跡があり、酒米搬出の道として役割を終えた後のもののようだ。途中に石積みではなくコンクリートブロックを積み上げて補強してある箇所があった。昭和初期に御杖村の妙見さんへの信者が多く利用した時代のものだろうか。プラスチックが水抜きのパーツで使われているので、林道を奈良県までつなげる準備段階に整備された感じだ。林道がつながらなったおかげで、峠道は江戸時代の状態を残している。
斜面をトラバースしながら進むと突然峠に出た。ゆるやかに大きく開けたV字が高見山地の稜線を乗越している。峠の先は奈良県側になだらかに下り、峠の目印のスギの大木が並んでいる。この付近は自然林が残されており新緑が美しい明るい峠で、直下に林道が来ている。すばらしい峠道に美しい峠といいものを見つけた。
ただ気になるのはたくさんの請取峠のプレートがあるものの地図の請取峠の場所とは違う。地図の774標高点の東側のコルにいる。峠道と言い風情と言い間違いないのだが、確かめるために地図の請取峠に向かう。植林の中に峠はあったがプレートやテープもなく歩かれている感じはない。破線道に沿って下るが急斜面で道などない。無理やり下って峠道に出た。こんな所を酒米を積んだ馬車が通れるはずもなく、江戸時代には峠道が使われていたようだ。ただ、請取峠の歴史は古く。櫛田川中・下流の遺跡に石器時代のサヌカイトという硬質の石が出土する。サヌカイトはこの辺りでは産出せず、奈良の二上山麓でサヌカイトの原石が豊富に産出した。請取峠はサヌカイトが運ばれた峠とされている。人が越える峠として地図の峠は使われていたのだろう。多くの物資を運ぶために峠は現在の位置に移ったようだ。
林道に出て下るが最後まで歩くと遠回りなので、駐車地に向かう来た道とは違う破線道を下る。谷筋の道はなく尾根筋に付けられた田中山の杣道をつないで下ると駐車地にドンピシャで着いた。
帰りに波瀬の田中家に寄る。巨大な本陣屋敷に立派な倉と当時の繁栄をしのばせる。家の前に大八車が置いてあり、これで酒米を運んだのかと思いをはせた。
【山 域】高見山地
【コース】太良木駐車場8:05---9:50請取峠---11:42太良木駐車地
【メンバー】単独
飯高には紀州徳川藩の参勤交代の道である和歌山街道が通っている。高見山地を越えた美杉には飯南より分岐する伊勢本街道が通り、飯高と美杉方面を南北につなぐ山越えの峠がいくつかある。こうした峠がいつのころから何のためにつながれたのか気になり出かけることにした。
和歌山街道の本陣のあった波瀬より太良木川を上り、太良木神社先の北東に伸びる谷筋上部に破線道が書かれている林道入口に駐車する。車で入れるのはここまでで、それ以上は難しい。堰堤を過ぎ、植林地に入るとスギの大木が並んでおり、道の目印のようだ。谷筋の破線道は無く、植林の斜面を獣道をひろいながら登って行くと大きなモミが残されていた。尾根筋に取りつき進むと林道のガードレールが見え、どうにかたどり着く。
太良木の下手から来ている林道が来ている。展望の良い林道をしばらく行くと終点で、ここから峠道が続く。波瀬の宿場にある田中家は、江戸時代、酒造を営んでいたが、水田の少ない山間のこと、酒米の確保はできず伊賀の国から運んでいた。その流通路として伊賀米の流通路として重要な役割をはたしてきた道になる。天保14年(1843)の「伊勢国酒造人名前長帳」には田中家も含め波瀬に5戸の酒造家があったとある。参勤交代だけでなく伊勢参りの人たちが押し寄せていたのだろう。
峠道に入ると5mを越える石垣が出迎えてくれる。この先にも同じような石垣が無数に出来るがほとんど崩れていない。台高山脈の多くの木馬道を見てきたが、使用時期が限定されている木馬道よりしっかりと作られているようだ。岩場を削った場所もありこう配の少ない道が続いている。大八車が通れる車幅があり、昔は馬車で越えてきた道だったようだ。とはいえ、人があまり通らない古道だけに石垣で守られていない場所ではバリルートのようになっている場所もある。
2カ所炭窯跡があり、酒米搬出の道として役割を終えた後のもののようだ。途中に石積みではなくコンクリートブロックを積み上げて補強してある箇所があった。昭和初期に御杖村の妙見さんへの信者が多く利用した時代のものだろうか。プラスチックが水抜きのパーツで使われているので、林道を奈良県までつなげる準備段階に整備された感じだ。林道がつながらなったおかげで、峠道は江戸時代の状態を残している。
斜面をトラバースしながら進むと突然峠に出た。ゆるやかに大きく開けたV字が高見山地の稜線を乗越している。峠の先は奈良県側になだらかに下り、峠の目印のスギの大木が並んでいる。この付近は自然林が残されており新緑が美しい明るい峠で、直下に林道が来ている。すばらしい峠道に美しい峠といいものを見つけた。
ただ気になるのはたくさんの請取峠のプレートがあるものの地図の請取峠の場所とは違う。地図の774標高点の東側のコルにいる。峠道と言い風情と言い間違いないのだが、確かめるために地図の請取峠に向かう。植林の中に峠はあったがプレートやテープもなく歩かれている感じはない。破線道に沿って下るが急斜面で道などない。無理やり下って峠道に出た。こんな所を酒米を積んだ馬車が通れるはずもなく、江戸時代には峠道が使われていたようだ。ただ、請取峠の歴史は古く。櫛田川中・下流の遺跡に石器時代のサヌカイトという硬質の石が出土する。サヌカイトはこの辺りでは産出せず、奈良の二上山麓でサヌカイトの原石が豊富に産出した。請取峠はサヌカイトが運ばれた峠とされている。人が越える峠として地図の峠は使われていたのだろう。多くの物資を運ぶために峠は現在の位置に移ったようだ。
林道に出て下るが最後まで歩くと遠回りなので、駐車地に向かう来た道とは違う破線道を下る。谷筋の道はなく尾根筋に付けられた田中山の杣道をつないで下ると駐車地にドンピシャで着いた。
帰りに波瀬の田中家に寄る。巨大な本陣屋敷に立派な倉と当時の繁栄をしのばせる。家の前に大八車が置いてあり、これで酒米を運んだのかと思いをはせた。