【台高南部】「武四郎翁の足跡〜エピローグ」尾鷲道を行く・木組峠南のピーク〜竜辻〜古和谷〜尾鷲市街
Posted: 2022年8月11日(木) 17:37
【山行日】2022年5月4日(後半)
【山域】台高南部・尾鷲道
【メンバー】アオバ*ト、タイラ、Iさん、Kちゃん
【天候】晴れ
【コースタイム】
木組峠南のピーク9:25
1305峰10:30
竜辻11:20
古和谷登山口14:35
尾鷲市街17:00頃
今回のレポは、前回コメントを下さった里山歩さんにお詫び申し上げるところから始めなければならなりません。
「後ろの方に大台を見、右に暗り窓、左りにあらゝ木岳より戸倉を見て行。
樹木もなし。依て南海を見晴して風景よし。十二丁にして下る。」
ここは、△1411だ!と自信たっぷりに申しあげましたが、
その後も色々考えを巡らせるうちに、ここはやっぱりNTRCさんの「稜線分岐」標識のある、
木組峠南のピークではないかと思い始めました。
どうしてかというと、ここが△1411だとすると腑に落ちないことが2つありました。
1つは、この前の記述に「是より峯まゝ行。」とあり、この後の記述には、十二丁にして下る。」とあり、
下り始めたのは、エスケープルートの下降点だと思うので、△1411からだとすると記述も距離もあまりにも一致しません。
もう1つは、この日の前日、武四郎翁は木組谷の集落に泊って早朝出発したと書かれてあると思うのですが、
木組谷の中流域にあったらしい集落の場所から考えると、△1411への尾根に乗るには少し戻らなければなりません。
それもやはり不自然かと。
私としては、40年前skywalkさんが登り降りされたという尾根に途中から合流して登って行ったとすれば、
なんか愉快だなと思っていたのですが、やっぱり木組峠を目指して登って行ったのでしょうか。
そう考えると辻つまは合います。
でも自分はこの木組峠南のピークからの眺めはこんなふうだったかなぁ、これってやっぱり△1411みたいだなぁ、
途中の記述が省略されてるのかなぁとか思う気持ちも捨てきれなかったりするのですが。
というわけで、里山歩さんをはじめ、皆さん、勝手なことばかり書き綴ってすみません。
私のレポは、ただの戯言綴と思って下さい。
さて、私たちは、武四郎翁が紀北町へと下って行ったエスケープルートを見送って、
高低差のほぼ無くなった疎林のすてきな稜線を逆方向へと嬉々として進んで行った。 ユルユルと下って、またユルユルと登ると、木組谷側は遮るもののない大展望が開けて、足が止まってしまう。
谷に向かって左手前方には、竜口尾根と奥駈道、そしてこれから向かう1305峰が大きい。 右手後方には、大台ケ原からマブシ嶺、そしてさっきまでテントを張っていたすてきなテント場の森が見渡せた。
ここに立って、自分たちが辿ってきた道筋を眺める時、もう半分終わったんだなと切ない気持ちになるのだった。
次のコルから、舞台は新しい世界へと移る。
コルの名前は、「新木組峠」。
この地名も、ほんとは無いそうだ。いつのことかわからないが、誰かがここに「木組峠」と道標を立てた。
そしてまたいつのことかわからないが、誰かが(同じ人かもしれないが)その上に「新」と書き足した。
つまりは、ここは「木組峠」ではない、ということだが、
「違う」と否定せずに「新」と書き足すなんて、なんだか茶目っ気があって愉快だ。
という訳で、私はこの「新木組峠」が気に入っている。
ここから道は、二手に分かれる。一つは、巻き道の本来の尾鷲道。
もう一つは、稜線をそのまま辿って行く道。
今回はお天気に恵まれたので、稜線の道を辿ると決めていた。
今まで何度か地蔵峠から上がってきてこの稜線を歩いたことがあり、
竜辻には又口道からも登って来たことがあり、ここから3つのピークを巡る稜線の道はとにかくすごく気に入っていた。
そして稜線ルートに向けた、 NTRCさんの道標には「松浦武四郎 丙戌前記ルート」と記されている。
武四郎のことを知らなくても、道標を眺めているだけでなんだかワクワクしてくるから不思議だ。 自分が松浦武四郎の名前を知ったのがいつだったか定かではないのだが、3年前ここでこの道標を見て、知ったのかもしれない。
その偉業についてあらためて知ることになったのは、今回の山行後のことだ。
少しだけ、武四郎翁のことを書きたい。
記念館の壁いっぱいに描かれた大台ケ原の概念図を見上げていると職員の方が、概念図の隅に書かれた翁の一句を解説して下さった。
「優婆塞もひじりもいまだ分いらぬ深山の奥に我は来にけり」
優婆塞は、役行者のこと。ほうしは、空海のこと。
帰ってから紀行集をパラパラめくっていてその句を見つけた。
概念図にはたしか書かれていなかったと思うのだが、
その句の後には続きがあった。
「と戯れり。」
武四郎翁の茶目っ気あるすてきな人柄に触れたような気がした。
いちばん驚いたのは、16歳のとき、書き置きして松阪の生家から東京まで歩いて行って、
しばらく何年も家に帰らず、書き置きには、行き先は東京だけじゃなく、
中国やインドまで行くかもしれないと書いてあったらしい、ということだ。なんてすごい16歳なんだ!
新木組峠からP 1305 への登りはいつもしんどくて亀のようにノロノロ歩く。
木陰もなくて日差しが容赦ない。けど、直下より大きなブナが現れると、俄然元気が出てきて急坂を夢中になってガシガシ登った。 このピークはとても清々しくすばらしい雰囲気だ。
「細又谷の頭」という山名板が掛けられている。もっとすてきな名前があってもいいのになと思った。
尾根地形と谷地形がゆったりとうねるように広がっている東側は、ブナの疎林で、ブナの枝越しに適度に展望があって、
居心地よくていつまでもぼーっと腰かけていたかった。
西側も下りて行きたくなるような尾根が続いているが、こちらは地形図を見ると果てしなく地の底ヘ下りて行くかのようだった。
次の三角点のある中ノ嶺への下りの道もすてきな雰囲気だが、コルに近づくに連れて両側切れ落ちた危険地帯となる。
中ノ嶺は、道筋より少し外れたところにあって、
ちょっとモサモサしていて狭くてあまり居心地良いとは言えないので可愛そうだけどスルーする。
最後のピーク1260竜辻ヘ上がる瞬間はやっぱり感動的だ。ここへ上がると、尾鷲の海が目の前いっぱいに広がる。 どんな風景が見えるのか知っているのに何度も来てしまうのだった。
今日は日差しが強くて、少し下って木陰を探してお茶会する。
あとは、古和谷下って林道と国道歩いておしまい。皆の頭の中はもう、尾鷲のお寿司屋さんで乾杯することしかなかったようだが、
この先、古和谷では思いの外難儀することになった。
店じまいして又口辻ヘ下ると、道は尾鷲道の古道と合流する。
本来の尾鷲道であるという古道は再びトラバースして又口ヘ向かっていく。
私たちは東へ尾根筋を進み、200mほど先で、地蔵峠への道と分かれていく。
ここから先、古和谷へ下る道には、所々に白地に青の尾鷲道の道標はあるが、NTRCさん道標はこちらにはない。
古和谷の道は、今はもう整備されていないようだ。
私たちが歩く何ヶ月か前にトレランの人の記録があったので、大丈夫だろうと思って下ってみた。
しかし3年前と比べて、かなり荒れていた。
谷に下りて左岸の高巻き道より右岸の道に渡って以降枝谷に掛かる木橋の老朽化が激しいを通り越して、
もういつ抜け落ちてもおかしくなかった。
もしかして、登山口に着いたら通行止めって書かれているんじゃないかと皆で話していたら、
案の定、登山口過ぎて林道をしばらく歩いたところで、「キケン!立入禁止!」と黄色いテープが渡してあった。
又口道も、古和谷の道も、すごく味わい深い道なのに、歩く人もなく、整備するのも困難で、
そのうち消えてしまうのだろうかと思うと寂しい。
武四郎翁の辿った地蔵峠から紀北町への道は、木津道として、NTRCさんが整備されているようで、いつか歩きたい。
尾鷲道は、すごく好きな道だけど、わからないこともたくさんあって、結局レポと言っても、個人的な戯言綴に過ぎない。
歩いているときも、レポを書きながらも混沌としながら尾鷲道の世界は広がっていった。
次に歩くときは、いったいどんなことを思い巡らすのだろう。
追記
尾鷲の市街への国道をトボトボ歩いている時、大きなワゴン車が後ろから走ってきて、
「乗って行くかい?」とおっしゃるので、ありがたく乗っけてもらった。
地元の方かと思ったら、何と栃木からの山やさんだった。
ブログを教えてもらったので、勝手に貼らせてもらいます。
開いて下の方過去ログ「三重紀行 全8回」。とても楽しいです。
http://nikkoworks.kouda-sangyo.com/12664
アオバ*ト
【山域】台高南部・尾鷲道
【メンバー】アオバ*ト、タイラ、Iさん、Kちゃん
【天候】晴れ
【コースタイム】
木組峠南のピーク9:25
1305峰10:30
竜辻11:20
古和谷登山口14:35
尾鷲市街17:00頃
今回のレポは、前回コメントを下さった里山歩さんにお詫び申し上げるところから始めなければならなりません。
「後ろの方に大台を見、右に暗り窓、左りにあらゝ木岳より戸倉を見て行。
樹木もなし。依て南海を見晴して風景よし。十二丁にして下る。」
ここは、△1411だ!と自信たっぷりに申しあげましたが、
その後も色々考えを巡らせるうちに、ここはやっぱりNTRCさんの「稜線分岐」標識のある、
木組峠南のピークではないかと思い始めました。
どうしてかというと、ここが△1411だとすると腑に落ちないことが2つありました。
1つは、この前の記述に「是より峯まゝ行。」とあり、この後の記述には、十二丁にして下る。」とあり、
下り始めたのは、エスケープルートの下降点だと思うので、△1411からだとすると記述も距離もあまりにも一致しません。
もう1つは、この日の前日、武四郎翁は木組谷の集落に泊って早朝出発したと書かれてあると思うのですが、
木組谷の中流域にあったらしい集落の場所から考えると、△1411への尾根に乗るには少し戻らなければなりません。
それもやはり不自然かと。
私としては、40年前skywalkさんが登り降りされたという尾根に途中から合流して登って行ったとすれば、
なんか愉快だなと思っていたのですが、やっぱり木組峠を目指して登って行ったのでしょうか。
そう考えると辻つまは合います。
でも自分はこの木組峠南のピークからの眺めはこんなふうだったかなぁ、これってやっぱり△1411みたいだなぁ、
途中の記述が省略されてるのかなぁとか思う気持ちも捨てきれなかったりするのですが。
というわけで、里山歩さんをはじめ、皆さん、勝手なことばかり書き綴ってすみません。
私のレポは、ただの戯言綴と思って下さい。
さて、私たちは、武四郎翁が紀北町へと下って行ったエスケープルートを見送って、
高低差のほぼ無くなった疎林のすてきな稜線を逆方向へと嬉々として進んで行った。 ユルユルと下って、またユルユルと登ると、木組谷側は遮るもののない大展望が開けて、足が止まってしまう。
谷に向かって左手前方には、竜口尾根と奥駈道、そしてこれから向かう1305峰が大きい。 右手後方には、大台ケ原からマブシ嶺、そしてさっきまでテントを張っていたすてきなテント場の森が見渡せた。
ここに立って、自分たちが辿ってきた道筋を眺める時、もう半分終わったんだなと切ない気持ちになるのだった。
次のコルから、舞台は新しい世界へと移る。
コルの名前は、「新木組峠」。
この地名も、ほんとは無いそうだ。いつのことかわからないが、誰かがここに「木組峠」と道標を立てた。
そしてまたいつのことかわからないが、誰かが(同じ人かもしれないが)その上に「新」と書き足した。
つまりは、ここは「木組峠」ではない、ということだが、
「違う」と否定せずに「新」と書き足すなんて、なんだか茶目っ気があって愉快だ。
という訳で、私はこの「新木組峠」が気に入っている。
ここから道は、二手に分かれる。一つは、巻き道の本来の尾鷲道。
もう一つは、稜線をそのまま辿って行く道。
今回はお天気に恵まれたので、稜線の道を辿ると決めていた。
今まで何度か地蔵峠から上がってきてこの稜線を歩いたことがあり、
竜辻には又口道からも登って来たことがあり、ここから3つのピークを巡る稜線の道はとにかくすごく気に入っていた。
そして稜線ルートに向けた、 NTRCさんの道標には「松浦武四郎 丙戌前記ルート」と記されている。
武四郎のことを知らなくても、道標を眺めているだけでなんだかワクワクしてくるから不思議だ。 自分が松浦武四郎の名前を知ったのがいつだったか定かではないのだが、3年前ここでこの道標を見て、知ったのかもしれない。
その偉業についてあらためて知ることになったのは、今回の山行後のことだ。
少しだけ、武四郎翁のことを書きたい。
記念館の壁いっぱいに描かれた大台ケ原の概念図を見上げていると職員の方が、概念図の隅に書かれた翁の一句を解説して下さった。
「優婆塞もひじりもいまだ分いらぬ深山の奥に我は来にけり」
優婆塞は、役行者のこと。ほうしは、空海のこと。
帰ってから紀行集をパラパラめくっていてその句を見つけた。
概念図にはたしか書かれていなかったと思うのだが、
その句の後には続きがあった。
「と戯れり。」
武四郎翁の茶目っ気あるすてきな人柄に触れたような気がした。
いちばん驚いたのは、16歳のとき、書き置きして松阪の生家から東京まで歩いて行って、
しばらく何年も家に帰らず、書き置きには、行き先は東京だけじゃなく、
中国やインドまで行くかもしれないと書いてあったらしい、ということだ。なんてすごい16歳なんだ!
新木組峠からP 1305 への登りはいつもしんどくて亀のようにノロノロ歩く。
木陰もなくて日差しが容赦ない。けど、直下より大きなブナが現れると、俄然元気が出てきて急坂を夢中になってガシガシ登った。 このピークはとても清々しくすばらしい雰囲気だ。
「細又谷の頭」という山名板が掛けられている。もっとすてきな名前があってもいいのになと思った。
尾根地形と谷地形がゆったりとうねるように広がっている東側は、ブナの疎林で、ブナの枝越しに適度に展望があって、
居心地よくていつまでもぼーっと腰かけていたかった。
西側も下りて行きたくなるような尾根が続いているが、こちらは地形図を見ると果てしなく地の底ヘ下りて行くかのようだった。
次の三角点のある中ノ嶺への下りの道もすてきな雰囲気だが、コルに近づくに連れて両側切れ落ちた危険地帯となる。
中ノ嶺は、道筋より少し外れたところにあって、
ちょっとモサモサしていて狭くてあまり居心地良いとは言えないので可愛そうだけどスルーする。
最後のピーク1260竜辻ヘ上がる瞬間はやっぱり感動的だ。ここへ上がると、尾鷲の海が目の前いっぱいに広がる。 どんな風景が見えるのか知っているのに何度も来てしまうのだった。
今日は日差しが強くて、少し下って木陰を探してお茶会する。
あとは、古和谷下って林道と国道歩いておしまい。皆の頭の中はもう、尾鷲のお寿司屋さんで乾杯することしかなかったようだが、
この先、古和谷では思いの外難儀することになった。
店じまいして又口辻ヘ下ると、道は尾鷲道の古道と合流する。
本来の尾鷲道であるという古道は再びトラバースして又口ヘ向かっていく。
私たちは東へ尾根筋を進み、200mほど先で、地蔵峠への道と分かれていく。
ここから先、古和谷へ下る道には、所々に白地に青の尾鷲道の道標はあるが、NTRCさん道標はこちらにはない。
古和谷の道は、今はもう整備されていないようだ。
私たちが歩く何ヶ月か前にトレランの人の記録があったので、大丈夫だろうと思って下ってみた。
しかし3年前と比べて、かなり荒れていた。
谷に下りて左岸の高巻き道より右岸の道に渡って以降枝谷に掛かる木橋の老朽化が激しいを通り越して、
もういつ抜け落ちてもおかしくなかった。
もしかして、登山口に着いたら通行止めって書かれているんじゃないかと皆で話していたら、
案の定、登山口過ぎて林道をしばらく歩いたところで、「キケン!立入禁止!」と黄色いテープが渡してあった。
又口道も、古和谷の道も、すごく味わい深い道なのに、歩く人もなく、整備するのも困難で、
そのうち消えてしまうのだろうかと思うと寂しい。
武四郎翁の辿った地蔵峠から紀北町への道は、木津道として、NTRCさんが整備されているようで、いつか歩きたい。
尾鷲道は、すごく好きな道だけど、わからないこともたくさんあって、結局レポと言っても、個人的な戯言綴に過ぎない。
歩いているときも、レポを書きながらも混沌としながら尾鷲道の世界は広がっていった。
次に歩くときは、いったいどんなことを思い巡らすのだろう。
追記
尾鷲の市街への国道をトボトボ歩いている時、大きなワゴン車が後ろから走ってきて、
「乗って行くかい?」とおっしゃるので、ありがたく乗っけてもらった。
地元の方かと思ったら、何と栃木からの山やさんだった。
ブログを教えてもらったので、勝手に貼らせてもらいます。
開いて下の方過去ログ「三重紀行 全8回」。とても楽しいです。
http://nikkoworks.kouda-sangyo.com/12664
アオバ*ト