この街道は標高約900mの高見峠を分水嶺とし、東に流れる水は櫛田川から伊勢湾に注ぎ、西は吉野川から紀の川となり、紀伊水道に注ぐ。高見峠から東へ歩いた記録はすでに、【和歌山街道】高見峠越えの道、【和歌山街道】大定峠,珍布峠越えの道、【伊勢本街道】櫛田川を最初の一滴から辿る旅の終焉(田丸〜小片野)などのタイトルでレポにあげたので、ここでは高見峠から西側の記録をレポする。なお、このレポには延べ5日間の歩行記録が含まれており、全てを詳細に記すと長くなるので、歩きながらの心象風景のみを書きたい。
【紀の川】
和歌山城大手門近くの京橋から北へしばらく歩くと紀の川に突き当たる。あとはずっと紀の川沿いをひたすら東に歩くと高見峠に至る。紀の川は高見峠を源流とし、奈良県では吉野川と呼ばれ、和歌山県に入ると紀の川と呼ばれるようになる。 紀の川沿いを歩きながら、この道を紀州の殿様も参勤交代に使ったのだろうかと考えた。「標高900mの高見峠はどう越えたのだろうか?」。カゴでは無理そうだから、ここだけ馬に乗り換えたのだろうか?」。等々、疑問が出てくる。帰宅してから調べてみると、江戸時代中期以前(1740年頃まで)は和歌山街道高見峠経由だったが、中期以後は標高差の少ない大阪経由東海道ルートになったらしい。やはり、高見峠越えがネックだったのだろう。
有吉佐和子の小説「紀ノ川」では九度山の名家に生まれ、美しく聡明な女性「花」の一生が描かれる。「花」は九度山から下流にある「六十谷(むそた)」の地主の家に嫁ぐ。5艘の船を連ねて花嫁御寮と嫁入り道具が紀の川を流れ下る様子は印象的である。実際に紀州の野を悠々と流れる紀の川ベリを歩くと、その光景が眼前に浮かんできそうである。
ちなみに和歌山駅から紀の川を挟んだ対岸にJR阪和線の六十谷駅があり、花が嫁いだ真谷家はここらへん一帯の大地主だったようだ。花の主人真谷敬作の弟浩策の家に卵を持って行った花が、浩策が留守のようなので、帰りを待ちながら生卵を飲むシーンがある。
「その絵を眺めているのにも飽きると、花は籠の中から卵をひとつ取り上げた。五分珠の古渡珊瑚のかんざしを抜くと、尖っている方の先を軽く突いた。卵膜まで突き破らないように、卵殻だけを除くのは、かなり技術がいるのだが、花は難なくそれをやってのけると、かんざしを丸髷に戻してから、徐に指先で膜を破り、そこに唇を当てて、それからぐいと顎をあげ、器用に中身を吸い取ってしまった。卵白の湿り気が黄身の濃い味を包んで、喉を通る時には快感がある。歩きにくい道を休みなしで歩いてきた疲れがこれで消えると彼女は信じた。」
夏の暑い盛りに親戚の家を訪ねた美貌の花が人がいない隙に生卵を飲むこの記述が、妙にリアルで、艶かしくて、この小説の中で一番記憶に残る場面であった。
【人形浄瑠璃の舞台】
JR船戸駅を左折し岩出橋を左岸から右岸に渡る。街道はこの先高見峠まで紀の川の右岸を通ることになる。この先は街道の道型がほぼ残っているようで、いかにも古街道らしく緩やかにカーブしながら、車一台が通れるほどの狭い道が続いている。 地理院地形図を見ていると、紀の川(吉野川)の両岸に「背ノ山」と「妹山」の字が見える。そうか、ここは「妹背山婦女庭訓」の舞台だったのかあ。人気の人形浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」の三段目「山の段」では吉野川を挟んで対立する二つの豪族の息子久我乃助と息女雛鳥のすれ違いの悲劇が描かれる。人形浄瑠璃版「ロメオとジュリエット」のお話なのである。この浄瑠璃の舞台設定では、吉野川を挟んで妹山と背山に建つ両家は互いに人の動きが見えるほど近い。広い野を悠々と流れる紀の川を遡ってきた自分にはそんな舞台設定が現実的とは思えなかった。しかし、ちょうどこの辺りだけ両岸が狭まり、たしかにこの両岸に家が建っていれば互いに人の動きも見えるだろう。単なる作り話の浄瑠璃とはいえ、それなりに実際の地形に忠実に作られているのを知った。 妹背山のさらに上流の奈良県下市(しもいち)に人形浄瑠璃「義経千本桜」の三段目の舞台である。「鮨屋の段」では下市の「つるべすし」に身分を偽ってひそむ平維盛をめぐる物語が描かれる。この舞台になった「つるべすし」は現在でも営業しており、約800年の歴史を持つという。今回は時間の関係で寄れなかったが、機会があれば一度行ってみたいものだ。
妹背山の近くの旧名手宿本陣「妹背家」が復元されて残っており、訪問客は無料で入ることができる。ここは有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」で青洲の妻、加恵の実家でもある。本陣を眺めていると90歳前後と思われる老婦人が寄ってきて、話しかけてきた。色々世間話をして、最後に記念にと小さな鈴がついたバッグチャームを二つもくれた。いまでもこのバッグチャームは街道歩きのお供になっていて、見るたびにその老婦人のことを思い出す。 【五條の藤井館】
司馬遼太郎は「街道をゆく12 十津川街道」で奈良県五條を訪れている。記述は簡潔で、歴史の中で置き忘れられたようなこの街にそれほど強い印象を持たなかったようだ。五條は街道が集中し、吉野川などの水運もあって、昔はこの地域の中心都市として栄えたらしい。今では人口減少が激しく、老人比率が高くて、時代から取り残されたような静かな街になっている。
五條には幕府の直轄領7万石の代官所が置かれていた。幕末に天誅組が旗揚げとしてこの五條の代官所を襲い、代官の鈴木源内を姦吏として血祭りにあげた。司馬遼太郎によるとこの鈴木源内は実際には人柄も評判もいい、良い代官だったらしい。
橋本から8キロ、約2時間で五條に到着。昔のメイン道路と思われる旧道沿いには、昔の商店らしい建物が並んでいるが、いずれも店をたたんでいるようで、人の姿もほとんど見えない。
一旦、JR五条駅まで行き、宿を通り過ぎたことを知って少し戻った。今日の宿藤井館は昔の街の中心部、大和街道近くにあった。古いが昔は立派だったと思われる建物で、今は老夫婦二人だけで切り盛りしている。奥さんらしい老婦人が2階の部屋まで案内してくれた。 2階から見下ろすと昔は立派だっただろう中庭があり、その中庭に面して今は使われていないと思われる広い宴会場がある。おそらく水運などで栄えていた頃はここの宴会場で商人たちの酒宴が賑やかに行われたのだろう。今は、観光客などほとんどこないようで、作業員の人たちのための宿泊所になっているようだ。私が泊まった時も、作業員らしい男性3人が同宿だった。
泊まった部屋は広いのだが、隣の人が歩くだけで、建物全体がゆらりゆらりと揺れて、地震がなくても倒壊しそうで怖かった。ご主人は、若い時は学校の教師か何かをしていたようなインテリらしい雰囲気の人である。退職後に、旅館の跡取りとしてこの旅館を維持しているのかもしれない。ロビーに大峰山や大台ケ原に関する書物がたくさん置いてあったので、借りて読んでみる。大台ケ原の開発前の話は面白かった。自動車道建設によってどれだけ自然破壊されたのかを初めて知ることができた。
1泊2食8910円という中途半端の金額だったので、9000円出して「お釣りは要りません」と言うと、ご主人が少しムッとした顔をして黙って100円を渡してきた。10円を返すべきかどうか迷ったが、そのままにしてしまった。結局、10円まけてもらったことになった。五條の藤井館、できればこのまま続けてもらいたいものだが、なかなか難しそうだ。まだ存在するうちにもう一度泊まってみたいものだ。
2024年5月2日(木) 歩行距離 20.9km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】近鉄津新町駅 6:33 ---
2024年5月9日(木) 歩行距離 17.6 km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】近鉄津新町駅 7:16 ---
2024年5月23日(木) 歩行距離 31.6 km
【 天 候 】曇り
【 ルート】近鉄津新町駅 6:33 ---
2024年5月30日(木) 歩行距離 21.3 km(和歌山別街道)
【 天 候 】晴れのち曇り
【 ルート】近鉄津新町駅 7:16 ---
2025年3月14日(金) 歩行距離 23.8 km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】近鉄津新町駅7:50 ---
2025年10月21日(火) 歩行距離 16.9 km
【 天 候 】曇り
【 ルート】近鉄津新町駅5:48 ---
2025年10月23日(木) 歩行距離 21.2 km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】JR和歌山駅7:44 ---
2025年10月24日(金) 歩行距離 15.7 km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】藤井館7:54 --- 12:03 近鉄大和上市駅 12:16 ---
2025年11月05日(水) 歩行距離 20.7 km
【 天 候 】曇りのち雨
【 ルート】JR和歌山駅7:44 ---
徳川吉宗の頃までは和歌山街道を通っていたんですね。