【 日 付 】2023年5月2日(火)〜4日(木)
【 山 域 】熊野
【メンバー】山猫単独
【 天 候 】三日いずれも晴れ
【 ルート 】(一日目)極楽橋8:36〜9:10女人堂〜9:26弁天岳〜9:39大門〜9:59根本大塔〜10:07金剛峯寺〜10:51薄峠11:36大滝〜12:30水ヶ峰分岐〜13:54大股登山口〜14:34萱小屋〜16:26伯母子岳〜18:17三田谷バス停〜18:45船渡橋〜19:00 三浦の廃集落
(二日目)宿泊地3:40〜4:45三浦峠5:10〜6:17西中バス停〜8:00十津川温泉 昴の郷〜8:36果無集落〜9:33観音堂9:55〜10:15果無峠1〜11:34八木尾バス停〜12:00道の駅 奥熊野古道ほんぐう12:05〜12:22三軒茶屋跡〜13:00熊野本宮大社13:10〜13:20茶房珍重庵13:40〜13:50大斎原14:10〜14:50川湯温泉15:30〜16:00請川16:16〜17:35百間ぐら〜18:26桜峠〜18:34桜茶屋跡〜19:00小和瀬の渡し場跡
(三日目)小和瀬の渡し場跡4:20〜6:32越前峠〜7:01石倉峠〜7:10地蔵茶屋跡〜8:27舟見茶屋跡〜9:06那智高原公園〜9:24青岸渡寺〜9
50飛瀧神社(那智大滝)〜10:00大門坂入口〜11:21補陀洛山寺〜11:30那智駅
今年の連休は当初は4日は雨の予報であったが、日が近づくにつれて雨の降り出しの時間が遅くなる。2日に休暇を取得することが出来たので、かねてより念願であった小辺路の縦走に三日間で挑戦することにする。山行計画は前々から周到に練ってあった。一日目は極楽橋から高野山に登り、折角の機会なので高野山を観光してから伯母子峠に向かう。二日目は十津川温泉で入浴した後に果無峠の下にある観音堂まで登り返すという計画だ。
【一日目】
始発の京都市営地下鉄に乗り、南海電鉄に乗り継いで高野山に向かう。橋本から極楽橋に向かう車内にはかなりの数の登山者を見かける。ハイキング・スタイルの方が多いが、大きなリュックにシュラフマットを括り付けた方は明らかに私と同じく小辺路の縦走をされる方だろう。九度山を過ぎると色鮮やかな新緑の山間部に入ってゆく。同時に列車は強烈なフランジ音を立てて、急カーブの連続する山間部を進んでゆく。
車内で前日の京都の北山での山行記をスマホを使って書いていたのだが、結果的にはこれがとんだ蛇足であった。登山の前にスマホを充電しようとモバイル・バッテリーを接続したところ、十分に充電されていると思い込んでいたバッテリーがほとんど残量がないことに気が付く。スマホは到底、三日は持たないであろうから、地図のみが頼りだ。
極楽橋の駅でホームに降り立つと全ての乗客は急いでケーブルカーの駅に向かう。この駅で降りるのは私一人のみのようだ。改札口は見窄らしい裏口のようのところであり、駅員に確認すると「駅の出口はここしかありません」と言う。駅員の対応からしても、そもそもこの駅で降りる乗客は滅多にいない感じだ。
駅の外に出ると、前には谷川が流れているだけで道のようなものは見あたらない。スマホでG GPSを確認すると、高野山に向かうには南海電鉄に沿って少し戻ったところにある橋を対岸に渡る必要があるようだ。駅の下を潜り抜けると、すぐに鮮やかな朱色の極楽橋が目に入った。
まずは舗装された不動坂を登ってゆく。すぐに谷奥に静かなひっそりと佇む瀧不動堂に到着する。ここからは山道となる。弁天岳に到着すると、山頂の小さなお堂の前では行者姿の一人の男性が念仏を唱えておられた。その傍らにはハイキング姿の若い女性が佇み、景色を眺めるでもなく、みじろぎもせずに樹々の新緑を見つめておられる。念仏を唱えていた男性が立ち去ると今度はその女性がお堂の前に立ち、真言を唱え始めた。その若い女性の格好と真言を唱える姿との乖離に大きな驚きを禁じ得なかった。
弁天岳から南に降るとすぐにも右手に大きく展望が広がる。遠くに紀伊水道と思われる蒼い海が見えるのが意外だった。緩やかに尾根を降るとすぐに大門に到着する。門の前ではまだ八重桜が咲いていた。大門はその名の通り、かなりの大きさだ。大門をくぐり新緑の参道に入ると、その脇では多くの石楠花が満開だ。
高野山の街並みに入るとまずはファミリーマートで今夜のビールを求め、既に凍らせたジュースを入れてある保冷袋にしまいこむ。高野山の金堂や根本大塔のあたりは当然ながら多くの観光客で賑わっており、外国人の姿も目立つ。
金剛峯寺にお参りを済ませるといよいよ小辺路に出発である。ところが早速にも小さな失敗をやらかす。小辺路に向かうためには金剛三昧院の手前を右に分岐する小道に入る必要があったのだが直進して金剛三昧院の前に出てしまう。ここで大人しく引き返せば良かったものを、金剛三昧院の南で合流することが出来るだろうと先に進むが、道はトンネルでろくろ峠の下をくぐり抜けてしまう。トンネルの南側から植林の急斜面を登り、ようやく小辺路のルートに乗ることが出来る。
少し歩くと前を行く単独行の男性に追いつく。徳島から来られたそうで、登山の経験はほとんど無いがyoutubeにアップされている小辺路歩きをみて来られたとのこと。伯母子岳の山頂でテン泊を考えておられるらしい。
男性と話をしながら歩いているうちに電波塔にたどり着く。どうやら薄峠の分岐を見過ごしてしまったようだ。左手の植林の尾根を降ると林道に着地することが出来る。ルート・ロスに関しては私の責任もあるのだが、一般登山道でないところを歩かれたご経験はないようで、ルートへの復帰を感謝される。男性とお別れして先に行かせて頂く。
御殿川の流れる谷まで下降すると、川沿いには多くのクリンソウが咲いていた。小さな橋で川を渡り、対岸の尾根に登り返すとすぐにも舗装路が現れる。道路を進むと忽然と小さな集落が現れる。舗装路はこの集落にたどり着くための道であった。
集落に入ったところで小さな東屋があった。ご夫婦と思われる二人が休憩しておられた。今日は大股の集落までで、野迫川温泉のホテルが迎えに来て下さるそうだ。集落には人の気配がなかったが猫がいるところからすると人が住んでおられるのだろう。
緩やかに新緑の斜面をトラバースしながら登ってゆくと突然、賑やかな車道に出る。頻繁にオートバイがエンジンの爆音を立てながら通過してゆく。高野龍神スカイラインだ。運転者たちに「小辺路、歩行者あり」と注意を喚起する標識はあるものの、歩道などはない。道路からの展望は良いが、この区間を少しでも早く通過しようと黙々と先を急ぐ。
1.5kmほど歩いたところで水ヶ峰への分岐が見えるとようやく一安心する。登り始めるとすぐに数組の女性パーティーに追いつく。一人の女性が「この先に熊がいるんですって」と仰る。熊を見たというテン泊装備の若い男性が戻って来られ、スマホの写真で教えてくださる。熊は樹の上にいるようなので「それは心配ないでしょう」と申し上げて通過することにする。
近づくと樹の上にいる熊はまだ若い個体のように見える。熊が樹の下に降りるまでは時間を要するであろうから、襲われる可能性はまずないだろう。そう思えるからかもしれないが、樹の上で寛ぐ熊の仕草は可愛らしく思えるのだった。私が無事通過したのを見て安心したのか、後ろから女性達のパーティーもやってくる。
少し進むと尾根上の舗装道と合流する。こんなところに車道が・・・と驚くが先ほどの高野龍神スカイラインと野迫川ホテルのあるあたりを結んでいる道路だ。尾根が下りに差し掛かると車道から大股の集落へと下降する山道が分岐する。斜面を下降してゆくと前をゆくテン泊装備の単独行の女性がおられる。やはり今日は伯母子峠でテン泊の予定だそうだ。
大股の道路に出ると橋の手前に自動販売機がある。自動販売機の前には数本の缶やペットボトルが置いてあるのは、なかなかゴミを回収しに来ないからだろう。
萱小屋は実に雰囲気の良い広場となっている。薪ストーブのある小屋の中には一人の男性がおられる。小屋には13時半頃に到着されたらしいが、今日はここで泊まるとのこと。小屋の裏に水が引かれた水槽の中ではビールとジュースが冷やされている。ビールはひと缶¥300だが、残っているのはキリンののどごし生のみであった。
萱小屋から先に進むとおそらくは朝に十津川を出発して来られたものと思われる登山者達と続々とすれ違う。最後にすれ違った男性が「こんなに人が多いのは初めてや」と仰るので「先に何人か歩いているんですか」と聞くと「この先で7〜8人すれ違ったで」とのこと。伯母子峠はテン泊の人達で相当に多そうだ。
伯母子岳の山頂が近づくと樹々はまだ芽吹き始めたばかりのようだ。三葉躑躅の花が目立つ。山頂に到着したのは16時過ぎであった。樹木のない山頂から広がる360度の好展望を眺めながら一息つく。東には大らかな山容の八経ヶ岳とその右手に釈迦ヶ岳が鋭いピークを見せている。南に見えるのは牛廻山とその彼方に延々と連なる山並みは果無山脈だろう。どこまでも重畳と連なる山並みに紀伊半島の最も奥深い山の一つに来たという感慨を感じる。
山頂にはテントひと張り分の平坦なスペースがある。この日は空には雲がほとんどなく、この山上からは相当に綺麗な夕方の景色が期待できそうだ。しかし問題は風がそれなりにあり、しかもかなり冷たく感じられることだ。この時間でこれだけ風が冷たいのであれば夜は相当に冷え込むことになるだろう。山頂でしばらく逡巡したが、当初の計画を変更して先に進むことにする。同時に小辺路に加えて中辺路を縦走して那智まで足を伸ばすことを決めるのだった。
尾根を下がると風も弱まり、急に温度も温かく感じられるようになる。尾根上には次々とブナの大樹が現れる。上西旅籠跡は広々と草地が広がりテント適地だ。小辺路の縦走であればここにテントを張るのもいいだろうが、既に頭の中の計画は中辺路までの縦走にリセットされている。
ここで先を歩かれる男性に追いつく。男性は三浦峠まで行きたいと思っているが、まずは五百瀬まで下降してビールを飲みたいという。なんと五百瀬には酒屋があるらしい。男性の話ではコロナ禍で店を閉めていたようだから、果たして再開していないかどうかが心配ではあるが・・・とのことだった。男性のリュックはかなりコンパクであるが、自立式のツェルトを携行しているという。
上西旅籠跡の先にあるca1070mのピークも樹林の間に平坦な広地があり、ここもテン泊適地に思われた。ca1070mを過ぎると道は尾根の東側斜面をトラバースしながら三浦口に下降してゆく。左手に見える対岸の斜面の新緑が夕陽に照らされて黄金色に輝いている。尾根が末端に近づくと深い谷間に向かって急下降してゆくことになる。
三浦口が近づくと道の真ん中でテントを張っている方がおられた。この時間には通過する登山者がいないと考えてのことなのかもしれないが、こういうメジャーな登山道は真夜中でも歩かれる登山者がいてもおかしくないだろう。
三田谷のバス停のある県道に着地したのは18時過ぎ。バスは下流の川津から少し上流にある杉清まで平日は昼と夕の二本のみ、土日は夕方のみ十津川村営バスが運行されている。下山後に確認してみたが平日のバスはいずれも五条から十津川に向かうバスにギリギリで接続しない。
ここから三浦口まで800mの車道歩きとなる。すぐに五百瀬の集落に着くが、酒屋の看板はあるものの店の周囲は雨戸で囲われており、既に廃屋となって久しいようだった。三浦口に到着すると船渡橋と呼ばれる吊橋の前の茂みの中に小さな蛇口があり、不規則に水が出ていた。橋の右手の大きな建物にはコカコーラの自動販売機と原木栽培の椎茸の無人販売所があるが、椎茸は全く売られていなかった。
橋を渡ると西の空にかかる雲が茜色に輝いたかと思うと、急速に色褪せていった。少し歩くとすぐに平坦な草地が現れる。その奥で生えている植物があるので、何か栽培されているのかと思って近づいてみると一面に蕨が生えているのだった。これはテントを張るのに格好の場所だと思い、リュックから荷物を広げたところでテントのペグがないことに気が付く。今回、携行したテントはワンポール・テントなのでペグがないと使えないのである。茫然自失している私の傍を先ほどの男性が傍を通り過ぎてゆく。
竹箸が最低4本あれば箸をペグの代わりにしてテントを張ることを思いつくが、生憎、箸は4本しかない。この箸を使ってしまうと夕食を食べることが難しい。三浦峠まで上がれば東屋があるので、そこで寝ることが出来るかと考え、荷物をしまい再び歩き始める。しかし、すぐにも登山道沿いの廃屋に格好の縁側のある廃屋が現れるので、ここで野宿させてもらうことにした。
深夜に熊鈴の音で目が醒める。もののけでも出たかと思ってびっくりしたが、この時間に歩いている人がいるようだ。時間を確認すると22時すぎであった。煌々と月があたりを照らしていた。
【二日目】
目が覚めるとあたりはすっかり明るくなっていた。驚いたことに家の庭には多くの人がいる。老夫婦の傍らには若夫婦、そして孫と思われる多くの子供達もいる。慌てて飛び起きると、無断で縁側で寝ていた私に対して「よくいらした」とにこやかな笑みを浮かべておられる・・・夢だった。再び目が覚めて時間を確認すると3時前だ。庭先を明るく照らしていた月の光は消え、暗闇が広がっている。
湯を沸かし、インスタント・コーヒーとパンで朝食を済ますと三浦峠への登りに取り掛かる。すぐにも登山道沿いには立派な杉の大木が現れる。案内板によると吉村家の防風林とのことだ。林の中は上の方から熊鈴の音にも似た規則的な反復音が聞こえる。アオバズクの鳴き声のようだ。
暗闇の中からは確かにもう一つ、金属的な音が聞こえる。まさか・・と思ったが、まもなく先を歩いている男性の姿が目に入るとようやく安心する。昨日の夕方に出遭った方だった。私が泊まった廃屋のすぐ上で、やはり廃屋の庭先でツェルトを張られたらしい。
三浦峠に到着すると、東屋の近くにはテントが多く張られている。多くのテントの主が外に出て朝食を摂られているところのようだった。三浦峠には林道が続いている。林道を辿ると登り坂が続いている。これはおかしいと思って地図を見直すと、熊野古道は三浦峠からすぐに南下することになっている。
再び峠に戻ると峠の手前に左手に下降する道が目に入る。15分ほどのタイムロスだ。丁度、先ほどの男性が峠に到着されたところだった。空がかなり明るくなり、正面に伯母子岳を望むことが出来る。ここで落ち着いて歯磨きをしてから再び出発することにする。
トイレには4/10に三浦口の民宿から十津川温泉に向かって出発するも行方不明になってしまった外国人女性の張り紙が出ていた。道に迷うような場所はあまりないように思われたが、私と同様に林道を先に進んでしまったのではないだろうか。
三浦峠からは最初は谷筋を九十九折りに下降して行くが、次第に尾根の西側斜面をトラバースしならが下るようになる。尾根の上を歩くようになると随所で東側に展望が広がり、朝陽が東側の尾根の上に昇ってゆくのが見える。
西中のバス停に到着したのは6時半前、ここから果無峠への登山口まではおよそ8km、コースタイム上は2時間を要する。50分待てば十津川温泉行きの村営バスが7時17分あるようだが、急ぐ旅ではない。この小辺路はすべて自分の脚で踏破したいところだ。
道路沿いの民家では外に出ている人が多く、驚くほど愛想よく「お早うございます」と声をかけて下さる。道路沿いには水場が頻繁に現れる。朝の空気は清々しく、長い舗装路歩きには丁度よい。
串崎の集落を過ぎると道路の上では猿の群れが体を温めていた。遠くに私の姿を認めると慌てて法面に貼られた金網のフェンスを攀じ登って山の中に逃げ込んでいく。すぐ後ろから村営バスが追い越していった。
昴の郷に到着すると、日帰り入浴は12時〜15時と案内が出ている。伯母子峠で泊まった場合には丁度良い頃合いにここにここに到着することが出来るかもしれない。温泉の前には広々とした広場に休憩所、トイレがあり、幾つもの自動販売機がある。
果無集落への吊橋に向かうと向こうからテント泊装備の外国人のパーティーがやってくる。果無集落に向かうと朝に十津川温泉を出発したものと思われる登山者が多く歩いている。果無集落の中の水場に到着すると「中に小さなカエルがいる」と若い女性三人のパーティーが歓声を上げていた。
前回、果無山脈を延々と縦走してこの集落に到着した時は梅雨明けであり、暑さに辟易した憶えがあるが、この日は集落の中には涼しい微風が吹いている。それでも集落を過ぎて果無峠への登りにかかると早速にも汗が噴き出す。路傍には三十三観音の石仏が安置されているが、石仏達の愛くるしい表情には思わずこちらも笑顔になる。
観音堂に到着したのは9時半過ぎ、丁度、先行する白装束の男性が到着されたところだった。男性はまずお堂の前で真言を唱えてお祈りされる。お堂の上では石楠花の花が満開であった。観音堂の前から湧き出す清冽な水を補給し、行動食でしばし休憩する。
行者姿の男性は前日は伯母子峠を出発し、十津川温泉の民宿に予約なしで訪れたとのことだったが運よく空室があったらしい。宿は今日からは満室とのこと。伯母子峠でのテン泊は夜は非常に寒かったとのことだった。男性によると小辺路を縦走する人たちの間ではこの観音堂もテン泊地として人気の場所らしい。以前に小辺路を縦走されたアオバトさんがここにテントを張られたとお伺いしていたので、私も当初、その計画だったのだが、今回は計画を変更して良かったのだろう。というのも、ここにを張ることが出来るテントはせいぜい4張り程に過ぎないだろうから。
観音堂を過ぎると果無峠まではもう一息だ。峠からの下りを進むと登山道沿いには満開のシャクナゲを多く見かけるようになる。尾根は長く感じられるが、途中の展望台から熊野川とその広々とした河原が視界に入ると遂に熊野本宮の地に来たかという感慨が湧きおこる。
八木尾に出るとすぐ後ろから続いて単独行の男性が降りて来られる。バス停の隣に公衆電話があるので自宅に電話をかけ、電話口に出た娘に行程の変更を伝える。前を歩く男性はほぼ私と同様の歩調のようだ。道の駅に到着したところで、12時の時報がなる。ここで男性と共に少し休憩する。昨夜は三浦峠にテン泊だったらしい。
あとは本宮まではわずかな距離だ。三軒茶屋跡に至ると多くの人がいる。多くはハイキングのスタイルではなく、普通の格好だ。発心門王子から中辺路を歩いて来られた観光客なのだろう。再び山道となるが広く緩やかな道が続いており、歩きやす靴であれば問題なく歩くことが出来るだろう。
途中の展望台に立ち寄ると眼下に大斎原の巨大な鳥居が見える。休憩しておられた男性の若者三人が丁度、立ち去るところであった。「ここは気持ち良いのでなかなか去り難い」という声で聞こえてくる。
緩やかに坂を下ってゆくと本宮に裏門から入ることになる。本宮の境内に入るとここが辺鄙な山奥であるということを忘れそうになるほどに大勢の人を見かける。ここでもかなりの多くの外国人の姿を見かけるのだった。
上四社と呼ばれる四つの社殿があるが、お参りをするのにもそれぞれに二十人ほどずつの行列が出来ている。列の後ろから簡単にお参りを済ませると授与所で娘の合格祈願のお守りを買って引き上げる。参詣のあとは本宮の門前の珍重庵でとろろそばにありつく。
食後は大斎原にお参りをする。元来はこの地に中下四社が祀られていたが、明治22年の大水害により社殿が倒壊してしまったらしい。かつては壮麗な社殿が立ち並んでいたであろう広大な敷地は一面に緑の芝生の草原が広がっているが、いかにも神聖な雰囲気が漂っていた。
本宮前に戻ると観光案内所で中辺路のガイドマップの冊子を頂く。かなり詳細に説明が付け加えられた地図が載っており、GPSが使えない不安が一気に解消する。小辺路とは異なり、中辺路には頻繁に休憩所があることは知ってはいたが、休憩所のポイントが記されているので、今夜の宿泊地を探すのに格好だ。ついでに小辺路の冊子も頂戴する。これがあったら昨日のルート・ロスもなかったかもしれない。
中辺路に出発する前にひと汗流したかったので、川湯温泉に寄り道する。川湯温泉の公衆浴場は温泉であることを疑うほどに古びた建物であり、狭い階段を登ったところに入口がある。いかにも昭和の雰囲気であるが、料金も昭和のスタイルだ。つい最近になって大人は¥300に値上がりしたというが、それまではいくらだったのだろう。
以前、長男と共に奥駈道を辿って本宮にたどり着いた時には渡瀬温泉の大露店風呂に浸かったのだが、温泉はほぼ同様の泉質であり、微かに硫黄臭のする柔らかな温泉であった。お湯の温度が高く長くは入っていられないが、ひと汗を流す分には程よいところであった、それにしても温泉の効能は偉大だと思う。ここまで既にに70kmほど歩いたところでさすがに足に疲労を感じていたのだが、わずかな入浴ですっかり回復したような気がする。
川湯温泉から歩き始めるとすぐに対岸に大きなキャンプ場が現れる。流石に大勢のキャンパー達で賑わっていた。人が少なければかなりいいキャンプ地だろう。およそ20分ほど歩いて請川に到着すると、嬉しいことに国道沿いにデイリーヤマザキのコンビニがある。
既に本宮前のコンビニでビールを一本入手してはいたのだが、冷凍のペットボトルが売られていたので熊野古道ビールと共に購入する。ついでにもう一本。中辺路に出発する前にまず店の横のベンチで一本を開ける。請川の中辺路の登山口には小さな店がある。鳥そばなるものが売られているので気になるところではあるが、残念ながら時間が中途半端だ。
小雲取越と呼ばれる標高400m代の山越えの道に入ると新緑の自然林の中を緩やかに登る快適な道が続いている。ただ登山道にはシイの花の濃厚な匂いが漂う。果たしてこの匂いを心地よいと感じる人がいるのだろうか。標高が上がるにつれてシイの匂いは感じられなくなり、尾根上には涼しい風が吹き渡るようになる。
百間ぐらと呼ばれる展望地に辿り着くと、西の空に傾いてゆく太陽が重畳と連なる山々のシルエットを浮かび上がらせていた。
林道と交差し、小雲取山の小ピークを過ぎると道は尾根の東側をトラバースするようになると、それまでの夕陽が照らされた明るい樹林とはうってかわって、急に薄暗くなる。石堂茶屋跡には長いテーブルがあるが、なぜか陰鬱な場所に思われた。次の桜茶屋跡の休憩所は正面が開けており、明るい雰囲気ではあるが、風が吹き込みそうな気がしたので、小和瀬まで降りることにする。小和瀬にかけては石段や石畳が頻繁に現れる。急速に夜の帳が下りくる中を急ぎ足で下る。
小和瀬は街灯はあるものの民家が見当たらない。川を渡ると空にはわずかに残照の名残りが見られる。ガイドマップの記載の通り小さな東屋があるので、ここで泊まることにする。有難いことに道路は達る車もほとんどなく、静かな雰囲気だ。まずはビールの供にソーセージを温める。ついで牛肉と供にキノコ、パプリカをソテーし、後半は塩おにぎりを投入してリゾット風にする。夜は風も寒さも感じられず、朝までよく眠ることが出来た。
【三日目】
出発する前に橋のたもとにある案内板を読むと、小口が歴史に初めて登場する文献として西行法師歌が紹介されている。「雲取や志古の山路はさておきて小口が原のさびしからぬか」。山家集に収められた歌で、那智から熊野本宮に戻る道中にて詠んだものらしい。その情報による先入観のせいか朝の黎明の中に浮かび上がる小口の集落はなんとも寂しげな場所に思われるのだった。
小口から大雲取越の道に入るとすぐにも苔むした石畳の道となる。驚いたのはその道が延々と続くことだ。果たしてどれくらいの年月をかけて作られたものだろう。この石を敷き詰めた人々を動かした熊野への篤い信仰の心に今さらながらに感服せざるを得ない。ここまで歩いてきた中で最も熊野古道らしい趣があるのがこの区間と言えるだろう。この熊野古道歩きを魅力的にしているのが道程の長さではなく、道そのものの魅力にあることに思い至る。
円座石を過ぎたあたりで古道を写真に撮ることが出来るほどに明るくなる。道の両側には古い旅籠か住居の跡と思われる苔むした石垣がいくつも現れる。中辺路を往来する人々によるかつての賑わいが偲ばれる。
やがて植林の中の登り坂になっても苔むした石段が延々と続く。胴切坂という不吉な名称の坂は中辺路における最大の難所らしい。最高地点となる越前峠は標高860mであり、小口から標高差800mほどを一気に登ることになる。峠から先に進むと見慣れない赤紫色の小さなツツジ系の花が多く咲いている。この山域によく咲く雲仙躑躅の花らしい。紀州米躑躅と呼ばれることもあるようだ。
小さな鞍部を挟んで再び石段を登り返すと石倉峠に到着する。峠から降ったところにある地蔵茶屋跡の休憩舎はそれまでの東屋ではなく、中には水道も台所もあり電気もつく立派な小屋だ。小屋の前には2台の車が停められており、小屋の前では四人の男性が談笑しておられた。
ここからはしばらく舗装路の登りとなる。この大雲取越における最高地点となる舟見茶屋跡に到着するトレラン・スタイルの男性が休憩しておられた。茶屋跡からは芒洋と広がる海に突き出した小さな半島が視界に入る。紀伊勝浦のあたりだろう。私が海に見入っていると、後ろからトレランの男性が「ここからの景色は感動的ですよね」と仰るが御意である。ましてや遥々と高野山から縦走して来た者にとってはなおさらだ。
あとは那智大社を目指してひたすら下ることになる。この中辺路は小辺路と違って歩く人が少ないものと思っていたが、豈図らんや、途端に多くの登山者とすれ違うことになる。那智大社の直前で先を歩かれる一人の男性に追いつく。高野山から四泊五日で縦走して来られたらしく、前日は地蔵茶屋跡で泊まられたようだ。先ほどの人達は地元の高校の山岳部のOBで昨夜は宴会だったらしい。
那智大社に入るとやはり多くの参詣客で賑わっている。大社の前には簡単にお参りを済ませて那智の滝に向かう。ここでは自転車乗りの外国人の大集団が訪れていた。
観光客で賑わう那智の山からは杉の大樹が立ち並ぶ大門坂を降り、那智の海を目指す。熊野古道は長閑な田園風景の中を海辺の補陀落寺を目指して続いている。普段はここを歩く人は少ないのだろうが、後ろから自転車に乗った外国人達が次々と追い越していく。
補陀落寺は小さな堂宇の静かな寺であった。寺守の男性が「ようこそお参り下さいました」とお声がけ下さる。寺の内陣は自由に拝観できるようになっている。寺の隣にある浜の王子の参道では大きなクスノキが枝を涼しげに広げていた。
那智の駅前にある道の駅には温泉があるが、営業はなんと15時からとなっている。国道の手前には酒屋があり、店は空いていなかったが店の前の自動販売機で熊野古道麦酒を一缶手に入れる。紀勢線の線路の下をく潜ると途端に目の前には広々とした砂浜と紺碧の海が広がる。砂浜を洗う波はそれが太平洋のものであるということが信じられないほどに穏やかであった。海岸のベンチで聞こえてくる穏やかな波の音を聴きながら麦酒を傾ける。至福の瞬間だった。
次の各駅停車で紀伊勝浦で途中下車をすると丁度、ランチの時間と重なったせいか食事の出来る店の前はどこも行列している。行列が少なかった店に並ぶことにする。私の後で列に並んだ男性達の会話から人気店であることを知るが、この店を選んだのは店の前に掲げられていた紀州の日本酒のメニューに惹かれたからだ。客はおしなべて鮪丼を注文するようだったが、躊躇なくイルカの刺身と日本酒「熊野三山」を注文する。
店でのんびりと舌鼓を打つ間に気がつくと特急の時間が近づいていた。近くの酒屋で「南方」「超久」「黒牛」を入手し、リュックに詰め込むと、パンダの絵柄の特急に乗り込む。車窓に現れる次々と小さな入江を眺めながら、紀州の山路への憧憬の念を強く感じるのだった。