おはようございます、satoさん。
19日は、この上ないお天気でしたね。
前日雨で、夜は風が強く、翌朝の気温が低い予報でしたので、空気が澄んでいてお山の木々は霧氷で飾られるかな、と思ったのですが、
ここまで、澄み渡った空になるとは。皆さまの、レポを拝見し、ため息をついています。いや、歯ぎしりです。
お山を味わえなかった人には、この日のレポは、精神衛生上、よくないです(笑)。
南条のあたりを通った時は濃霧で、ここまで晴天になるとは思いませんでした。
私も、地図を眺めた時、冠山を挟んで東西にある冠ケ峠(冠越)と冠山峠に興味を惹かれました。
冠山峠は、1971年に林道冠山線が通った時に新設された峠。人々が歩いて行き来した峠は、冠ケ峠ですね。
冠越の道は、古くから美濃の徳山と、越前の田代とを結ぶ峠道。
そう、大正時代、桧尾峠道が主流になるまで、鯖江の誠照寺の美濃檀家廻りのお廻りさんも歩かれた道。
この道を歩いた人たちは、どのような気持ちで、冠山を仰ぎ見たのでしょうね。
越前も徳山も一向宗ですね。
一時期は弾圧された宗派だけに相互扶助の助け合いの意識も強いようです。
根尾谷と徳山谷の人たちだけが越前の一向宗の檀家というのもうなずけます。
『秘境・奥美濃の山旅』を読み、お廻りさんの風習を知り、越美国境稜線の山やまへの想いがどんどんと膨らんでいきました。
冠越の越前側の道は、『秘境・奥美濃の山旅』を読むと、・916の尾根のようですね。
スタンフォード大学の地図でも、田代から冠谷を遡り・916の尾根へと破線が続いています。
今は、ヤブに埋もれていますね。ヤブや落ち葉の下には、人びとの様々な思いも折り重なっているのだなぁ。
地図を眺めていると、いろいろな思いに包まれます。
・916の尾根みたいですね。
昔は登山道だったみたいだけど今もたどれるのかな?
『秘境・奥美濃の山旅』が気になって思わずヤフオクでポチッとしました。
雪の冠山へは、私も田代尾根から登りました。雪の中の平家落人の伝承が残る廃村田代の空気も味わいたいと思いました。
私が訪れた年は雪が多く、トンネル横から取りつきました。
尾根の両側の木々は若く、人びとがずっと入っていたお山なのだなぁ、と思いました。ワイヤーと滑車は、鮮明に記憶に刻まれています。
田代尾根は杣道が残っているのですね。雪の降り積もったまっ白な尾根だと分からないですね。
山頂まで、ヤブに捕まった記憶は無いのですが、・1058周辺は雪融けが早いのですね。
雪解けが早かったので強靭なヤブにかかりましたが、杣道にも出会えました。
木地師の村だったので、当時はそれなりの木がたくさんあったと思います。
稜線に出ると、霧氷でしたか。素晴らしい世界に出会えましたね。霧氷はお山の神様からのプレゼント。
わりばしさんは、今シーズン、何度も、うつくしい霧氷に出会われていますね。うらやましいです。
私は、日頃の行いがよくないのか、今シーズン、一面の霧氷!という世界は味わえませんでした。
そういわれればそうですね。
山行の回数の割にはラッキーでした。
タイミングと山域ですから。
山頂への最後の登りは、ワクワク面白かったです。
アイゼンに履き替えなくても大丈夫だな、と思い、スノーシューとピッケルで登りました。
雪の状態で判断する箇所ですね。
山頂は、灌木も雪で埋まっていて、うつくしい雪庇に飾られていましたが、春霞で遠くのお山は、ぼやけていました。
金草岳の大きな大きなまっ白なお姿に圧倒されました。
冠越の美濃側は、シタ谷の左岸尾根。私も、ここが峠道だったのだなぁ、と感慨に浸っていました。
雪の季節は、尾根や谷を見渡せて、埋もれてしまった道が浮かんできますね。
スノーシューで登れたってことは雪が多かったんだ・・うらやましい。
- 金草岳
徳山谷はアマゴやイワナがたくさん取れた所なので
サバやニシンのお寿司は正月の特別な料理だったと思います。
帰りに池田町の街の駅で「ニシンの昆布巻き」を買いました。
美味しかったです。
山奥の集落でニシンを食べる食文化は残っていました。
新潟生まれの妻も正月にはよく食べていたと言っていたので
北前船の影響かなと思いました。
下りは、冠平に降りて、大野市と池田町の境の尾根を標高900mまで辿り、トンネル入り口に向かいました。
冠平から仰ぎ見た冠山は、どこまでも白く滑らかで、アイスクリームのようでした。
さっきまでの荒々しい冠山はどこにいってしまわれたのだろう、と不思議な気持ちに包まれました。
白と水色ふたつの色の冠平は夢のような場所でした。
雪の多いときに周回をしたいですね。
今年はなにせ雪解けが早すぎました。
- 徳山湖
境の尾根は、わりばしさんが少し前に歩かれた部子山へと延びていますね。熊河峠、巣原峠が気になっています。
水海の伝統行事、田楽能舞の歴史は鎌倉時代に遡るのですね。
北条時頼と村人との交流によって始まったという伝承がありますが、わりばしさんが、おっしゃるように、
能郷の能が巣原峠を越えて伝わったのかもしれませんね。
桐ケ平山周辺は地形も面白く、数年前に訪れた時は霧でしたので、再訪したいなぁ、と思い続けています。
伝承には箔をつけるために後付けでなされる場合も多いです。
その最たるのが木地師の惟喬親王ですね。
時代が違いますから。
昔の人の知恵なんでしょう。
残された文化と地図でにらめっこするのがシンプルな気がします。
山と人との歴史に思いを馳せながら山を歩くと、いろいろな風景が見えてきますね。
ヤブ山は、マイナーな山、誰も歩かないような道なき山、という言い方がされますが、
少し前の時代までは、山中には、交易道や仕事道が縫われ、人びとが行き交っていたのですね。
山は、生活の場だったのですね。
山に限らず、今、目に見えているものがすべてではない。目に映るものの奥にあるものに思いを巡らすと、
見えてくるもの、感じるものがたくさんありますね。
明治以降日本人は古いものを切り捨てるのに慣れすぎちゃいました。
その中に大切なものもあるような気がします。
私達の祖先がどう生きてきたのか・・
見てみたいですね。
先日、京都丹波のちいさな峠を巡りました。いろいろ感じるものがありました。
もう霧氷に出会えないのは残念ですが、山と人との歴史を感じながらの山歩きが楽しみです。
今は丹波の峠ですか。
歴史のある地域だけに楽しみですね。