治田峠から茨川
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新規トピックは文頭に以下のテンプレートをなるべく使ってください。
【 日 付 】
【 山 域 】
【メンバー】
【 天 候 】
【 ルート 】
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治田峠から茨川
2015.07.12(SUN) 晴れ/曇り 同行者 H
鈴鹿北部
新町=青川峡=中尾=治田峠=茨川
ちょっと遅れたレポ
茨川はもちろん何度も訪れているが、治田峠から下りるのは13年ぶりである。H君に茨川出身の知人がいるということで、一度茨川を見たいという希望に応えることにした。しかし茨川林道を車で行っては登山者の面目が立たない。当時の人の苦労を追体験するには治田越えがよかろう。しかし今の時期青川から茨川となればヤマビルの猛襲は必至。あえて今行くことはないのだが、他に行きたいコースもないし久々の伊勢谷がどうなっているか確認したくて出かけることにした。H君は「ヒル下がりのジョニー」を買ってきて用意万端。私は食塩水のスプレー持参。新町の奥は相変わらずオートキャンプ場で通行止め。休みコバまで車で入れなくなったことは時間的にも体力的にも結構なロスだ。
本当に林道があったのか初めての人なら疑わしいような荒れた河原を延々と歩く。青川自体は時々通るので荒れているのは承知。復旧工事はまだ一部である。雨上がりで飛び石の渡渉に苦労する。35分かかって休みコバ跡到着で一休み。このあとも同じようなゴロゴロと荒れた歩きにくい河原歩き。広河原という場所があったが、もはやどこでも広河原である。水は伏流と表流を繰り返す。やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
日丘稲荷はまだ健在だった。しかし鮮やかだった赤い鳥居の下部が腐って痩せている。再び修復の手が入るのか、あるいは見捨てられるのか。案の定ヒルどもが靴を這い上がっている。スプレーで落とす。この先ルートが良く分からないが適当に歩く。ヒル被害第一号は左手指の股。気付かずにいて結構出血した。下り藤あたりでくっついたのだろう。中尾の取りつきの急斜面はジグザグ道が消えかかっていて歩きにくい。ヒルがわらわらと寄ってくる。梅雨時にこんな所へ承知で来るとは我ながら阿呆である。
やがて尾根芯に出て、掘割の急登が始まる。気温も湿度も高くて汗が噴き出す。もう顔を洗う清流もない。ただでさえ体力が低下した体は高湿度で体温が下がらず青息吐息。休みまくって登る。中尾地蔵はまだか、まだか・・・もうあかん。ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。おいたわしや。ここから治田峠までまだ標高差は大分残っている。ヒルを避けるため落ち葉の堆積した掘割を通らず、上の斜面を登る。噴き出す汗を補うために水をがぶ飲みする。
ようやく着いた治田峠でへたり込む。H君は私より少し元気なようだ。峠はなんら変りない。素朴な風情を保っているが、良く見ると端のほうにかなり年代の古いゴミが散らばっている。昔はゴミなんかちょっと土を掛けておけばOKみたいな風潮だったようだ。「釣りキチ三平」という漫画で魚紳が釣り場にゴミを埋めたのを見て、三平が「なんてマナーのいい人だろう」と感心する場面があったが、いまならトンデモヤローである。峠を吹き抜ける風で体を冷やしながら長い休憩とヒルの点検。定番の足首は無事だったが、ふくらはぎと腰をやられた。まあ予想よりは軽微と言えるだろう。
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。やがて傾斜も落ち着き、美しい小渓流となる。時期的なものもあるが意外と水量があり、20年ほど前と何ら変わりない。その次に通ったときは98年の台風の直後で、北斜面が崩壊し、植林が谷に散乱して死ぬほど苦労した思い出がある。今回はその倒木も腐ったり除去されたりで殆ど通行の支障にはならなかった。茨川には他のルートから何度か入って伊勢谷の堰堤工事が進んでいるのは知っていた。でも今回は上流側から見ることになる。堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
茨川には誰もいなかった。特に変わった様子もなく名大小屋も八幡工業の小屋もまだ倒壊の恐れはない。集落跡をH君に説明する。山本素石は廃村間もない時期によく茨川へ泊りに来ていた。どの家だったのだろう。腹が減ったので河原の日陰を探して昼食にする。トチの葉が風にそよぎ、涼しくて極楽だ。夏は避暑地のような場所である。水も何ぼでもある。でも大分前から土砂で埋まって風情はなくなってしまった。裸になって体を洗い、シャツを洗って木の枝で干す。せっかくサッパリしても帰りにまた汗だくになるだろうが仕方ない。十分くつろいでから裸足で茶屋川を渡渉して神社に参拝した。鳥居の根元が少し埋まった以外、ここも変わりない。やがて今日初めて出会う人が上流から来て黙って去って行った。林道は通れないはずだし、何処から来て何処へ行くのだろうと思ったが、人嫌いでけん介な雰囲気があったのでやめておいた。帰り支度をして歩きだしたら、茶屋川対岸の林道にバイクが2台現れた。若者に道路通れたの?と聞くと、通れましたとのこと。
朝は帰路を銚子岳へ向かう尾根にしようと思っていたが、この湿度ではとてもそんな気になれず、往路を戻った。治田峠で休息していると北から若者がやってきた。この人は気さくで色々話をした。大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!! 銚子岳のアップダウンはきついよ。しかも下山しても交通機関はないよ。三里の駅まで歩くのだろうか。いやはや恐れ入りました。私らじじいの時代は去った。若者に乾杯(完敗)
ハリマオ
鈴鹿北部
新町=青川峡=中尾=治田峠=茨川
ちょっと遅れたレポ
茨川はもちろん何度も訪れているが、治田峠から下りるのは13年ぶりである。H君に茨川出身の知人がいるということで、一度茨川を見たいという希望に応えることにした。しかし茨川林道を車で行っては登山者の面目が立たない。当時の人の苦労を追体験するには治田越えがよかろう。しかし今の時期青川から茨川となればヤマビルの猛襲は必至。あえて今行くことはないのだが、他に行きたいコースもないし久々の伊勢谷がどうなっているか確認したくて出かけることにした。H君は「ヒル下がりのジョニー」を買ってきて用意万端。私は食塩水のスプレー持参。新町の奥は相変わらずオートキャンプ場で通行止め。休みコバまで車で入れなくなったことは時間的にも体力的にも結構なロスだ。
本当に林道があったのか初めての人なら疑わしいような荒れた河原を延々と歩く。青川自体は時々通るので荒れているのは承知。復旧工事はまだ一部である。雨上がりで飛び石の渡渉に苦労する。35分かかって休みコバ跡到着で一休み。このあとも同じようなゴロゴロと荒れた歩きにくい河原歩き。広河原という場所があったが、もはやどこでも広河原である。水は伏流と表流を繰り返す。やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
日丘稲荷はまだ健在だった。しかし鮮やかだった赤い鳥居の下部が腐って痩せている。再び修復の手が入るのか、あるいは見捨てられるのか。案の定ヒルどもが靴を這い上がっている。スプレーで落とす。この先ルートが良く分からないが適当に歩く。ヒル被害第一号は左手指の股。気付かずにいて結構出血した。下り藤あたりでくっついたのだろう。中尾の取りつきの急斜面はジグザグ道が消えかかっていて歩きにくい。ヒルがわらわらと寄ってくる。梅雨時にこんな所へ承知で来るとは我ながら阿呆である。
やがて尾根芯に出て、掘割の急登が始まる。気温も湿度も高くて汗が噴き出す。もう顔を洗う清流もない。ただでさえ体力が低下した体は高湿度で体温が下がらず青息吐息。休みまくって登る。中尾地蔵はまだか、まだか・・・もうあかん。ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。おいたわしや。ここから治田峠までまだ標高差は大分残っている。ヒルを避けるため落ち葉の堆積した掘割を通らず、上の斜面を登る。噴き出す汗を補うために水をがぶ飲みする。
ようやく着いた治田峠でへたり込む。H君は私より少し元気なようだ。峠はなんら変りない。素朴な風情を保っているが、良く見ると端のほうにかなり年代の古いゴミが散らばっている。昔はゴミなんかちょっと土を掛けておけばOKみたいな風潮だったようだ。「釣りキチ三平」という漫画で魚紳が釣り場にゴミを埋めたのを見て、三平が「なんてマナーのいい人だろう」と感心する場面があったが、いまならトンデモヤローである。峠を吹き抜ける風で体を冷やしながら長い休憩とヒルの点検。定番の足首は無事だったが、ふくらはぎと腰をやられた。まあ予想よりは軽微と言えるだろう。
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。やがて傾斜も落ち着き、美しい小渓流となる。時期的なものもあるが意外と水量があり、20年ほど前と何ら変わりない。その次に通ったときは98年の台風の直後で、北斜面が崩壊し、植林が谷に散乱して死ぬほど苦労した思い出がある。今回はその倒木も腐ったり除去されたりで殆ど通行の支障にはならなかった。茨川には他のルートから何度か入って伊勢谷の堰堤工事が進んでいるのは知っていた。でも今回は上流側から見ることになる。堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
茨川には誰もいなかった。特に変わった様子もなく名大小屋も八幡工業の小屋もまだ倒壊の恐れはない。集落跡をH君に説明する。山本素石は廃村間もない時期によく茨川へ泊りに来ていた。どの家だったのだろう。腹が減ったので河原の日陰を探して昼食にする。トチの葉が風にそよぎ、涼しくて極楽だ。夏は避暑地のような場所である。水も何ぼでもある。でも大分前から土砂で埋まって風情はなくなってしまった。裸になって体を洗い、シャツを洗って木の枝で干す。せっかくサッパリしても帰りにまた汗だくになるだろうが仕方ない。十分くつろいでから裸足で茶屋川を渡渉して神社に参拝した。鳥居の根元が少し埋まった以外、ここも変わりない。やがて今日初めて出会う人が上流から来て黙って去って行った。林道は通れないはずだし、何処から来て何処へ行くのだろうと思ったが、人嫌いでけん介な雰囲気があったのでやめておいた。帰り支度をして歩きだしたら、茶屋川対岸の林道にバイクが2台現れた。若者に道路通れたの?と聞くと、通れましたとのこと。
朝は帰路を銚子岳へ向かう尾根にしようと思っていたが、この湿度ではとてもそんな気になれず、往路を戻った。治田峠で休息していると北から若者がやってきた。この人は気さくで色々話をした。大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!! 銚子岳のアップダウンはきついよ。しかも下山しても交通機関はないよ。三里の駅まで歩くのだろうか。いやはや恐れ入りました。私らじじいの時代は去った。若者に乾杯(完敗)
ハリマオ
Re: 治田峠から茨川
おはようございます、ハリマオさん。
お久しぶりです。
本当に林道があったのか初めての人なら疑わしいような荒れた河原を延々と歩く。青川自体は時々通るので荒れているのは承知。復旧工事はまだ一部である。雨上がりで飛び石の渡渉に苦労する。35分かかって休みコバ跡到着で一休み。このあとも同じようなゴロゴロと荒れた歩きにくい河原歩き。広河原という場所があったが、もはやどこでも広河原である。水は伏流と表流を繰り返す。やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
三鉱谷もやられていて、なんかすごいでしょ。
日丘稲荷はまだ健在だった。しかし鮮やかだった赤い鳥居の下部が腐って痩せている。再び修復の手が入るのか、あるいは見捨てられるのか。案の定ヒルどもが靴を這い上がっている。スプレーで落とす。この先ルートが良く分からないが適当に歩く。ヒル被害第一号は左手指の股。気付かずにいて結構出血した。下り藤あたりでくっついたのだろう。中尾の取りつきの急斜面はジグザグ道が消えかかっていて歩きにくい。ヒルがわらわらと寄ってくる。梅雨時にこんな所へ承知で来るとは我ながら阿呆である。
中尾は檜谷と三鉱谷の間の尾根なので、西尾本に書いてある平尾ノ坂の平尾に取りついたんですね。
平尾の中ほどにあるから中尾地蔵だそうです。
また~下り藤で奇麗なおねえちゃんヒルにまとわりつかれちゃったのですね、この色男。
やがて尾根芯に出て、掘割の急登が始まる。気温も湿度も高くて汗が噴き出す。もう顔を洗う清流もない。ただでさえ体力が低下した体は高湿度で体温が下がらず青息吐息。休みまくって登る。中尾地蔵はまだか、まだか・・・もうあかん。ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。おいたわしや。ここから治田峠までまだ標高差は大分残っている。ヒルを避けるため落ち葉の堆積した掘割を通らず、上の斜面を登る。噴き出す汗を補うために水をがぶ飲みする。
この祠も時間の問題でしたね。
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。やがて傾斜も落ち着き、美しい小渓流となる。時期的なものもあるが意外と水量があり、20年ほど前と何ら変わりない。その次に通ったときは98年の台風の直後で、北斜面が崩壊し、植林が谷に散乱して死ぬほど苦労した思い出がある。今回はその倒木も腐ったり除去されたりで殆ど通行の支障にはならなかった。茨川には他のルートから何度か入って伊勢谷の堰堤工事が進んでいるのは知っていた。でも今回は上流側から見ることになる。堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
急に立派な道と堰堤が出てきてビックリです。
茨川の駐車場が流されて、このエリアだけ違和感ありありです。
茨川には誰もいなかった。特に変わった様子もなく名大小屋も八幡工業の小屋もまだ倒壊の恐れはない。集落跡をH君に説明する。山本素石は廃村間もない時期によく茨川へ泊りに来ていた。どの家だったのだろう。腹が減ったので河原の日陰を探して昼食にする。トチの葉が風にそよぎ、涼しくて極楽だ。夏は避暑地のような場所である。水も何ぼでもある。でも大分前から土砂で埋まって風情はなくなってしまった。裸になって体を洗い、シャツを洗って木の枝で干す。せっかくサッパリしても帰りにまた汗だくになるだろうが仕方ない。十分くつろいでから裸足で茶屋川を渡渉して神社に参拝した。鳥居の根元が少し埋まった以外、ここも変わりない。やがて今日初めて出会う人が上流から来て黙って去って行った。林道は通れないはずだし、何処から来て何処へ行くのだろうと思ったが、人嫌いでけん介な雰囲気があったのでやめておいた。帰り支度をして歩きだしたら、茶屋川対岸の林道にバイクが2台現れた。若者に道路通れたの?と聞くと、通れましたとのこと。
駐車地が無いだけで茨川まで通れるみたいですね。
神社は新町に住んでいる元村民の人達がお世話をしてくれているみたいです。
一度能面を見たいものです。
わりばし
お久しぶりです。
本当に林道があったのか初めての人なら疑わしいような荒れた河原を延々と歩く。青川自体は時々通るので荒れているのは承知。復旧工事はまだ一部である。雨上がりで飛び石の渡渉に苦労する。35分かかって休みコバ跡到着で一休み。このあとも同じようなゴロゴロと荒れた歩きにくい河原歩き。広河原という場所があったが、もはやどこでも広河原である。水は伏流と表流を繰り返す。やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
三鉱谷もやられていて、なんかすごいでしょ。
日丘稲荷はまだ健在だった。しかし鮮やかだった赤い鳥居の下部が腐って痩せている。再び修復の手が入るのか、あるいは見捨てられるのか。案の定ヒルどもが靴を這い上がっている。スプレーで落とす。この先ルートが良く分からないが適当に歩く。ヒル被害第一号は左手指の股。気付かずにいて結構出血した。下り藤あたりでくっついたのだろう。中尾の取りつきの急斜面はジグザグ道が消えかかっていて歩きにくい。ヒルがわらわらと寄ってくる。梅雨時にこんな所へ承知で来るとは我ながら阿呆である。
中尾は檜谷と三鉱谷の間の尾根なので、西尾本に書いてある平尾ノ坂の平尾に取りついたんですね。
平尾の中ほどにあるから中尾地蔵だそうです。
また~下り藤で奇麗なおねえちゃんヒルにまとわりつかれちゃったのですね、この色男。
やがて尾根芯に出て、掘割の急登が始まる。気温も湿度も高くて汗が噴き出す。もう顔を洗う清流もない。ただでさえ体力が低下した体は高湿度で体温が下がらず青息吐息。休みまくって登る。中尾地蔵はまだか、まだか・・・もうあかん。ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。おいたわしや。ここから治田峠までまだ標高差は大分残っている。ヒルを避けるため落ち葉の堆積した掘割を通らず、上の斜面を登る。噴き出す汗を補うために水をがぶ飲みする。
この祠も時間の問題でしたね。
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。やがて傾斜も落ち着き、美しい小渓流となる。時期的なものもあるが意外と水量があり、20年ほど前と何ら変わりない。その次に通ったときは98年の台風の直後で、北斜面が崩壊し、植林が谷に散乱して死ぬほど苦労した思い出がある。今回はその倒木も腐ったり除去されたりで殆ど通行の支障にはならなかった。茨川には他のルートから何度か入って伊勢谷の堰堤工事が進んでいるのは知っていた。でも今回は上流側から見ることになる。堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
急に立派な道と堰堤が出てきてビックリです。
茨川の駐車場が流されて、このエリアだけ違和感ありありです。
茨川には誰もいなかった。特に変わった様子もなく名大小屋も八幡工業の小屋もまだ倒壊の恐れはない。集落跡をH君に説明する。山本素石は廃村間もない時期によく茨川へ泊りに来ていた。どの家だったのだろう。腹が減ったので河原の日陰を探して昼食にする。トチの葉が風にそよぎ、涼しくて極楽だ。夏は避暑地のような場所である。水も何ぼでもある。でも大分前から土砂で埋まって風情はなくなってしまった。裸になって体を洗い、シャツを洗って木の枝で干す。せっかくサッパリしても帰りにまた汗だくになるだろうが仕方ない。十分くつろいでから裸足で茶屋川を渡渉して神社に参拝した。鳥居の根元が少し埋まった以外、ここも変わりない。やがて今日初めて出会う人が上流から来て黙って去って行った。林道は通れないはずだし、何処から来て何処へ行くのだろうと思ったが、人嫌いでけん介な雰囲気があったのでやめておいた。帰り支度をして歩きだしたら、茶屋川対岸の林道にバイクが2台現れた。若者に道路通れたの?と聞くと、通れましたとのこと。
駐車地が無いだけで茨川まで通れるみたいですね。
神社は新町に住んでいる元村民の人達がお世話をしてくれているみたいです。
一度能面を見たいものです。
わりばし
Re: 治田峠から茨川
ハリマオさんこんにちわ~♪
ご無沙汰しています。
新町=青川峡=中尾=治田峠=茨川
ちょっと遅れたレポ
出すだけましやね~♪
茨川はもちろん何度も訪れているが、治田峠から下りるのは13年ぶりである。H君に茨川出身の知人がいるということで、一度茨川を見たいという希望に応えることにした。しかし茨川林道を車で行っては登山者の面目が立たない。当時の人の苦労を追体験するには治田越えがよかろう。
トンネルを抜けたらすぐなのにね~♪
さすが山男です!!
日丘稲荷はまだ健在だった。しかし鮮やかだった赤い鳥居の下部が腐って痩せている。再び修復の手が入るのか、あるいは見捨てられるのか。案の定ヒルどもが靴を這い上がっている。スプレーで落とす。この先ルートが良く分からないが適当に歩く。ヒル被害第一号は左手指の股。気付かずにいて結構出血した。下り藤あたりでくっついたのだろう。中尾の取りつきの急斜面はジグザグ道が消えかかっていて歩きにくい。ヒルがわらわらと寄ってくる。
お稲荷さん界隈、鉱山が栄えていたときは遊郭があったと聞いてますか゛・・・ホンマですか~
でも、ヒルにも負けずにすごい根性~
私は嫌です、今の季節のこのコース。
ようやく着いた治田峠でへたり込む。H君は私より少し元気なようだ。峠はなんら変りない。素朴な風情を保っているが、良く見ると端のほうにかなり年代の古いゴミが散らばっている。
ハリマオさんがへたり込むとは~
献血しすぎて、貧血か・・・(><)
堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
どこから出るの、このお金。国?
茨川には誰もいなかった
今の季節は行かないでしょう~
トチの葉が風にそよぎ、涼しくて極楽だ。夏は避暑地のような場所である。水も何ぼでもある。でも大分前から土砂で埋まって風情はなくなってしまった。裸になって体を洗い、シャツを洗って木の枝で干す。
ご苦労様でした。
茨川は昔、ハリマオさんが連れて行ってくれましたね。
長靴でバシャバシャと水の中を歩き、尾根に取りついて・・・・途中大きな木が3本あったような・・・
最近はアルツが始まっていて、なかなか思い出せません(><)
あの時、初めて長靴を買いました。それからずっと長靴が私の相棒~
もう何代目かな~
長靴も天然ゴムは長持ちしますね。以前コーナンで買ったのは1日でパックンでしたが・・・
アルプスでも長靴で歩きたい気分~♪
ご無沙汰しています。
新町=青川峡=中尾=治田峠=茨川
ちょっと遅れたレポ
出すだけましやね~♪
茨川はもちろん何度も訪れているが、治田峠から下りるのは13年ぶりである。H君に茨川出身の知人がいるということで、一度茨川を見たいという希望に応えることにした。しかし茨川林道を車で行っては登山者の面目が立たない。当時の人の苦労を追体験するには治田越えがよかろう。
トンネルを抜けたらすぐなのにね~♪
さすが山男です!!
日丘稲荷はまだ健在だった。しかし鮮やかだった赤い鳥居の下部が腐って痩せている。再び修復の手が入るのか、あるいは見捨てられるのか。案の定ヒルどもが靴を這い上がっている。スプレーで落とす。この先ルートが良く分からないが適当に歩く。ヒル被害第一号は左手指の股。気付かずにいて結構出血した。下り藤あたりでくっついたのだろう。中尾の取りつきの急斜面はジグザグ道が消えかかっていて歩きにくい。ヒルがわらわらと寄ってくる。
お稲荷さん界隈、鉱山が栄えていたときは遊郭があったと聞いてますか゛・・・ホンマですか~
でも、ヒルにも負けずにすごい根性~
私は嫌です、今の季節のこのコース。
ようやく着いた治田峠でへたり込む。H君は私より少し元気なようだ。峠はなんら変りない。素朴な風情を保っているが、良く見ると端のほうにかなり年代の古いゴミが散らばっている。
ハリマオさんがへたり込むとは~
献血しすぎて、貧血か・・・(><)
堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
どこから出るの、このお金。国?
茨川には誰もいなかった
今の季節は行かないでしょう~
トチの葉が風にそよぎ、涼しくて極楽だ。夏は避暑地のような場所である。水も何ぼでもある。でも大分前から土砂で埋まって風情はなくなってしまった。裸になって体を洗い、シャツを洗って木の枝で干す。
ご苦労様でした。
茨川は昔、ハリマオさんが連れて行ってくれましたね。
長靴でバシャバシャと水の中を歩き、尾根に取りついて・・・・途中大きな木が3本あったような・・・
最近はアルツが始まっていて、なかなか思い出せません(><)
あの時、初めて長靴を買いました。それからずっと長靴が私の相棒~
もう何代目かな~
長靴も天然ゴムは長持ちしますね。以前コーナンで買ったのは1日でパックンでしたが・・・
アルプスでも長靴で歩きたい気分~♪
Re: 治田峠から茨川
ハリマオさん こんばんは
なんだかずいぶん久しぶりなような。
それで登場したレポはこの時期としては稀有な鈴鹿の暑い話。
なんだか逆の意味で新鮮です。ヤブコギのレポらしいかなって。
しかし今の時期青川から茨川となればヤマビルの猛襲は必至。あえて今行くことはないのだが、他に行きたいコースもないし久々の伊勢谷がどうなっているか確認したくて出かけることにした。
鈴鹿は行きつくしましたか。一時期は真夏でも行っていた鈴鹿ですが、ホント最近はご無沙汰です。
休みコバまで車で入れなくなったことは時間的にも体力的にも結構なロスだ。
私が鈴鹿を歩き始めて10年ぐらいになりますが、既にキャンプ場の先で車は入れなかったような覚えがあります。
いつから入れなくなったのでしょう
やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
埋まったというのは誰かのレポで読んだような。あんなのが埋まるとはちょっと信じられないし、逆に此処に隋道があったといわれても初めての人には
にわかに信じられないでしょう。
中尾地蔵はまだか、まだか・・・もうあかん。ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。
入れなくなって面倒を見る人もいなくなったということでしょうか。空き家が速く傷むのと同じ?
茨川には他のルートから何度か入って伊勢谷の堰堤工事が進んでいるのは知っていた。でも今回は上流側から見ることになる。堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
工事中に入ったことはありますが、もう工事は完了していましたか。
若者に道路通れたの?と聞くと、通れましたとのこと。
入れるんだ。でもバイク限定かな。
大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!! 銚子岳のアップダウンはきついよ。しかも下山しても交通機関はないよ。三里の駅まで歩くのだろうか。いやはや恐れ入りました。私らじじいの時代は去った。若者に乾杯(完敗)
トレランかな。最近は従来の常識を軽々と超える人に出会います。
私たちが、ロングルートだと騒いでいるコースも簡単に行ってしまう。距離を稼ぐだけが山登りではないとは思いますが、ひとつの指標ではあります。
まさに乾杯(完敗)
お疲れ様でした。
ハリマオ
なんだかずいぶん久しぶりなような。
それで登場したレポはこの時期としては稀有な鈴鹿の暑い話。
なんだか逆の意味で新鮮です。ヤブコギのレポらしいかなって。
しかし今の時期青川から茨川となればヤマビルの猛襲は必至。あえて今行くことはないのだが、他に行きたいコースもないし久々の伊勢谷がどうなっているか確認したくて出かけることにした。
鈴鹿は行きつくしましたか。一時期は真夏でも行っていた鈴鹿ですが、ホント最近はご無沙汰です。
休みコバまで車で入れなくなったことは時間的にも体力的にも結構なロスだ。
私が鈴鹿を歩き始めて10年ぐらいになりますが、既にキャンプ場の先で車は入れなかったような覚えがあります。
いつから入れなくなったのでしょう
やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
埋まったというのは誰かのレポで読んだような。あんなのが埋まるとはちょっと信じられないし、逆に此処に隋道があったといわれても初めての人には
にわかに信じられないでしょう。
中尾地蔵はまだか、まだか・・・もうあかん。ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。
入れなくなって面倒を見る人もいなくなったということでしょうか。空き家が速く傷むのと同じ?
茨川には他のルートから何度か入って伊勢谷の堰堤工事が進んでいるのは知っていた。でも今回は上流側から見ることになる。堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに? しかしこれで水生生物は茶屋川と完全に遮断されたわけで、閉鎖的な環境で生きていかねばならない。
工事中に入ったことはありますが、もう工事は完了していましたか。
若者に道路通れたの?と聞くと、通れましたとのこと。
入れるんだ。でもバイク限定かな。
大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!! 銚子岳のアップダウンはきついよ。しかも下山しても交通機関はないよ。三里の駅まで歩くのだろうか。いやはや恐れ入りました。私らじじいの時代は去った。若者に乾杯(完敗)
トレランかな。最近は従来の常識を軽々と超える人に出会います。
私たちが、ロングルートだと騒いでいるコースも簡単に行ってしまう。距離を稼ぐだけが山登りではないとは思いますが、ひとつの指標ではあります。
まさに乾杯(完敗)
お疲れ様でした。
ハリマオ
Re: 治田峠から茨川
割り箸さん こんにちは
個人的には銚子谷が埋まったのが痛いです。
中尾地蔵があるから中尾だと思っていましたが、尾根の中ほどにある地蔵だからちゅうことですね。
アイ婆さんの写真は残っていますが、下り藤の写真も見たいな^^
私も一度行きたいのですが、平日ではね。
ハリマオ
どこがどこだかよく分らないですね。橋脚跡とか大通洞坑も埋まったんだっけ。三鉱谷もやられていて、なんかすごいでしょ。
個人的には銚子谷が埋まったのが痛いです。
そうでしたか。西尾本見直してみますわ。中尾は檜谷と三鉱谷の間の尾根なので、西尾本に書いてある平尾ノ坂の平尾に取りついたんですね。
中尾地蔵があるから中尾だと思っていましたが、尾根の中ほどにある地蔵だからちゅうことですね。
下り藤は実際の遊女の名からとったとか。オツな命名ですね。また~下り藤で奇麗なおねえちゃんヒルにまとわりつかれちゃったのですね、この色男。
アイ婆さんの写真は残っていますが、下り藤の写真も見たいな^^
以前この祠に書かれた昭和の落書きを念入りに見ましたが、結構登山者があったようですね。この祠も時間の問題でしたね。
10月秋の大祭には新町以外の人も集まるようです。神社は新町に住んでいる元村民の人達がお世話をしてくれているみたいです。
一度能面を見たいものです。
私も一度行きたいのですが、平日ではね。
ハリマオ
Re: 治田峠から茨川
お久しぶりです、葉里麻呂さん。
ついこの間、読んだ本の影響で貴殿の「茨川の話」をこっそりしっかり見てました。
息をひそめて、そう、あの鑑定人にように、分からないようにしていたのに、なんで。
わざわざ、彼の地まで足を運んでレポまで挙げられるとは、奇特な御仁や。
[quote="ハリマオ"] 2015.07.12(SUN) 晴れ/曇り 同行者 H
鈴鹿北部
新町=青川峡=中尾=治田峠=茨川
ちょっと遅れたレポ
茨川はもちろん何度も訪れているが、治田峠から下りるのは13年ぶりである。H君に茨川出身の知人がいるということで、一度茨川を見たいという希望に応えることにした。しかし茨川林道を車で行っては登山者の面目が立たない。当時の人の苦労を追体験するには治田越えがよかろう。
こんな時季に?なんですが、ちゃんと動機も覚悟もあるんだ。
それにしても、ガイドブックでもこの時季のこの山域への入山は諌めているのに、わからんもんや。
ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
なんでもがなくなっていく、忘れられていく。
人の世の常とはいえ。
もう見られないというのは、残念だけど、いい加減でも記憶はあるから。
ヒルがわらわらと寄ってくる。梅雨時にこんな所へ承知で来るとは我ながら阿呆である。
そこでそれを言うと値打ちが下がりますがな。
ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。
地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。おいたわしや。
この暑さでは地蔵さんも格好などかまっておられんのかも。
観音様やったら、なおよかったのに。
良く見ると端のほうにかなり年代の古いゴミが散らばっている。昔はゴミなんかちょっと土を掛けておけばOKみたいな風潮だったようだ。
「釣りキチ三平」という漫画で魚紳が釣り場にゴミを埋めたのを見て、三平が「なんてマナーのいい人だろう」と感心する場面があったが、いまならトンデモヤローである。
こんな記述に、時代を読む貴殿の鋭い目が感じられて、感心します。
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。
堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに?
ここは立派な堰堤とその横の整地された部分で、峠までの道は簡単と思ったのですが、外しました。
ひとりの山歩き人を道迷いさせた、それだけで工事の失敗は明らかです。
茨川には誰もいなかった。特に変わった様子もなく名大小屋も八幡工業の小屋もまだ倒壊の恐れはない。
そうかなあ。使われないとダメでしょ。
集落跡をH君に説明する。山本素石は廃村間もない時期によく茨川へ泊りに来ていた。どの家だったのだろう。
釣りキチさん、ツチノコさんのフットワークは軽かっただけではなく、根っからの人やね。
十分くつろいでから裸足で茶屋川を渡渉して神社に参拝した。鳥居の根元が少し埋まった以外、ここも変わりない。
これがいい。大切です。
やがて今日初めて出会う人が上流から来て黙って去って行った。
林道は通れないはずだし、何処から来て何処へ行くのだろうと思ったが、人嫌いでけん介な雰囲気があったのでやめておいた。
同類やな。
治田峠で休息していると北から若者がやってきた。
この人は気さくで色々話をした。大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。
駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!! 銚子岳のアップダウンはきついよ。
しかも下山しても交通機関はないよ。三里の駅まで歩くのだろうか。いやはや恐れ入りました。私らじじいの時代は去った。若者に乾杯(完敗)
いわゆる常識というのがおかしいんやろうね。
ホント、最近の若い人というか、発想の新しい人には感心します。
何でも脱構築がいい、とは決して思いませんが。
たそがれ
そうそう、きっかけの本は河出文庫から、サンカ小説傑作選『サンカの民を追って』。
田山花袋や堺利彦、葉山嘉樹などといった文学史上の作者の感性が今と変らないこと。
サンカを国民に組み込んだのは、戦争による国家総動員体制だった。
筒井姓やら、木地師やら、つながるものはいっぱいあるような。
ついこの間、読んだ本の影響で貴殿の「茨川の話」をこっそりしっかり見てました。
息をひそめて、そう、あの鑑定人にように、分からないようにしていたのに、なんで。
わざわざ、彼の地まで足を運んでレポまで挙げられるとは、奇特な御仁や。
[quote="ハリマオ"] 2015.07.12(SUN) 晴れ/曇り 同行者 H
鈴鹿北部
新町=青川峡=中尾=治田峠=茨川
ちょっと遅れたレポ
茨川はもちろん何度も訪れているが、治田峠から下りるのは13年ぶりである。H君に茨川出身の知人がいるということで、一度茨川を見たいという希望に応えることにした。しかし茨川林道を車で行っては登山者の面目が立たない。当時の人の苦労を追体験するには治田越えがよかろう。
こんな時季に?なんですが、ちゃんと動機も覚悟もあるんだ。
それにしても、ガイドブックでもこの時季のこの山域への入山は諌めているのに、わからんもんや。
ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
なんでもがなくなっていく、忘れられていく。
人の世の常とはいえ。
もう見られないというのは、残念だけど、いい加減でも記憶はあるから。
ヒルがわらわらと寄ってくる。梅雨時にこんな所へ承知で来るとは我ながら阿呆である。
そこでそれを言うと値打ちが下がりますがな。
ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。
地蔵さんといってもはっきりした形はなく、祠がなくては本当にただの雨ざらしの自然石だ。おいたわしや。
この暑さでは地蔵さんも格好などかまっておられんのかも。
観音様やったら、なおよかったのに。
良く見ると端のほうにかなり年代の古いゴミが散らばっている。昔はゴミなんかちょっと土を掛けておけばOKみたいな風潮だったようだ。
「釣りキチ三平」という漫画で魚紳が釣り場にゴミを埋めたのを見て、三平が「なんてマナーのいい人だろう」と感心する場面があったが、いまならトンデモヤローである。
こんな記述に、時代を読む貴殿の鋭い目が感じられて、感心します。
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。
堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに?
ここは立派な堰堤とその横の整地された部分で、峠までの道は簡単と思ったのですが、外しました。
ひとりの山歩き人を道迷いさせた、それだけで工事の失敗は明らかです。
茨川には誰もいなかった。特に変わった様子もなく名大小屋も八幡工業の小屋もまだ倒壊の恐れはない。
そうかなあ。使われないとダメでしょ。
集落跡をH君に説明する。山本素石は廃村間もない時期によく茨川へ泊りに来ていた。どの家だったのだろう。
釣りキチさん、ツチノコさんのフットワークは軽かっただけではなく、根っからの人やね。
十分くつろいでから裸足で茶屋川を渡渉して神社に参拝した。鳥居の根元が少し埋まった以外、ここも変わりない。
これがいい。大切です。
やがて今日初めて出会う人が上流から来て黙って去って行った。
林道は通れないはずだし、何処から来て何処へ行くのだろうと思ったが、人嫌いでけん介な雰囲気があったのでやめておいた。
同類やな。
治田峠で休息していると北から若者がやってきた。
この人は気さくで色々話をした。大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。
駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!! 銚子岳のアップダウンはきついよ。
しかも下山しても交通機関はないよ。三里の駅まで歩くのだろうか。いやはや恐れ入りました。私らじじいの時代は去った。若者に乾杯(完敗)
いわゆる常識というのがおかしいんやろうね。
ホント、最近の若い人というか、発想の新しい人には感心します。
何でも脱構築がいい、とは決して思いませんが。
たそがれ
そうそう、きっかけの本は河出文庫から、サンカ小説傑作選『サンカの民を追って』。
田山花袋や堺利彦、葉山嘉樹などといった文学史上の作者の感性が今と変らないこと。
サンカを国民に組み込んだのは、戦争による国家総動員体制だった。
筒井姓やら、木地師やら、つながるものはいっぱいあるような。
Re: 治田峠から茨川
panaさん、こんにちは
いつもお返事有難うございます
当時風営法はなかったし。
panaちゃん、当時に生まれてたら売れっ子になったかもよ(^◇^)
昔は俺を抜くやつは許せんとか思っていましたが、今はカタツムリにも道を譲ります。
「お先にどうぞ」のステッカーをザックに貼ろうと思っています。
山奥の工事なんて一般人の目には入りませんからやり放題。
私も書いたものを見ないと思い出せないことばかり
長靴の品質は間違いなく値段と比例しますね。
ハリマオ
いつもお返事有難うございます
そやろ、そやろ。わしもそう思います。一大決心しないとめんどくさくて書けません。ちょっと遅れたレポ
>出すだけましやね~♪
もはや山男なのかどうか怪しいもんです(^^)/トンネルを抜けたらすぐなのにね~♪
さすが山男です!!
さあ? 私もお客になったわけじゃないから知りませんが、資料にあるからそうなんでしょうね。お稲荷さん界隈、鉱山が栄えていたときは遊郭があったと聞いてますか゛・・・ホンマですか~
当時風営法はなかったし。
panaちゃん、当時に生まれてたら売れっ子になったかもよ(^◇^)
まあ私も嫌なんですが、つい出来心で・・・でも、ヒルにも負けずにすごい根性~
私は嫌です、今の季節のこのコース。
いや貧血ではありません。ほんとに弱くなったんです。ハリマオさんがへたり込むとは~ 献血しすぎて、貧血か・・・(><)
昔は俺を抜くやつは許せんとか思っていましたが、今はカタツムリにも道を譲ります。
「お先にどうぞ」のステッカーをザックに貼ろうと思っています。
県と国でしょうが、彼らはカネを稼ぎませんから、当然我々から巻きあげた税金が投入されるわけです。堰堤は予想より早く目に入った。護岸工事もかなり予算をつぎ込んだ形跡がある。費用対効果はいかに?
>どこから出るの、このお金。国?
山奥の工事なんて一般人の目には入りませんからやり放題。
確かに登山者は少ないですが、道が通れる時はけっこうオートキャンパーとか来てましたよ茨川には誰もいなかった
>今の季節は行かないでしょう~
そやったかな。真の谷から御池やったかな、それとも藤原西尾根?茨川は昔、ハリマオさんが連れて行ってくれましたね。
長靴でバシャバシャと水の中を歩き、尾根に取りついて・・・・途中大きな木が3本あったような・・・
最近はアルツが始まっていて、なかなか思い出せません(><)
私も書いたものを見ないと思い出せないことばかり
安物買いの銭失いという名言があっても、やはり目の前の安さに流れますね。あの時、初めて長靴を買いました。それからずっと長靴が私の相棒~
もう何代目かな~
長靴も天然ゴムは長持ちしますね。以前コーナンで買ったのは1日でパックンでしたが・・・
長靴の品質は間違いなく値段と比例しますね。
ハリマオ
Re: 治田峠から茨川
kasayaさん こんにちは
別に天の邪鬼を狙ったわけではありませんが、アルプスへ行く休みも資金もないしー。
もう一つの趣味や田んぼの草刈りも忙しいし、山へ行くと息切れがして倒れそうになるし。
「三重県の山」初版の銚子岳取材(2003年)のときは休みコバまで車で入りました。
その後林道が流れたという情報が入り見に行きましたが、いつだったか忘れました。
ついにお亡くなりになりました。
林道が復旧すれば新築の可能性もあり。
私ももう20くらい若かったら、そのコースは不可能ではなかったと思います。
ただし置車でね。駅発の駅着は勘弁です。
ハリマオ
私はすっかり筆不精になって、どなたともお久しぶりなのです。ハリマオさん こんばんは
なんだかずいぶん久しぶりなような。
夏は高山や沢登りが中心ですね。それで登場したレポはこの時期としては稀有な鈴鹿の暑い話。
なんだか逆の意味で新鮮です。ヤブコギのレポらしいかなって。
別に天の邪鬼を狙ったわけではありませんが、アルプスへ行く休みも資金もないしー。
落ち穂拾いをすれば鈴鹿もまだ遊べそうですが、ちょっと倦怠期がきてまして。鈴鹿は行きつくしましたか。一時期は真夏でも行っていた鈴鹿ですが、ホント最近はご無沙汰です。
もう一つの趣味や田んぼの草刈りも忙しいし、山へ行くと息切れがして倒れそうになるし。
頻繁に行っているわけではないので、正確には分りませんが私が鈴鹿を歩き始めて10年ぐらいになりますが、既にキャンプ場の先で車は入れなかったような覚えがあります。
いつから入れなくなったのでしょう
「三重県の山」初版の銚子岳取材(2003年)のときは休みコバまで車で入りました。
その後林道が流れたという情報が入り見に行きましたが、いつだったか忘れました。
一時は手前がえぐれてトンネルの方が高くなっていたり、銚子谷の水が流れ込んだりで、行くたびに変化がありましたが埋まったというのは誰かのレポで読んだような。あんなのが埋まるとはちょっと信じられないし、逆に此処に隋道があったといわれても初めての人には
にわかに信じられないでしょう。
ついにお亡くなりになりました。
日の丘はともかく地蔵さんはちと遠いので地元の人が面倒を見るのは酷ですね。ようやく着いた地蔵さんは丸裸。祠が倒壊して脇に屋根が落ちていた。
>入れなくなって面倒を見る人もいなくなったということでしょうか。空き家が速く傷むのと同じ?
林道が復旧すれば新築の可能性もあり。
車も入れるみたいですよ。見たわけじゃないけど。入れるんだ。でもバイク限定かな。
軽装のトレランではなかったです。トレランかな。最近は従来の常識を軽々と超える人に出会います。
私たちが、ロングルートだと騒いでいるコースも簡単に行ってしまう。距離を稼ぐだけが山登りではないとは思いますが、ひとつの指標ではあります。
私ももう20くらい若かったら、そのコースは不可能ではなかったと思います。
ただし置車でね。駅発の駅着は勘弁です。
ハリマオ
Re: 治田峠から茨川
たそがれさん、こんにちは
昨夜8時32分南西の空に現れた油井さんの乗るISSが頭上を通過し、北東の彼方に消えていきました。
好天でよく見えました。
ちなみに私は奇特ではありません。どちらかと言えば打算で動くような・・(^^)
同行のH君は某社の取締役で、ときおり工場の騒音問題やらで地元と折衝するわけですが
そこの自治会長が茨川出身の方だそうです。で、H君も茨川行ってきましたという話から個人的信頼を築けば
風当たりも多少和らぎはしないかという計算もあったのでしょう。
私はたんに伊勢谷の現状を見たかっただけ。つまり同床異夢というわけです。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ読者ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
過去に執着しすぎて文化遺産の保全に莫大な経費を注ぎ込むのもどうかと思います。
資料や写真を保存しとけばいいでしょう。今はデジタルアーカイブで場所とらないし。
歴史家や考古学者の大半は自分の好奇心を満たすためにやっているわけですが
趣味ならそれで結構。高尚でよいご趣味です。
しかし給料もらってやってる人は過去を暴くだけではなく、その成果を現在や未来の人のためにどう生かすか
という視点がなければいけないと思います。そうじゃなきゃただの道楽。
願わくば歴史を調べる人より、歴史を作る人になりたい。もう無理だけど(^^)
警察自ら迷惑行為禁止条例違反ってどないやねん。
昔は自治体のごみ収集なんか来なかったし、村共通のゴミ捨て場があって、分類もせずそこに放り投げていました。
それで済んでいたのは身の回りの物の大半が自然素材でできていたからでしょうね。
将来人類を滅ぼすのは分解しない有毒なゴミや廃液でしょうね。
爆発や車の破壊でわざわざ大量のゴミを生産している映画が気になって楽しめません。ビンボー症でしょうか?
あと昔より積雪が少なくなったのも有利ですね。
容赦のない日本列島改造に心を引き裂かれたことでしょう。反骨精神もユーモアもある人でした。
ただ親や夫としては人間失格。
特に一人で歩く人は他人に介入しないし、介入されたくもない人。一人上手。
私も単独が気楽でいいですが、近頃は単独では「めんどくさいからやめた」となるので人と歩きます。
約束があればイヤでも登らねばならない。
私は昔ほど本を読まなくなって、白痴化が進行しています。
山窩ですか。これについては謎が多いですね。もはや忘れられた集団。
サンカこそ日本の正統な先住民族という説もありますが、私は大和朝廷による迫害とかそんな古い話ではない気がします。
そんな長い期間独自性を保てるでしょうか。
ハリマオ
昨夜8時32分南西の空に現れた油井さんの乗るISSが頭上を通過し、北東の彼方に消えていきました。
好天でよく見えました。
エスパーじゃないんだから知りまへんがな。つーか、何でこっそり見やなあかんの?ついこの間、読んだ本の影響で貴殿の「茨川の話」をこっそりしっかり見てました。
息をひそめて、そう、あの鑑定人にように、分からないようにしていたのに、なんで。
わざわざ、彼の地まで足を運んでレポまで挙げられるとは、奇特な御仁や。
ちなみに私は奇特ではありません。どちらかと言えば打算で動くような・・(^^)
同行のH君は某社の取締役で、ときおり工場の騒音問題やらで地元と折衝するわけですが
そこの自治会長が茨川出身の方だそうです。で、H君も茨川行ってきましたという話から個人的信頼を築けば
風当たりも多少和らぎはしないかという計算もあったのでしょう。
動機には上記のように多少不純と言うか生ぐさいものを孕んでいるわけですがこんな時季に?なんですが、ちゃんと動機も覚悟もあるんだ。
私はたんに伊勢谷の現状を見たかっただけ。つまり同床異夢というわけです。
むろん本人は対象外です^^。体を張ってエラい目に遭ってこなければ注意も書けません。それにしても、ガイドブックでもこの時季のこの山域への入山は諌めているのに、わからんもんや。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ読者ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
現物がなくなり、やがて記憶からも消える。残念だけど、きわめて自然なことですね。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
>なんでもがなくなっていく、忘れられていく。人の世の常とはいえ。
もう見られないというのは、残念だけど、いい加減でも記憶はあるから。
過去に執着しすぎて文化遺産の保全に莫大な経費を注ぎ込むのもどうかと思います。
資料や写真を保存しとけばいいでしょう。今はデジタルアーカイブで場所とらないし。
歴史家や考古学者の大半は自分の好奇心を満たすためにやっているわけですが
趣味ならそれで結構。高尚でよいご趣味です。
しかし給料もらってやってる人は過去を暴くだけではなく、その成果を現在や未来の人のためにどう生かすか
という視点がなければいけないと思います。そうじゃなきゃただの道楽。
願わくば歴史を調べる人より、歴史を作る人になりたい。もう無理だけど(^^)
そもそも下がるような値打があらばヒルがわらわらと寄ってくる。梅雨時にこんな所へ承知で来るとは我ながら阿呆である。
>そこでそれを言うと値打ちが下がりますがな。
もひとつ思い出すのは刑事ドラマで、張り込み中のタバコポイ捨てが当たり前だったこと。昔はゴミなんかちょっと土を掛けておけばOKみたいな風潮だったようだ。
三平が「なんてマナーのいい人だろう」と感心する場面があったが、いまならトンデモヤローである。
>こんな記述に、時代を読む貴殿の鋭い目が感じられて、感心します。
警察自ら迷惑行為禁止条例違反ってどないやねん。
昔は自治体のごみ収集なんか来なかったし、村共通のゴミ捨て場があって、分類もせずそこに放り投げていました。
それで済んでいたのは身の回りの物の大半が自然素材でできていたからでしょうね。
将来人類を滅ぼすのは分解しない有毒なゴミや廃液でしょうね。
爆発や車の破壊でわざわざ大量のゴミを生産している映画が気になって楽しめません。ビンボー症でしょうか?
外すほうが難しいと思われますが・・・詰めで沢を辿ったのでしょうか?ここは立派な堰堤とその横の整地された部分で、峠までの道は簡単と思ったのですが、外しました。
ひとりの山歩き人を道迷いさせた、それだけで工事の失敗は明らかです。
空き家がダメになるのは風が通らないからで、隙間だらけの名大小屋は湿気はこもらないと思われます。茨川には誰もいなかった。特に変わった様子もなく名大小屋も八幡工業の小屋もまだ倒壊の恐れはない。
>そうかなあ。使われないとダメでしょ。
あと昔より積雪が少なくなったのも有利ですね。
渓流釣りは都会じゃできないから、素石は日本中の山村文化や自然を誰よりも多く見てきたことになります。釣りキチさん、ツチノコさんのフットワークは軽かっただけではなく、根っからの人やね。
容赦のない日本列島改造に心を引き裂かれたことでしょう。反骨精神もユーモアもある人でした。
ただ親や夫としては人間失格。
山歩きする人は多かれ少なかれそういう面を持ってますね。変わり者。人嫌いでけん介な雰囲気があったのでやめておいた。
>同類やな。
特に一人で歩く人は他人に介入しないし、介入されたくもない人。一人上手。
私も単独が気楽でいいですが、近頃は単独では「めんどくさいからやめた」となるので人と歩きます。
約束があればイヤでも登らねばならない。
たそがれさんは本もたくさん読んでおられるようで勉強家ですね。そうそう、きっかけの本は河出文庫から、サンカ小説傑作選『サンカの民を追って』。
田山花袋や堺利彦、葉山嘉樹などといった文学史上の作者の感性が今と変らないこと。
サンカを国民に組み込んだのは、戦争による国家総動員体制だった。
筒井姓やら、木地師やら、つながるものはいっぱいあるような。
私は昔ほど本を読まなくなって、白痴化が進行しています。
山窩ですか。これについては謎が多いですね。もはや忘れられた集団。
サンカこそ日本の正統な先住民族という説もありますが、私は大和朝廷による迫害とかそんな古い話ではない気がします。
そんな長い期間独自性を保てるでしょうか。
ハリマオ
Re: 治田峠から茨川
ハリさん、こんばんは。今日も暑かった(今でも暑いけど)ですね~。今年初めてクーラー入れました。
本当に林道があったのか初めての人なら疑わしいような荒れた河原を延々と歩く。青川自体は時々通るので荒れているのは承知。復旧工事はまだ一部である。雨上がりで飛び石の渡渉に苦労する。35分かかって休みコバ跡到着で一休み。このあとも同じようなゴロゴロと荒れた歩きにくい河原歩き。広河原という場所があったが、もはやどこでも広河原である。
私は青川へは1回しか行ったことないんです。朝明や宇賀渓、藤原は何10回と行ってるのに、青川だけは空白地帯ですわ。
その1回も20年以上前。まだ銚子谷が健在な頃に遡行しました。
水は伏流と表流を繰り返す。やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
このトンネルも実は見てないんです。普通に登山道歩いてたはずなのに、どこにあるのかわからない・・・・
帰りも治田峠が下りてきましたが見つからず・・・・すでに埋もれてたとか・・・
昔はゴミなんかちょっと土を掛けておけばOKみたいな風潮だったようだ。「釣りキチ三平」という漫画で魚紳が釣り場にゴミを埋めたのを見て、三平が「なんてマナーのいい人だろう」と感心する場面があったが、いまならトンデモヤローである。
昔に比べると山はきれいになってますね。昔はゴミを持ち帰るという発想がなかったように思います。
今ではうOこも持ち帰れと言われる時代・・・・
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。やがて傾斜も落ち着き、美しい小渓流となる。時期的なものもあるが意外と水量があり、20年ほど前と何ら変わりない。その次に通ったときは98年の台風の直後で、北斜面が崩壊し、植林が谷に散乱して死ぬほど苦労した思い出がある。
ここも当時小学生の息子を連れて藤原の西尾根を上がり、下山の時に使いましたがひどい荒れようでした。倒木のジャングルジムを
乗り越えたりくぐったりで、息子が泣きかけになってたのを思い出します。ちょうどその頃だったかな?
治田峠で休息していると北から若者がやってきた。この人は気さくで色々話をした。大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!!
今でもそんな若者がいるんですねえ。昭和30年代(生まれじゃないよ)の登山者みたい。
私も若い頃は南八ツ縦走して、観音平から小淵沢の駅まで歩いたり、南アの西沢渡から上村の集落まで歩いたりしてましたが。
山日和
本当に林道があったのか初めての人なら疑わしいような荒れた河原を延々と歩く。青川自体は時々通るので荒れているのは承知。復旧工事はまだ一部である。雨上がりで飛び石の渡渉に苦労する。35分かかって休みコバ跡到着で一休み。このあとも同じようなゴロゴロと荒れた歩きにくい河原歩き。広河原という場所があったが、もはやどこでも広河原である。
私は青川へは1回しか行ったことないんです。朝明や宇賀渓、藤原は何10回と行ってるのに、青川だけは空白地帯ですわ。
その1回も20年以上前。まだ銚子谷が健在な頃に遡行しました。
水は伏流と表流を繰り返す。やがて銚子谷出合に着くが隧道が見当たらない。尾根に近づいて探しても跡形もない。前回は埋まりながらもまだ見えていたが・・・。ついにこの隧道も歴史に埋もれてしまった。残念至極だ。
このトンネルも実は見てないんです。普通に登山道歩いてたはずなのに、どこにあるのかわからない・・・・
帰りも治田峠が下りてきましたが見つからず・・・・すでに埋もれてたとか・・・
昔はゴミなんかちょっと土を掛けておけばOKみたいな風潮だったようだ。「釣りキチ三平」という漫画で魚紳が釣り場にゴミを埋めたのを見て、三平が「なんてマナーのいい人だろう」と感心する場面があったが、いまならトンデモヤローである。
昔に比べると山はきれいになってますね。昔はゴミを持ち帰るという発想がなかったように思います。
今ではうOこも持ち帰れと言われる時代・・・・
さて久しぶりの伊勢谷に突入。最初は急降下である。道型はっきりしているが一部草に覆われている。やがて傾斜も落ち着き、美しい小渓流となる。時期的なものもあるが意外と水量があり、20年ほど前と何ら変わりない。その次に通ったときは98年の台風の直後で、北斜面が崩壊し、植林が谷に散乱して死ぬほど苦労した思い出がある。
ここも当時小学生の息子を連れて藤原の西尾根を上がり、下山の時に使いましたがひどい荒れようでした。倒木のジャングルジムを
乗り越えたりくぐったりで、息子が泣きかけになってたのを思い出します。ちょうどその頃だったかな?
治田峠で休息していると北から若者がやってきた。この人は気さくで色々話をした。大阪から電車で来て、治田駅から歩いて青川を登り、藤原岳を踏んで今戻ってきたそうな。駅から歩いて?と驚いていると、今から竜へ登ってから下山するとのこと!!
今でもそんな若者がいるんですねえ。昭和30年代(生まれじゃないよ)の登山者みたい。
私も若い頃は南八ツ縦走して、観音平から小淵沢の駅まで歩いたり、南アの西沢渡から上村の集落まで歩いたりしてましたが。
山日和
Re: 治田峠から茨川
山日和さん こんにちは
しかし山さんみたいな人ばかりなら原発も不要ですね。
でも健在な銚子谷を遡行できたことは財産ですね。
そんな大した財産でもないけど、埋まってしまったとなれば価値は上昇します。
死んだ画家の絵みたいなものです^^
登山道を歩いていて見ないというのは相当器用な芸当と思われます。
トンネルの出口から銚子谷の遡行が始まるわけですから。
あるいはもっと手前から入渓したとか。
私は新町起点で茨川入りに時間を食い、西尾根上がって帰ったので帰りは暗くなってしまいました。
戦後の延長で、まだ若者がマイカーを持てる時代ではなかった。しかも土曜は午前中仕事だった。
午後一番で電車に飛び乗り、山でテントを張るみたいなのがパターンだったのかな。
で、私や山さんの世代が若いころはマイカー命の時代でした。
それがまた若者のマイカー離れ。歴史は繰り返す。
沢渡は行ったことないので分りましぇーん。
ハリマオ
わたしゃ昨日は早朝から田んぼの草刈ってましたよ。9時までに片付けて帰らないと焼け死にます。ハリさん、こんばんは。今日も暑かった(今でも暑いけど)ですね~。
そりゃまた我慢強いですね。ちゅうか歳を取ると皮膚の温感センサーが鈍感になるのでご注意を^^今年初めてクーラー入れました。
しかし山さんみたいな人ばかりなら原発も不要ですね。
ふと気がつけば、空白地帯は誰しもありますね。私は青川へは1回しか行ったことないんです。朝明や宇賀渓、藤原は何10回と行ってるのに、青川だけは空白地帯ですわ。
その1回も20年以上前。まだ銚子谷が健在な頃に遡行しました。
でも健在な銚子谷を遡行できたことは財産ですね。
そんな大した財産でもないけど、埋まってしまったとなれば価値は上昇します。
死んだ画家の絵みたいなものです^^
んなあほな。20年前ならあるに決まってますがな。このトンネルも実は見てないんです。普通に登山道歩いてたはずなのに、どこにあるのかわからない・・・・
帰りも治田峠が下りてきましたが見つからず・・・・すでに埋もれてたとか・・・
登山道を歩いていて見ないというのは相当器用な芸当と思われます。
トンネルの出口から銚子谷の遡行が始まるわけですから。
あるいはもっと手前から入渓したとか。
マナーは時代とともに変遷する。そのうち山は土足厳禁になるかも・・・^^昔に比べると山はきれいになってますね。昔はゴミを持ち帰るという発想がなかったように思います。
今ではうOこも持ち帰れと言われる時代・・・・
間違いなく98年の台風直後ですね。茨川起点ですか。息子さんもアスレチックがきつ過ぎて気の毒でしたね。ここも当時小学生の息子を連れて藤原の西尾根を上がり、下山の時に使いましたがひどい荒れようでした。倒木のジャングルジムを
乗り越えたりくぐったりで、息子が泣きかけになってたのを思い出します。ちょうどその頃だったかな?
私は新町起点で茨川入りに時間を食い、西尾根上がって帰ったので帰りは暗くなってしまいました。
私は若いから知りませんが(^◇^)当時の山の小説を読んでいると駅を利用する登山が当たり前だったようですね。今でもそんな若者がいるんですねえ。昭和30年代(生まれじゃないよ)の登山者みたい。
戦後の延長で、まだ若者がマイカーを持てる時代ではなかった。しかも土曜は午前中仕事だった。
午後一番で電車に飛び乗り、山でテントを張るみたいなのがパターンだったのかな。
で、私や山さんの世代が若いころはマイカー命の時代でした。
それがまた若者のマイカー離れ。歴史は繰り返す。
観音平から小淵沢は歩くには遠いですね。私は美濃戸口から美濃戸山荘でさえ、歩くのイヤ。観音平から小淵沢の駅まで歩いたり、南アの西沢渡から上村の集落まで歩いたりしてましたが。
沢渡は行ったことないので分りましぇーん。
ハリマオ