【熊野古道大辺路】中上健次の世界を歩く

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シュークリーム
記事: 2067
登録日時: 2012年2月26日(日) 17:35
お住まい: 三重県津市

【熊野古道大辺路】中上健次の世界を歩く

投稿記事 by シュークリーム »

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人間というものは軌跡をつなぐことにある種の喜びを感じるものらしい。私もご多分にもれず,山登りを始めた頃はテントを担いで天空の稜線をどこまでも歩いて行くことを目標に歩きはじめた。地元の山やアルプスを問わず,歩けそうな稜線を見つけるとテント泊しながら稜線を繋いで行った。そのうち歩いたことがない稜線がなくなってくると,新たな目標を探し始める。

そんな時にやぶこぎネットに出会い,沢登りや谷歩きなど自分が知らなかった山の楽しみ方があることを知った。沢登りに10年ほどのめり込み,地元の知られている沢をほぼ歩きつくした。沢登りに限界を感じ始めた頃,時間つぶしに始めた街道,古道歩きがだんだん面白くなり,今に至る。

熊野古道というのは,平安時代の京都からの熊野三山詣でのルートと言われているが,実際には自分の足しか移動手段がなかった時代に村々をつなぐルートとして使われていた道なのだろう。おそらく前世界大戦の前後あたりまで実際に使われていた生活道路だったのだろう。そんな時代の雰囲気や人々のことをわずかでも感じることができればと思いながら歩いている。

中上健次は和歌山県新宮の「路地」を舞台にした多くの小説を発表した。「路地」に私生児として生まれた秋幸を主人公とした「岬」,「枯木灘」などは中上健次の代表作である。「鳳仙花」は秋幸の母親であるフサを主人公とした小説で,秋幸の一世代前を描いている。フサの母親であるトミは日置(ひき)の田ノ井という集落に生まれ,木馬引きの男と駆け落ちして,古座でフサを生む。実際に,日置川が南から東へと流れを変える屈曲点の右岸に田野井という集落が存在するのは前回の旅で紹介した。

フサはその木馬引きとトミとの子ではなく,木馬引きが死んだ後私生児としてトミが生んだ子であった。フサは15歳の時に新宮に奉公に出る。その時には古座から勝浦まで船で移動し,勝浦から新宮まで鉄道を使っている。昭和初期にこのような僻遠の地に鉄道があったのは奇異に感じるが,新宮ー勝浦間に鉄道が敷設されたのは今から約100年前の1913年(大正2年)のことらしい。新宮は木材の集積地であるが,良港がなく,船が入ることができる勝浦まで木材を運ぶために敷設されたらしい。

フサは新宮の「路地」で木馬引きの男と所帯を持ち,5人の子を産む。秋幸は夫である木馬引きの子ではなく,木馬引きが病死した後に生まれた私生児である。この物語だけで熊野古道大辺路のほぼ全域がカバーされている。今回は実際にこの古道が生活道路として使われていた時代の雰囲気を多少でも感じてみたいと思い,歩いてみた。

【 日 付 】2024年4月9日(火)〜 12日(金)
【メンバー】単独

4月9日(火) 歩行距離 16.4 km
【 天 候 】雨のち曇りのち晴れ
【 ルート】津新町駅 6:13 ---🚃--- 10:21 JR新宮駅 10:28 --- 11:52 高野坂入り口 --- 13:34 JR宇久井駅 --- 13:58 小狗子峠 --- 14:58 補陀落山寺 --- 15:20 紀伊天満(泊)

最寄駅の近鉄津新町駅を早朝に出,ローカル電車を乗り継いで行くと10時21分に新宮駅に着く。前夜から降り続いていた雨は天気予報通り9時頃には上がり,新宮駅を歩き始める頃には曇り空となっていた。線路のすぐ近くには秋幸が生まれた「路地」があるが,「路地」の山は取り崩されその頃の面影はもうない。

「路地」とは反対の東側へ海岸を目指して歩き始める。この辺りは熊野地と呼ばれ,熊野川の河口と海岸線が交わるあたりである。昔,材木置き場があった場所らしい。フサはこの辺りで働いていたのだろう。小説の記述をそのまま信じるわけにはいかないが,「枯木灘」や「鳳仙花」に出てくる地名や風景はほぼ現実に近いもので,この辺りの記述は信頼できるだろう。

小さな川にかかる橋を渡り,車道を南に向かって歩き始める。車道歩きに飽きた頃に,海岸線を歩くサブルートがあることを知った。このまま車道を歩くのも興が乗らないので,海岸線の堤防道路を歩くことにする。そのうち堤防はなくなり,しょうがないので石と砂が混じった海岸を歩くことになる。これが間違いだった。歩きにくい。

海岸のすぐ隣には紀勢本線が走っており,線路を越えないように鉄網が張ってあるのでエスケープすることができない。砂浜の端まで歩いていけば熊野古道に戻るルートがあるに違いない。

砂浜の端まで来たが,線路を横切る道と見えていたものは川だった。熊野古道は線路のすぐ向こう側を走っているはずなので,線路を越えさえすれば本来のルートに戻ることができるはず。目の前の10mほどの岩壁を越えて線路を渡れば古道に戻れるだろう。岩壁を登るとすぐ真下を轟音を轟かせながら電車が通り過ぎて行った。岩を穿って作った切り通しに線路が引かれているのだった。無理すれば降りられないこともないが,なにも危険を冒して降りることもないだろう。
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登ってきた岩壁を下り,もう一度見てみると線路の下を通っている川の傍にコンクリート製の通路があった。なんのことはない。ルートを見落としていただけなのだった。
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午後3時頃に,補陀落渡海で有名な補陀落山寺に着き,一休み。法事でもやっているらしく本堂では読経の声が聞こえている。お寺の前のベンチで休んでいると,法事が終わったらしく,若い僧侶が出てきて「ようこそお参り」と声をかけて通り過ぎて行った。

補陀落山寺から20分ほどで今日の宿に到着。安いビジネスホテル風の宿であるが,窓の前に勝浦の海岸が広がっていて気持ちの良い宿である。

4月10日(水) 歩行距離 18.0 km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】JR紀伊天満駅 7:13 ---🚃--- 7:36 紀伊田原駅 7:38 --- 8:26 清水峠 --- 8:58 JR紀伊浦神駅 --- 9:35 浦神峠 --- 10:36 市屋峠 --- 11:14 二河峠 --- 11:45 ゆりのやま温泉 --- 13:20 紀伊天満(泊)

朝一番で朝食を済ませ,7時13分発の電車に乗る。宿から紀勢線の紀伊天満駅までは歩いて2分ほどなので便利である。今日は電車で紀伊田原駅まで行き,そこから新宮方面に向かって歩き,昨日の宿まで戻る予定。大辺路ルートでは珍しく,ほとんど海を見ないルートだった。隣駅の紀伊浦神駅までは国道沿い。紀伊浦神駅を過ぎて左折し,林道を浦神峠に向かって歩いて行く。

浦神峠を越え,降りて行くと高齢の男性が桜を植えている。声をかけると,「ここの地主がどう使っても良いというので桜を植えているんだ」ということだった。近くにはトイレや休憩施設もあり,古道を歩く人たちのための休憩施設にするボランティア活動のようだ。
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中辺路もそうだが,この辺りの山村風景は美しい。歩いていても飽きることがない。やはり国道歩きよりはずっといい。歩いていると西洋人のカップルに道を聞かれる。中辺路を外国人が歩いているのは普通のことだが,大辺路で外国人ハイカーに会うのは初めてだ。中辺路を経験した外国人ハイカー達がだんだん小辺路や大辺路にも進出し始めているのかもしれない。
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市屋峠や二河峠を越えると勝浦周辺の温泉地,ゆりの山温泉や湯川温泉である。ゆりの山温泉には温泉水をくむ施設があり,中年女性が温泉水を汲んでいる。飲用にするのだという。

温泉地を過ぎ,駿田峠を越えると古道は勝浦の街を右に眺めながら山腹道をゆっくりと下って行く。下り終わるとすぐに紀伊天満の駅で,そこからすぐに宿泊している宿だった。

この宿は歩いて15分ほどのところにある紀伊勝浦の大きな温泉ホテルの無料入浴券をくれるので,行ってみることにする。ホテルのフロントに行くと若い女性二人が受付をしている。日本語に訛りがあるので,どこから来たのかと聞くとベトナム人だという。近頃の人手不足で,ホテルなどは外国人を雇わないと成り立たないのだろう。一人は日本に来たばかりだという。その割には日本語が上手なので,聞いてみるとベトナムの大学の日本語学科で勉強したという。二人とも感じのいい娘さんだ。一体に,中国人に比べると,ベトナム人の方が日本人の感覚に近いし,真面目な気がする。

温泉を満喫して,宿へ帰り熟睡した。この日の歩行予定距離は20キロだったが,GPSでは18キロだった。

4月11日(木) 歩行距離 15.9 km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】JR紀伊天満駅 7:13 ---🚃--- 8:11 田子駅 8:13 --- 12:14 JR串本駅 12:21 --- 12:30 昼食 13:25 --- 13:27 串本(泊)

昨日と同じ紀伊天満駅発7時13分の電車で前回の大辺路歩きの終着点である田子へ向かう。約1時間の旅である。田子駅から線路をくぐるとすぐに国道42号線。目の前に枯木灘の海岸線が広がる。国道をしばらく歩いてから左の細道に入り,富山平見道に上がっていく。平見というのはこの辺りによくある地名で,海岸段丘上にある平坦な丘地形を指している。一体にこの辺りの海岸は地面の隆起によって形作られた地形で,海岸段丘や「鬼の洗濯板」と呼ばれる独特の風景を作り出している。伊勢志摩や南伊勢の沈降によるリアス式海岸とは対照的で,伊勢の海岸線を見慣れた自分の目には面白く写る。
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富山平見道を降りると道標を見失って不注意で泥田にはまってしまう。ローカットの靴を履いていたので,靴の上まで泥に浸かってしまった。「これが本当の泥沼にはまるということだな」とついおじさんギャグが出てしまう。最後に見た道標まで戻ると,道標は線路の下を流れる小川を指示していた。この小川の横に通路があった。
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このあとは一部を除いてほぼ国道に沿って歩いていく。道路脇の民家に咲いていた花をツツジかと思って見てみると,ブーゲンビリアだった。タイやインドネシアなどの熱帯,亜熱帯地域ではごく普通に見られる花だが,日本の民家の脇に咲いているとは思わなかった。花のように見える部分は葉の変形したものなので,花に比べると花期が極めて長い。

このあとはほぼ国道に沿って歩いて行く。大辺路は串本の手前を左に入り,内陸を直接古座へ向かうのだが,今回は串本へ寄って行くことにする。串本の街に行ったことがなかったのでどんな街か見てみたかったのと,名勝の橋杭岩を見てみたかったのと,宿の関係である。

串本駅に正午頃到着。お昼をゆっくり食べて宿に着くとまだ1時半だった。チェックインタイムは3時なので,手続きだけしてロビーで待っていると2時頃には部屋を開けてくれた。今増えている,古い旅館を改装してバイキング形式の夕食で安く泊まることができるチェーンタイプの大型温泉旅館だが,スタッフの対応は親切で気分良く泊まることができた。

旅館の部屋の正面には紀伊大島が大きく見えている。中上健次の小説にこの島を舞台にした「大島」という作品がある。主人公の道子は,紀伊大島の網元の長女であるが,母のキクは尾鷲から大島に流れてきた女郎で,網元の息子の広雄に引かされて道子を産んでまもなく出奔する。道子はその母の面影を追って,古座へ,そして尾鷲へと行く。「大島」はその続編である「聖餐」とともに「紀伊物語」という連作長編の中に位置付けられるが,これら二つの小説の執筆に約6年のブランクがあり,両者の出来は大いに異なる。「大島」にはストーリーにそれなりに緊張感があり,面白く読むことができたが,道子が新宮の「路地」に移って以降を描く「聖餐」はストーリーが冗漫で最後まで読み通す気力がなくなってしまった。

4月12日(金) 歩行距離 14.2 km
【 天 候 】晴れ
【 ルート】串本泊地 9:18 --- 9:57 JR紀伊姫駅 --- 10:46 JR古座駅 11:00 --- 12:40 JR紀伊田原駅 13:22 ---🚃--- 14:14 JR新宮駅 13:31 --🚃--- 18:56 松阪駅 19:01 ---🚃--- 19:08 近鉄中川駅 19:17 ---🚃--- 19:28 津新町駅

串本の宿を朝9時過ぎに出,海岸沿いに歩いて名勝橋杭岩を見学する。約1400万年前にこの辺りで起こった大規模なカルデラ噴火の産物である。マグマが地面の割れ目に入り込み,その地形が隆起し,長年の間に地面が浸食され,硬いマグマが残ったのだという。カルデラ噴火は紀伊半島では,熊野と室生の2カ所で起こり,それぞれに紀伊半島の独特な地形を生み出している。この辺りの豊富な温泉もその噴火によっている。南紀の谷のナメや幾多の大滝群もカルデラ噴火の産物である。
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道路の横にあった岩に触れてみると,手をかけられる突起が豊富にあり,このような人目の多い場所でなければ登ってみたくなるような岩であった。ちなみに,熊野には熊野ボルダリングエリアと呼ばれる場所があり,ボルダラーの聖地となっている。

JR紀伊姫駅の手前で本来の熊野古道と合流し,国道を約1時間歩くとJR古座駅だった。古座は古座川河口の両側の狭い土地にできた町で,左岸が旧古座町,右岸が旧西向町となっており,1956年に合併して古座町となった。フサが住んでいた昭和初期は左岸側のみが古座だったことになる。JR古座駅は旧西向町にあり,小さな駅である。駅の一部が観光案内所になっており,モンベルショップになっている。古座川や海でのマリンスポーツを当て込んだものだろう。

橋を渡って旧古座側に入る。国道42号線は町外れの河口部を通っているので,旧古座側は昔ながらの細い路地の両側に古い家が並び,フサが生きた時代を感じさせる雰囲気を残している。昔は古座川を通って運ばれてくる木材の集積地としてそれなりに賑わったのだろうが,今はそのような賑わいは跡形もない。

細い道を通って国道42号線に出,そのあとは終点の紀伊田原駅までひたすら国道歩きとなった。歩道がない場所も多く,すぐ横を走り抜ける車やトラックを気にかけながらの歩きは気分のいいものではない。美しい海岸線がわずかな癒しだった。

電車の発車時刻の約30分前に紀伊田原駅着。歩行距離12キロと計算していたのだが,実際には14キロあり,予定より30分遅れの到着だった。静かな無人駅には毎年ツバメが巣を作るようで,ツバメのつがいが忙しげに巣作りの場所を物色しながら飛び交っている。

時刻通りに到着したワンマン列車に乗り,新宮に向かう。新宮駅で1時間待ったのち,ふたたびローカル電車に乗ってのんびりと帰った。
                         @シュークリーム@
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わりばし
記事: 1771
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【熊野古道大辺路】中上健次の世界を歩く

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、シュークリームさん。

フサは新宮の「路地」で木馬引きの男と所帯を持ち,5人の子を産む。秋幸は夫である木馬引きの子ではなく,木馬引きが病死した後に生まれた私生児である。この物語だけで熊野古道大辺路のほぼ全域がカバーされている。今回は実際にこの古道が生活道路として使われていた時代の雰囲気を多少でも感じてみたいと思い,歩いてみた。

8月に新宮に行くので新宮を探索しようと思ってました。
参考にさせてもらいます。


最寄駅の近鉄津新町駅を早朝に出,ローカル電車を乗り継いで行くと10時21分に新宮駅に着く。前夜から降り続いていた雨は天気予報通り9時頃には上がり,新宮駅を歩き始める頃には曇り空となっていた。線路のすぐ近くには秋幸が生まれた「路地」があるが,「路地」の山は取り崩されその頃の面影はもうない。

臥龍山ですね。大逆事件で死刑になった医師の所有だったような・・
路地に檀徒を持つ和尚も同じように逮捕され、路地を訪れる僧がいなくなり
オリュウノオバの夫・礼如が毛坊主として代わりを務めたんです。

「路地」とは反対の東側へ海岸を目指して歩き始める。この辺りは熊野地と呼ばれ,熊野川の河口と海岸線が交わるあたりである。昔,材木置き場があった場所らしい。フサはこの辺りで働いていたのだろう。小説の記述をそのまま信じるわけにはいかないが,「枯木灘」や「鳳仙花」に出てくる地名や風景はほぼ現実に近いもので,この辺りの記述は信頼できるだろう。

川の増水時には引き払う市のあった所ですね。
様々な人間模様が織られた場所です。


串本駅に正午頃到着。お昼をゆっくり食べて宿に着くとまだ1時半だった。チェックインタイムは3時なので,手続きだけしてロビーで待っていると2時頃には部屋を開けてくれた。今増えている,古い旅館を改装してバイキング形式の夕食で安く泊まることができるチェーンタイプの大型温泉旅館だが,スタッフの対応は親切で気分良く泊まることができた。

へ~知らんかった。

旅館の部屋の正面には紀伊大島が大きく見えている。中上健次の小説にこの島を舞台にした「大島」という作品がある。主人公の道子は,紀伊大島の網元の長女であるが,母のキクは尾鷲から大島に流れてきた女郎で,網元の息子の広雄に引かされて道子を産んでまもなく出奔する。道子はその母の面影を追って,古座へ,そして尾鷲へと行く。「大島」はその続編である「聖餐」とともに「紀伊物語」という連作長編の中に位置付けられるが,これら二つの小説の執筆に約6年のブランクがあり,両者の出来は大いに異なる。「大島」にはストーリーにそれなりに緊張感があり,面白く読むことができたが,道子が新宮の「路地」に移って以降を描く「聖餐」はストーリーが冗漫で最後まで読み通す気力がなくなってしまった。

以前、古和峠を探索した時に、ここが博労が牛を引き連れ歩いた峠路かと思いを巡らせていました。
博労も出てきますよね。


橋を渡って旧古座側に入る。国道42号線は町外れの河口部を通っているので,旧古座側は昔ながらの細い路地の両側に古い家が並び,フサが生きた時代を感じさせる雰囲気を残している。昔は古座川を通って運ばれてくる木材の集積地としてそれなりに賑わったのだろうが,今はそのような賑わいは跡形もない。

農業用水や水力発電のためのダムが出来て川の水運が消えちゃいました。
川の水量ももっと多かっただろうし・・
この景色が一番大きく変わったように思います。
特に林業の集積地だったところの変化はすさまじいでしょうね。


時刻通りに到着したワンマン列車に乗り,新宮に向かう。新宮駅で1時間待ったのち,ふたたびローカル電車に乗ってのんびりと帰った。

お疲れさまでした。
ローカル線となった紀勢本線もいいもんです。

                    わりばし
シュークリーム
記事: 2067
登録日時: 2012年2月26日(日) 17:35
お住まい: 三重県津市

Re: 【熊野古道大辺路】中上健次の世界を歩く

投稿記事 by シュークリーム »

わりばしさん,おはようございます。レスありがとうございます。
中上健次のことはわりばしさんに教えていただいて読み始めました。傑作とそうでない作品との落差が大きい作家だと思いますが,岬,枯木灘,鳳仙花などはいい小説だと思います。


8月に新宮に行くので新宮を探索しようと思ってました。
参考にさせてもらいます。


勝手知ったる新宮でしょうが,どこを探索するつもりかな?
そういえば,この間まで新宮駅前に佐藤春夫や中上健次の写真パネルが貼ってあったんですが,今では違う写真になっています。あまりインパクトがないと思われたのかな?


臥龍山ですね。大逆事件で死刑になった医師の所有だったような・・
路地に檀徒を持つ和尚も同じように逮捕され、路地を訪れる僧がいなくなり
オリュウノオバの夫・礼如が毛坊主として代わりを務めたんです。


路地にオリュウノオバの住居跡が残っていますが,ビルになっていますね。昔の路地を想像しようにもなかなか難しくなっています。

川の増水時には引き払う市のあった所ですね。
様々な人間模様が織られた場所です。


昔はきっと広い河口に丸太がいっぱい浮かんでいたんでしょうが,今は全くしのぶよすがもありません。河口には高速道路ができつつありますね。

以前、古和峠を探索した時に、ここが博労が牛を引き連れ歩いた峠路かと思いを巡らせていました。
博労も出てきますよね。


フサの種違いの兄が博労をしていましたね。

農業用水や水力発電のためのダムが出来て川の水運が消えちゃいました。
川の水量ももっと多かっただろうし・・
この景色が一番大きく変わったように思います。
特に林業の集積地だったところの変化はすさまじいでしょうね。


昔の林業は日本の産業の中で大きな地位を占めていたんでしょうねえ。私の子供の頃もそうだったんでしょうが,よく覚えていません。
輸入材のおかげで材木の値段が下がって,林業もすっかり斜陽産業になってしまいました。
今では想像すらできないですね。


お疲れさまでした。
ローカル線となった紀勢本線もいいもんです。


紀勢本線もほとんどの駅が無人駅になりましたね。
年寄りも多くて,私の故郷である能登半島みたいになってきました。
                         @シュークリーム@
sato
記事: 423
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【熊野古道大辺路】中上健次の世界を歩く

投稿記事 by sato »

シュークリームさま

こんにちは。
木々の緑が目に眩しい季節になりましたね。ひと雨降るごとに鮮やかさを増し、いのちの勢いに目を見張るばかりです。
行ったり来たり思いを巡らせながら「中上健次の世界を歩く」を読ませていただきました。

人間というものは軌跡を繋ぐことにある種の喜びをかんじるものらしい・・・。
私も学生の頃、テントを担いで天空の稜線をどこまでも歩いていく姿を思い描いていました。
海外を旅するようになると、国と国、地方と地方を陸路で繋げていくのにこだわったり。
人は何故歩き祈るのだろうとぼんやり考えていて、聖地巡りもしていました。
その中で、巡礼の旅も、軌跡を辿り軌跡を繋げる旅なのだな、と思いました。考えると人生も。
人は、それぞれ「軌跡」を求める存在なのですね。

熊野古道は、昨秋、中辺路の滝尻王子から熊野本宮大社まで歩きました。
歩きながら、シュークリームさんがおっしゃるように、暮らしの道が熊野詣の道として発展したのだとしみじみと感じていました。
山村の風景はうつくしく、ネパールやインドの山村と重なるものがあり、普遍的な山の暮らしというものを感じました。
杉林には、集落や田畑の跡が見られ、かつての陽光降り注ぐ風景が浮かんできました。

大辺路は、中上健次の「枯木灘」「鳳仙花」の舞台なのですね。
中上健次の作品は、芥川賞を受賞した「岬」を高校生の頃に読んだのですが、怖くて難しかったという印象だけが残っています。
路地には、様々な背景を持つ人が集まり、今日を営んでいる。
私は散歩も好きで、東京や京都の路地をよく歩いていました。以前は、山に出かけた時も集落のお散歩をしていました。
治安があまりよくないと言われている路地裏にも興味があり、夫と一緒だったこともあり、
アジアやアフリカの混沌とした路地も彷徨っていました。
路地裏に漂う様々な空気に引きつけられ、その空気の元にあるものが何なのか知りたいという気持ちがあったのですね。
この時代、この場所で、こういう生き方しか出来なかった人、気が付くとこういう生き方になっていた人・・・。
様々な境遇の中で今日一日を生きていく人たち。
小説は虚構の物語ですが、描かれているのは真実。
私の見てきた路地の風景を振り返りながら、中上健次の作品を読みたくなりました。
中上紀さんの作品が好きで、少し前にも「いつか物語になるまで」を読み返していて、中上健次が気になっていたところでもありました。

大辺路と関係のない話ばかり書き並べてしまいました。スミマセン。
歴史に思いを巡らせ、海と山村を楽しみながらの大辺路歩きは興味深いです。
宇江敏勝さんの「森のめぐみ 熊野の四季を生きる」を読み、古座川流域も気になっています。
いつか、のんびりと旅をしたいです。

5月のオフ会は残念ですが、秋には、シュークリームさんのやさしい笑顔にお会いできますね。
街道、古道巡りの旅のお話、これからも楽しみにしております。

sato
シュークリーム
記事: 2067
登録日時: 2012年2月26日(日) 17:35
お住まい: 三重県津市

Re: 【熊野古道大辺路】中上健次の世界を歩く

投稿記事 by シュークリーム »

satoさん,こんにちは。レスありがとうございます。

その中で、巡礼の旅も、軌跡を辿り軌跡を繋げる旅なのだな、と思いました。考えると人生も。
人は、それぞれ「軌跡」を求める存在なのですね。


そうですね,人生もそれぞれの軌跡を描いているものかもしれません。
一筆書きのいい人生を描ける人もいるし,そうでない人もいるし。自分の人生を振り返ってみると,まんざら悪くない人生だったなと思ったりします。


熊野古道は、昨秋、中辺路の滝尻王子から熊野本宮大社まで歩きました。
歩きながら、シュークリームさんがおっしゃるように、暮らしの道が熊野詣の道として発展したのだとしみじみと感じていました。
山村の風景はうつくしく、ネパールやインドの山村と重なるものがあり、普遍的な山の暮らしというものを感じました。
杉林には、集落や田畑の跡が見られ、かつての陽光降り注ぐ風景が浮かんできました。


私も昨秋に中辺路を歩きましたが,あれはやぶオフの時にsatoさんに中辺路のことを聞いた後だったかな?
ニューヨークから来たという男性と話をしていると,風景が美しいことに感動していました。その後で中辺路を歩いて,確かに外国人が感動する風景だと納得しました。外国人ハイカーが中辺路に集中する理由の一つがわかったような気がしました。


大辺路は、中上健次の「枯木灘」「鳳仙花」の舞台なのですね。
中上健次の作品は、芥川賞を受賞した「岬」を高校生の頃に読んだのですが、怖くて難しかったという印象だけが残っています。
路地には、様々な背景を持つ人が集まり、今日を営んでいる。


中上健次は被差別部落のことを「路地」と表現しています。ですから,satoさんの言ういわゆる路地とはちょっと違うかもしれません。
ハンガリーにいた時に,ロマ(ジプシー)の人たちのことを聞きましたが,「路地」の人たちとロマとはちょっと似ているところがあるかもしれません。ただ,ロマは人種が違っていますが,「路地」の場合は同じ日本人で,よそから来た人でも「路地」に住むとだれでも「路地」の人になれるので,その点は全く異なるかも。

中上健次の作品では,「岬」,「枯木灘」,「鳳仙花」などがいいですね。それ以降の作品はあまり読む気がしません。「紀伊物語」でも,「大島」はまだいいのですが,「聖餐」は最後まで読む気になりませんでした。


大辺路と関係のない話ばかり書き並べてしまいました。スミマセン。
歴史に思いを巡らせ、海と山村を楽しみながらの大辺路歩きは興味深いです。
宇江敏勝さんの「森のめぐみ 熊野の四季を生きる」を読み、古座川流域も気になっています。
いつか、のんびりと旅をしたいです。


私も古座川流域は気になっています。中辺路と大辺路の間に古座街道があるのですが,機会があれば一度歩いてみたいと思っています。紀伊半島は山村風景がいいですね。人々も優しいし,まだまだ歩いてみたい場所がたくさんあります。

5月のオフ会は残念ですが、秋には、シュークリームさんのやさしい笑顔にお会いできますね。
街道、古道巡りの旅のお話、これからも楽しみにしております。


ありがとうございます。街道歩きはやぶレポとしてはどうかと思ってレポをあげるのを躊躇していたのですが,やぶの皆さんのふところの深さのおかげで,街道歩きもレポに加えていただけそうな気になってきました。よかったらまたレポを読んでいただけるとありがたいです。
                         @シュークリーム@
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