【南伊勢】笠木越(かちんぽうの道)と大皇神社
Posted: 2024年3月03日(日) 13:41
(【日 付】2024年3月2日(土)
【山 域】南伊勢
【コース】報徳診療所前8:01---11:25笠木峠---13:30大皇神社
【メンバー】単独
北畠氏が治めていた南伊勢から塩と魚を吉野に運んだ道がある。古和浦の古和一族から大台町粟谷の霊符山太陽寺を経て、櫛田川沿筋の和歌山街道に出て高見峠越で吉野に向かった。その中で大台町の宮川筋から大紀町の大内山川筋に乗越す笠木峠を越える峠路を歩くことにした。
山海の郷紀勢に駐車しJR伊勢柏崎6時39分発の列車に乗る。土曜日なのでだれも乗らないのだろうなと思っていたが、高校生がたくさん乗ってくる。この列車をのがすと2時間後にしか来ない。駅前の南伊勢町営バスの時刻表を見ると古和浦に向かう路線だけが載っている。現在でも古和浦の玄関口として柏崎は位置づけられているようだ。三瀬谷駅で降りて7時45分発の大台町営バスに乗り報徳診療所前で下車した。
宮川を渡り薗集落の奥にある奥伊勢フォレストピアに向かう。つり橋で対岸に渡り林道に入っていく。323標高点のある尾根の末端から取りつく。笠木越の道は古代からつづく道だが国土地理院の地図には載っていない。
登り口には左「かさぎごへ」の道標があり魚の道(かちんぽ道)として使われていたという説明書きがある。徒歩荷カチニの担い棒のことで、太陽寺から三条山の鞍部を越える田引越につながっている。炭窯跡から上りだすとシダにおおわれた部分もあるが道はゆるやかに上って行く。尾根芯を少し外して歩きやすいように道をつけている。稜線付近は自然林が残っており明るい尾根を古道が続いている。薗区とペイントされた木が何本かあり薗区の共有林になっているようだ。道はP516の山腹をトラバースして鞍部につながる。P516には清水谷の高とワワ越のプレートがかかっていた。
南東に伸びる尾根を進み最後はP649の南の鞍部に向かうように道はつけられている。稜線には歩きやすい道が続き、時折アガリコの木が出てくる。アガリコは炭焼き用の木材を調達するために木の下部で伐採した後、そこから適度な太さの木が何本か育った木のことだ。炭焼きの盛んな場所でよく見かける。本来は、もっとあったのだろうが植林のために稜線上にしか残っていない。南の鞍部への上りは九十九折の道跡が残っていた。
鞍部に着くとP678の笠木の高と笠木峠への分岐だった。笠木峠には紀勢町未整備と記されてあり、道は簿妙な感じでトラバースし広く開けた場所に出た。峠かと思い探るがここではないようだ。さらにトラバースし木が生えている嵓を目指す。魚の道の赤テープがあり、先に進むと峠に着いた。暗い植林の中で笠木峠に光が差しており光の中に天保14年(1843年)に祀られた地蔵があった。P678から東に延びる尾根を乗越す形の峠で、笠木川の源頭部になり植林地になるまでは明るい気持ちの良い場所だったのだろう。朝早かったので、ここで昼食を取った。
峠からは弓張林道の登山口に向かって下っていく。植林地の中なのではっきりしなので広がった谷筋から下った。中州のようになっている場所に行くと炭窯跡があり、ここに古道は続いていた。峠からは平たん地を経由して下るように道はつけられていて、黄色テープをたどればよかったようだ。窯跡から下ると左岸に杣道がきているのでここを進む。谷筋は連瀑になっていてこれを避けて道はつけられていた。峠から薗越という看板が出てくる。笠木から見ると薗越で薗から見ると笠木越になり意味は同じだ。ただ国土地理院にある薗越とは場所が違う。
林道を歩き笠木集落を通るといくつかの山の神が祀られている。その中で祠の前に注連縄を渡し、その先の木の枝に小さい注連縄がかかっていた山の神が気になった。柏崎には、木地師の南伊勢の中心になる大皇神社があるので、寄ってみた。承久2年(1220年)に小椋助之丞らが飯南郡川俣谷を越えて大皇神社を勧請したようだ。石段を上がっていくと菊の紋章が中央に掲げられた社殿と杉の大木が両側に立っており風格を感じさせる。社殿造営の寄進者の芳名は木地集落ごとに記載されていた。注連小路木屋、古和河内木屋、垣内後木屋、長野木屋、宮ノ上木屋、笠木木屋、沖田・上野木屋、錦木屋、横谷木屋の名前があった。北畠家より「宮川から8合目以上の所にある大きな木は伐採自由であるぞよ」という安堵状が出ており柏崎文書と呼ばれている。笠木集落の山の神の注連縄も木地師の伝統に基づくものかもしれない。
柏崎には北畠の城があり、周囲には北畠と友好関係にある木地集落が点在し木地集落の南伊勢の総本山になる大皇神社がある。
柏崎を見守る行者山には役行者が祀られていて修験の匂いも残っている。
南北朝時代の北畠氏を知るうえでおもしろい場所だと思いながら帰路についた。
【山 域】南伊勢
【コース】報徳診療所前8:01---11:25笠木峠---13:30大皇神社
【メンバー】単独
北畠氏が治めていた南伊勢から塩と魚を吉野に運んだ道がある。古和浦の古和一族から大台町粟谷の霊符山太陽寺を経て、櫛田川沿筋の和歌山街道に出て高見峠越で吉野に向かった。その中で大台町の宮川筋から大紀町の大内山川筋に乗越す笠木峠を越える峠路を歩くことにした。
山海の郷紀勢に駐車しJR伊勢柏崎6時39分発の列車に乗る。土曜日なのでだれも乗らないのだろうなと思っていたが、高校生がたくさん乗ってくる。この列車をのがすと2時間後にしか来ない。駅前の南伊勢町営バスの時刻表を見ると古和浦に向かう路線だけが載っている。現在でも古和浦の玄関口として柏崎は位置づけられているようだ。三瀬谷駅で降りて7時45分発の大台町営バスに乗り報徳診療所前で下車した。
宮川を渡り薗集落の奥にある奥伊勢フォレストピアに向かう。つり橋で対岸に渡り林道に入っていく。323標高点のある尾根の末端から取りつく。笠木越の道は古代からつづく道だが国土地理院の地図には載っていない。
登り口には左「かさぎごへ」の道標があり魚の道(かちんぽ道)として使われていたという説明書きがある。徒歩荷カチニの担い棒のことで、太陽寺から三条山の鞍部を越える田引越につながっている。炭窯跡から上りだすとシダにおおわれた部分もあるが道はゆるやかに上って行く。尾根芯を少し外して歩きやすいように道をつけている。稜線付近は自然林が残っており明るい尾根を古道が続いている。薗区とペイントされた木が何本かあり薗区の共有林になっているようだ。道はP516の山腹をトラバースして鞍部につながる。P516には清水谷の高とワワ越のプレートがかかっていた。
南東に伸びる尾根を進み最後はP649の南の鞍部に向かうように道はつけられている。稜線には歩きやすい道が続き、時折アガリコの木が出てくる。アガリコは炭焼き用の木材を調達するために木の下部で伐採した後、そこから適度な太さの木が何本か育った木のことだ。炭焼きの盛んな場所でよく見かける。本来は、もっとあったのだろうが植林のために稜線上にしか残っていない。南の鞍部への上りは九十九折の道跡が残っていた。
鞍部に着くとP678の笠木の高と笠木峠への分岐だった。笠木峠には紀勢町未整備と記されてあり、道は簿妙な感じでトラバースし広く開けた場所に出た。峠かと思い探るがここではないようだ。さらにトラバースし木が生えている嵓を目指す。魚の道の赤テープがあり、先に進むと峠に着いた。暗い植林の中で笠木峠に光が差しており光の中に天保14年(1843年)に祀られた地蔵があった。P678から東に延びる尾根を乗越す形の峠で、笠木川の源頭部になり植林地になるまでは明るい気持ちの良い場所だったのだろう。朝早かったので、ここで昼食を取った。
峠からは弓張林道の登山口に向かって下っていく。植林地の中なのではっきりしなので広がった谷筋から下った。中州のようになっている場所に行くと炭窯跡があり、ここに古道は続いていた。峠からは平たん地を経由して下るように道はつけられていて、黄色テープをたどればよかったようだ。窯跡から下ると左岸に杣道がきているのでここを進む。谷筋は連瀑になっていてこれを避けて道はつけられていた。峠から薗越という看板が出てくる。笠木から見ると薗越で薗から見ると笠木越になり意味は同じだ。ただ国土地理院にある薗越とは場所が違う。
林道を歩き笠木集落を通るといくつかの山の神が祀られている。その中で祠の前に注連縄を渡し、その先の木の枝に小さい注連縄がかかっていた山の神が気になった。柏崎には、木地師の南伊勢の中心になる大皇神社があるので、寄ってみた。承久2年(1220年)に小椋助之丞らが飯南郡川俣谷を越えて大皇神社を勧請したようだ。石段を上がっていくと菊の紋章が中央に掲げられた社殿と杉の大木が両側に立っており風格を感じさせる。社殿造営の寄進者の芳名は木地集落ごとに記載されていた。注連小路木屋、古和河内木屋、垣内後木屋、長野木屋、宮ノ上木屋、笠木木屋、沖田・上野木屋、錦木屋、横谷木屋の名前があった。北畠家より「宮川から8合目以上の所にある大きな木は伐採自由であるぞよ」という安堵状が出ており柏崎文書と呼ばれている。笠木集落の山の神の注連縄も木地師の伝統に基づくものかもしれない。
柏崎には北畠の城があり、周囲には北畠と友好関係にある木地集落が点在し木地集落の南伊勢の総本山になる大皇神社がある。
柏崎を見守る行者山には役行者が祀られていて修験の匂いも残っている。
南北朝時代の北畠氏を知るうえでおもしろい場所だと思いながら帰路についた。