【高見山地】剣ヶ峯城から杉峠を経て丹生俣筋

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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【高見山地】剣ヶ峯城から杉峠を経て丹生俣筋

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2024年1月6日(土)
【山 域】高見山地
【コース】美杉道の駅駐車場8:00---10:30剣ヶ峯城跡---11:30杉峠---12:30美杉道の駅駐車場
【メンバー】単独

 江戸時代に描かれた「多気城下絵図」には、峠に置かれた八つの番所とともに剣ヶ峯城という城が載っている。伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述があるが、近代になってその存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。地元の人たちもこの城の事は知らない。平成6、7年度に皇学館大学考古学研究会が再発見し測量を行った。平成11年5月には伊賀中世城館調査会によって測量図が発表され場所が確定した。P727の杉峠北峰の付近にあったようだ。今回は飼坂峠から尾根をつないで剣ヶ峯城跡を経て杉峠まで歩くことにした。

 道の駅に車を置いて飼坂峠に向かう。坂の下の蔵のある屋敷を見ながら伊勢本街道の山道に入る。伐採された植林地を過ぎると飼坂峠で、番所が置かれていた。前に来た時は霧山城に向かう北の尾根を歩いたが、今日は南に向かう。植林の尾根筋に道は続いている。尾根は津市有林や複数の山林地主の境界になっており、境界杭や木に地主のマークがある。地元の小学校に通っていた同僚は小学校の遠足で飼坂峠から尾根通しで川上まで歩いたと言っていた。確かに尾根筋は広く歩きやすいが、植林は放置されたままで獣たちの幹線道路になっている。尾根からは大洞山と三多気集落がよく見える。

 奥津と上多気から道が途中まで上がってきている鞍部に着くと10mの大きな切通しになっている。上多気側には九十九折れの道が続いている。植林をした段階では奥津と上多気はつながっていたようだが、今はまったく使われずに荒れ放題になっている。切通しの規模からして発破をかけたようだ。切通しを避けて獣道を使い尾根に復帰した。P639で尾根は南西に方向を変える。上多気から道が川上から破線道が途中まで上がってきている鞍部のあたりから林相が変わってくる。川上側の植林が間伐され枝打ちもされており、放置植林と違い気持ちが良い。テープもあるので、川上側の杣道は生きていてつながっていそうだ。


剣ヶ峯城の土塁
剣ヶ峯城の土塁

 P727には「杉峠北峰 二の字山」「剣ヶ峰」という二つのプレートがかかっていた。このあたりに剣ヶ峯城があったようだ。正面に霧山城が構え飼坂番所を両側から挟み撃ち出来る場所になる。また、大和口の見つけ城というだけあって大和への玄関口の三多気も見通せる。土塁や堀切があるのだが植林になっていてよくわからない。ただ、ここまでの尾根に無かった大石が散乱しており土塁に使ったようだ。

 杉峠に向かうが、杣道は川上側に下りるように導いてくる。杉トンネルが出来て杉峠に下りる人がいないのと小尾根がいくつかあって、2度ルートを修正した。杉峠が近づいてくると昔のテープがあらわれ直接峠に下りられた。道路は丹生俣から峠までは来ているが、川上側は昔の山道で車は通れない。峠には川上の若宮八幡宮の参詣道を示す道標がたてられていたので、小学校の遠足はここから川上に向かったのだろう。それにしても当時の小学生はよく歩く。


川上若宮八幡宮の参詣道道標
川上若宮八幡宮の参詣道道標

 杉峠には杉峠番所が置かれていた。他の7つの番所が外部との境の峠に置かれているのに、ここだけが丹生俣と川上という多気の領域内の峠に番所が置かれていたので違和感を持っていた。杉峠番所は剣ヶ峯城の喉ぼとけに当たる場所で、城を守るために置かれたようだ。そして剣ヶ峯城は飼坂番所と杉峠番所をつなぐ形で建てられたようだ。麓の川上から高さにして400m以上あり攻めにくい場所だが、尾根筋は問題なく守りに適した城だったのだろう。

 峠道を下ると杉トンネルが見えてきた。デポしておいた自転車に乗って西俣を下っていくと対岸に石垣道が続いており昔の杉峠越えの道だろう。八手俣川の本流に合流した所には自然石に彫られた「右 川上」の道標があった。しばらく走ると祠に石灰岩の自然石が祀られている。山の神で、山を越えた飯高や大台でも石灰岩を山の神として祀っている。よく見ると祠のまわりにも石灰岩がいくつか並んでいる。山の神をここに集めたようだ。山の神と彫られら石が集められているのは何度か見たことあるが、自然石の山の神が集められているのは初めて見た。


山の神
山の神

 しばらく下ると、大師堂があり弘法大師が祀られている。弘法大師は空海の事で真言密教を開き修験道を確立させた人物だ。他にも古い地蔵や石灯篭などが集められている。中でも気になったのは僧侶の石像に「三丁目」と刻まれた丁石だった。密教では俗塵を離れた山岳に寺院を建て、修学研鑽の場としていた。参道が長いことから、伽藍まで何丁、奥院まで何丁と道標を兼ねて目的地までの距離を示すものが丁石と呼ばれる石造物だ。昔このあたりに修験の行場があり、時代が経てから散在していた石造物をここに集めた感じがする。その先には北畠氏の菩提寺であった松月院跡がある。本堂跡の上部には北畠氏の墓、地蔵や宝塔などが集められている。集められた地蔵の顔がすばらしい。どれもこれも人間味のある豊かな顔立ちをしている。

大師堂の丁石
大師堂の丁石
松月院跡の地蔵
松月院跡の地蔵

 自転車で丹生俣を下ったが、とにかく修験の色が濃い。山の神、大師堂、松月院跡とめぐってきたが、花などが進ぜられており地元の人たちが暖かく見守ってくれているのがわかる。中世の歴史遺産が生活の中になじんでいる光景を見て、温かい気持ちで帰路についた。

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山日和
記事: 3585
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:12
お住まい: 大阪府箕面市

Re: 【高見山地】剣ヶ峯城から杉峠を経て丹生俣筋

投稿記事 by 山日和 »

わりばしさん、こんばんは。
まったく馴染みのない山域です。 :mrgreen:

 江戸時代に描かれた「多気城下絵図」には、峠に置かれた八つの番所とともに剣ヶ峯城という城が載っている。伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述があるが、近代になってその存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。地元の人たちもこの城の事は知らない。

いろんなところに城があるもんですが、よく調べますねえ。いつも感心します。

確かに尾根筋は広く歩きやすいが、植林は放置されたままで獣たちの幹線道路になっている。尾根からは大洞山と三多気集落がよく見える。

獣たちの幹線道路とは言い得て妙ですね。 :lol:

 上多気から道が川上から破線道が途中まで上がってきている鞍部のあたりから林相が変わってくる。川上側の植林が間伐され枝打ちもされており、放置植林と違い気持ちが良い。テープもあるので、川上側の杣道は生きていてつながっていそうだ。

林相が変わって自然林というわけではないんですか?
私の場合、植林ばかりというのが食指が動かない大きな理由ですが、わりばしさんみたいに目的があれば違うんでしょうね。

P727には「杉峠北峰 二の字山」「剣ヶ峰」という二つのプレートがかかっていた。このあたりに剣ヶ峯城があったようだ。正面に霧山城が構え飼坂番所を両側から挟み撃ち出来る場所になる。また、大和口の見つけ城というだけあって大和への玄関口の三多気も見通せる。土塁や堀切があるのだが植林になっていてよくわからない。ただ、ここまでの尾根に無かった大石が散乱しており土塁に使ったようだ。

このあたりの城の遺構は保全されているんでしょうか。

 杉峠には杉峠番所が置かれていた。他の7つの番所が外部との境の峠に置かれているのに、ここだけが丹生俣と川上という多気の領域内の峠に番所が置かれていたので違和感を持っていた。杉峠番所は剣ヶ峯城の喉ぼとけに当たる場所で、城を守るために置かれたようだ。そして剣ヶ峯城は飼坂番所と杉峠番所をつなぐ形で建てられたようだ。麓の川上から高さにして400m以上あり攻めにくい場所だが、尾根筋は問題なく守りに適した城だったのだろう。

「越前若狭 峠のルーツ」という本を読んでいますが、越前でも峠が軍事上の要所になっているところが多いですね。
山城もいたるところにあったようです。
杉峠というからには杉の大木があったんでしょうか。

 峠道を下ると杉トンネルが見えてきた。デポしておいた自転車に乗って西俣を下っていくと対岸に石垣道が続いており昔の杉峠越えの道だろう。八手俣川の本流に合流した所には自然石に彫られた「右 川上」の道標があった。しばらく走ると祠に石灰岩の自然石が祀られている。山の神で、山を越えた飯高や大台でも石灰岩を山の神として祀っている。よく見ると祠のまわりにも石灰岩がいくつか並んでいる。山の神をここに集めたようだ。山の神と彫られら石が集められているのは何度か見たことあるが、自然石の山の神が集められているのは初めて見た。

チャリを活用してますねえ。自然石の山の神が集められているとは興味深いですね。
石灰岩はたまたまそこが石灰岩質だったのか、あえて石灰岩を選んだのかどちらなんでしょう。

 しばらく下ると、大師堂があり弘法大師が祀られている。弘法大師は空海の事で真言密教を開き修験道を確立させた人物だ。他にも古い地蔵や石灯篭などが集められている。中でも気になったのは僧侶の石像に「三丁目」と刻まれた丁石だった。密教では俗塵を離れた山岳に寺院を建て、修学研鑽の場としていた。参道が長いことから、伽藍まで何丁、奥院まで何丁と道標を兼ねて目的地までの距離を示すものが丁石と呼ばれる石造物だ。

空海が開いた高野山の町石道が有名ですね。丁石と町石と同じ意のようですが、なにが違うんでしょうか。


               山日和
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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【高見山地】剣ヶ峯城から杉峠を経て丹生俣筋

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、山日和さん。

 江戸時代に描かれた「多気城下絵図」には、峠に置かれた八つの番所とともに剣ヶ峯城という城が載っている。伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述があるが、近代になってその存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。地元の人たちもこの城の事は知らない。

いろんなところに城があるもんですが、よく調べますねえ。いつも感心します。

城といっても中世の城ですから
江戸時代のような石垣がきれいに積みあがっているのではなく
軍事目的の砦のような所が多いです。
まあ今の時代PCで何でも調べられます。
:mrgreen:

確かに尾根筋は広く歩きやすいが、植林は放置されたままで獣たちの幹線道路になっている。尾根からは大洞山と三多気集落がよく見える。

獣たちの幹線道路とは言い得て妙ですね。 :lol:

獣の足跡しかありません。
巡視といってもマジックで書かれた日にちを見ると5年に1回ぐらいです。


 上多気から道が川上から破線道が途中まで上がってきている鞍部のあたりから林相が変わってくる。川上側の植林が間伐され枝打ちもされており、放置植林と違い気持ちが良い。テープもあるので、川上側の杣道は生きていてつながっていそうだ。

林相が変わって自然林というわけではないんですか?
私の場合、植林ばかりというのが食指が動かない大きな理由ですが、わりばしさんみたいに目的があれば違うんでしょうね。


はい自然林じゃなく整備された植林になったという事で・・
私も食指が伸びなかった山域でしたが
昔人の痕跡がそこかしこに残っていて
意外におもしろいです。


松月院跡の地蔵
松月院跡の地蔵

P727には「杉峠北峰 二の字山」「剣ヶ峰」という二つのプレートがかかっていた。このあたりに剣ヶ峯城があったようだ。正面に霧山城が構え飼坂番所を両側から挟み撃ち出来る場所になる。また、大和口の見つけ城というだけあって大和への玄関口の三多気も見通せる。土塁や堀切があるのだが植林になっていてよくわからない。ただ、ここまでの尾根に無かった大石が散乱しており土塁に使ったようだ。

このあたりの城の遺構は保全されているんでしょうか。

いや~ほったらかしです。
看板があるぐらいかな?
北畠の城は山村の過疎地域に多いですし・・
ただ、伊勢中世城館研究会や皇学館大学考古学研究会などの有志がこまめに調べています。


 杉峠には杉峠番所が置かれていた。他の7つの番所が外部との境の峠に置かれているのに、ここだけが丹生俣と川上という多気の領域内の峠に番所が置かれていたので違和感を持っていた。杉峠番所は剣ヶ峯城の喉ぼとけに当たる場所で、城を守るために置かれたようだ。そして剣ヶ峯城は飼坂番所と杉峠番所をつなぐ形で建てられたようだ。麓の川上から高さにして400m以上あり攻めにくい場所だが、尾根筋は問題なく守りに適した城だったのだろう。

「越前若狭 峠のルーツ」という本を読んでいますが、越前でも峠が軍事上の要所になっているところが多いですね。
山城もいたるところにあったようです。
杉峠というからには杉の大木があったんでしょうか。


南北朝時代以降は、敗れた南朝方の中心武将(公家)だった北畠氏は攻め込まれる対象だったので
なおの事です。
今はただの植林の峠ですが、杉の大木があったのでしょう。


大師堂
大師堂

 峠道を下ると杉トンネルが見えてきた。デポしておいた自転車に乗って西俣を下っていくと対岸に石垣道が続いており昔の杉峠越えの道だろう。八手俣川の本流に合流した所には自然石に彫られた「右 川上」の道標があった。しばらく走ると祠に石灰岩の自然石が祀られている。山の神で、山を越えた飯高や大台でも石灰岩を山の神として祀っている。よく見ると祠のまわりにも石灰岩がいくつか並んでいる。山の神をここに集めたようだ。山の神と彫られら石が集められているのは何度か見たことあるが、自然石の山の神が集められているのは初めて見た。

チャリを活用してますねえ。自然石の山の神が集められているとは興味深いですね。
石灰岩はたまたまそこが石灰岩質だったのか、あえて石灰岩を選んだのかどちらなんでしょう。


両方でしょうね。
奥宮の御神体が石灰岩の自然石だった川上若宮八幡宮の宮司さんの話を聞くと
石灰岩の御神体は山の岩ひとつひとつに神が宿っているという修験道の考えが反映しているようです。
修験道の影響の強かった宮川流域や櫛田川流域に自然石の山の神があります。
なおかつ中央構造線のあたりですので石灰岩はあったと思います。


川上への道標
川上への道標

 しばらく下ると、大師堂があり弘法大師が祀られている。弘法大師は空海の事で真言密教を開き修験道を確立させた人物だ。他にも古い地蔵や石灯篭などが集められている。中でも気になったのは僧侶の石像に「三丁目」と刻まれた丁石だった。密教では俗塵を離れた山岳に寺院を建て、修学研鑽の場としていた。参道が長いことから、伽藍まで何丁、奥院まで何丁と道標を兼ねて目的地までの距離を示すものが丁石と呼ばれる石造物だ。

空海が開いた高野山の町石道が有名ですね。丁石と町石と同じ意のようですが、なにが違うんでしょうか。

一緒です。
伊勢神宮の岳道に丁石はたくさんありますが、丁を使っているものもあれば町を使っているものもあって同じように使われています。

              
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わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【高見山地】古坂道を上り櫃坂峠道を下る

投稿記事 by わりばし »

【日 付】2024年1月13日(土)
【山 域】高見山地
【コース】坂ノ下公民館駐車場8:05---9:15奥峠---10:15坂ノ下公民館駐車場
【メンバー】単独

 多気から立川沿いに上っていくと峠に着き櫛田川沿いの仁柿・横野につながる峠路になる。峠には櫃坂番所があり櫛田川沿いには大石御所、大石城、神山城を置き守りをかためていた。仁柿より中世に使われていた古坂道を上り江戸時代の伊勢参りでにぎわった櫃坂峠道を下ることにした。

 上仁柿の坂ノ下公民館に駐車し伊勢本街道を歩く。橋を渡った所に勢至大菩薩という石像が祀られていた。先の林道の分岐には古坂道と櫃坂道の道標があり谷を進み中俣に入る。植林に入ると古坂道4丁の看板があった。ただ、これ以降は奥峠まで看板はあらわれずテープと赤杭にそって進んでいく。石垣がいくつも出てくるので田畑があったようだ。古道の場所には赤杭が2本打たれており溝道が時たまあらわれてくる。植林の中なので、これがないと古道をたどるのは難しい。


坂ノ下の勢至大菩薩
坂ノ下の勢至大菩薩

 古道はゆるやかに上って行く。獣道を追って谷にトラバースしていくと行き詰った。上は土壁になっている。獣道を使いどうにか土壁の上に出ると、赤杭があった。古道は尾根を上り土壁の上を通っていた。道は中俣の源頭を巻くように進み奥峠につながっていた。少し下ると立川で、立川源流の小道に出た。

 古坂道は北畠氏が多気に本拠を構える以前より奈良県の御杖神社と仁柿を結ぶ最短ルートとして使われてきた。御杖から小須磨峠を経て川上、川上から杉峠を経て丹生俣、丹生俣より鼻啜峠・奥峠を経て仁柿というルートだ。立川を渡りまっすぐに進めば鼻啜峠で、丹生俣の唐戸に出る。南北朝時代に使われていたのは古坂道で、奥峠に櫃坂番所があり「城の口」と呼ばれていた。この道は杉峠番所と櫃坂番所を結ぶ軍事上大切な道だった。

奥峠
奥峠

 奥峠から立川源流の小道沿いには沢山の石垣が広域に広がっている。どうも集落があったようだ。奥峠という集落があったようで、墓地も出てきた。地蔵や墓に立ち寄り小屋など大きな集落であったことがわかる。伊勢湾台風をきっかけに離村したようだが、お正月のお参りの挿し木がしてあった。昔の奥峠集落の生活道路であった石垣道を歩いていくと峠集落に着いた。立川の中流に集落が出来るにしたがって現在の国道369号線にそったルートを取る人が増え江戸時代の寛文年間に現在の櫃坂道が新道として作られた。その影響で口峠と言われた現在の峠集落には7件の旅籠があった。

奥峠集落の墓地
奥峠集落の墓地

 廃村となった峠集落から国道を少し下ると伊勢本街道櫃坂の看板がある。九十九折や切通を使いとても歩きやすい。もろい所は石垣で補修してあるなど完璧だ。江戸時代の櫃坂道新坂は古坂に比べて近道であったが急坂で危険個所が多かった。戦前の昭和恐慌の時の失業対策事業として学童の安全通学を目的に整備されたようだ。坂ノ下で日向ぼっこをいしていたおばあさんと話をすると、峠集落の子どもたちが仁柿小学校まで通っていたと言っていた。

櫃坂峠道
櫃坂峠道

 中日ドラゴンズで「加藤バズーカ」と呼ばれた加藤匠馬選手が通っていた小学校も14年前に廃校になった。帰りの道中で、ドンド焼きの準備が各集落ごとにされていているのを見て何故かほっとした。

ドンド焼き
ドンド焼き
biwaco
記事: 1423
登録日時: 2011年2月22日(火) 16:56
お住まい: 滋賀県近江八幡市

Re: 【高見山地】剣ヶ峯城から杉峠を経て丹生俣筋

投稿記事 by biwaco »

わりばし先生、こんにちは。せっかくの週末なのに雨模様で、みなさん山はお休みでしょうか? 
私もここ数日骨休めのグータラ生活で、ヤブコギネットを覗いて読み飛ばした投稿を今更ながら興味津々で読ませていただいております。

このレポも、タイトルを見ただけで私の記憶エリアにないwordばかりで、攻略?が難しそうでつい保留したまんまでした。
きょうは、まずは地形図を開いて地名、位置の確認から攻めてみることにしました。
「高見山地」「美杉道の駅」でスタート地点を確認。さらに本文にある「飼坂峠」「杉峠」が見つかると、「奥津」「川上」「多気」などの地名も次々キャッチできました。

それを踏まえてレポを再読すると、わりばしさんが辿ったルートや尾根が繋がり、北側の「霧山城跡」や、・727の「剣ヶ峯城跡」の位置も明らかにできました。
そうなると、出会った石積みや集石、杣道や作業道、周りの林相、土塁、堀切などの様子も、自分の目で見ているような気分になるもんです。もちろん、添えられている画像がイメージを膨らませてくれるのでしょうけど。
杉峠を下ってからは? の心配ご無用で、しっかりチャリを待たせていたんですね。

多気には「北畠氏館跡」など「北畠氏」の関連史跡が多いですね。歴史に疎いためWEB辞書で俄か勉強してみました。
南北朝時代の親房、顕信、顕能親子から信長に攻められるまで240年も続いたとは。地方政治とはいえ江戸幕府にも匹敵する長期政権だったんですね。文化的史料が多く残るのもうなずけます。

翌週の、坂の下公民館からの櫃坂峠道も古くからの軍事、暮らしの重要ルートだったんですね。
歴史を辿ると過ぎ去った時代が甦ります。そんなレポと画像をまた見せてください。
         ~びわ爺
アバター
わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【高見山地】剣ヶ峯城から杉峠を経て丹生俣筋

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、biwacoさん。

このレポも、タイトルを見ただけで私の記憶エリアにないwordばかりで、攻略?が難しそうでつい保留したまんまでした。
きょうは、まずは地形図を開いて地名、位置の確認から攻めてみることにしました。
「高見山地」「美杉道の駅」でスタート地点を確認。さらに本文にある「飼坂峠」「杉峠」が見つかると、「奥津」「川上」「多気」などの地名も次々キャッチできました。

地味なレポにお付き合いいただきありがとうございます。
中世の割には痕跡がけっこう残っていて、楽しいです。

それを踏まえてレポを再読すると、わりばしさんが辿ったルートや尾根が繋がり、北側の「霧山城跡」や、・727の「剣ヶ峯城跡」の位置も明らかにできました。
そうなると、出会った石積みや集石、杣道や作業道、周りの林相、土塁、堀切などの様子も、自分の目で見ているような気分になるもんです。もちろん、添えられている画像がイメージを膨らませてくれるのでしょうけど。
杉峠を下ってからは? の心配ご無用で、しっかりチャリを待たせていたんですね。

中世の山城ですので、元々土と岩で固めた感じで
石垣をきれいに積み上げるのは秀吉以降の城です。
軍事目的というより権力の象徴としての城に変わっていったんです。


下之川の大威徳明王
下之川の大威徳明王

多気には「北畠氏館跡」など「北畠氏」の関連史跡が多いですね。歴史に疎いためWEB辞書で俄か勉強してみました。
南北朝時代の親房、顕信、顕能親子から信長に攻められるまで240年も続いたとは。地方政治とはいえ江戸幕府にも匹敵する長期政権だったんですね。文化的史料が多く残るのもうなずけます。

北畠につながりのある神仏習合の寺院や末裔が残っていたのと
松阪の本居宣長や「あいうえお・・」の五十音表を編み出した津の谷川士清などの国学者が
北畠の流れをくむ学者で文化的に影響力があったのが大きいかと思います。


大師道の地蔵尊
大師道の地蔵尊

翌週の、坂の下公民館からの櫃坂峠道も古くからの軍事、暮らしの重要ルートだったんですね。
歴史を辿ると過ぎ去った時代が甦ります。そんなレポと画像をまた見せてください。
         
ありがとうございます。
多気を守った8つの番所も残り一つになりました。
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