【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

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sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by sato »

【日 付】  2023年10月17日
【山 域】  丹後 槙山金ケ岬周辺
【天 候】  曇りのち晴れ
【メンバー】 Kさん sato
【コース】  横波鼻~電波塔~△480.1直下~槙山砲台跡~△218.1金岬砲台跡~標高約100m地点~林道合流地
        ~△228・8~海岸道路~P


 西舞鶴港に沿った道を北上していると、灰青色の空の下に連なる深緑色の山並みの奥にそびえ立つ
青葉山のお姿が目に飛び込み、その凛としたうつくしさに「あぁ」とちいさく感嘆の声をあげ、同時に、
今、ギザギザしたYの字を描く舞鶴湾の西と東の湾が合わさった辺りに来たのだと気付く。       
 雨後の湿った空気で微かに靄がかかり、海も山も空も静かに物思いにふけっているような色を帯びている。
今年初めてのKさんとの海をながめる山歩き。青空を期待していたのだけど、遠い遠いむかしを感じるような、
わたしの内面に触れてくるような色合いの情景を眺めながらこころが震えている。時空を超えていく旅を感じ、
トク、トク、と胸が高鳴る。

 白杉の集落を過ぎ、横波鼻に車を置き、槙山山頂へと延びる林道に入っていく。標高70mの鞍部からは尾根を歩く。
最初は荒れ気味の植林だったが、照葉樹と落葉樹の混ざった雑木林となり、気持ちよく登って行くと、
コンクリートレンガが敷き詰められた林道にぽんと出た。先ずは三角点に向かう。
 ところが、電波塔?に着くと作業服を着た人達がいて、ここは自衛隊の敷地なので入ってはいけないとおっしゃる。
レンガの道は進入禁止とのことだった。舞鶴は、かつて日本海における帝国海軍の最重要拠点。
今は海上自衛隊の基地となっているところが多い。海を見渡すこのお山は、かつても今も重要な地ということなのだろう。
DSC_0256_1.JPG
 北西の山頂地帯に着くと、レンガ造りの倉庫のような建物の跡が見られた。槙山砲台跡だ。
下が弾薬庫でその上に砲台が設置された造りというが、草木が生い茂りどこが台座なのか分からない。
横の階段を登ると芝地になっていて大絶景が広がっていた。
 真下は栗田湾。芦生の森で生まれたしずくたちが、おおきな由良川の河口から大海原へと旅立っている。
奥には無双ケ鼻と一昨年訪れクマの親子に遭遇した栗田半島がにょきっと突き出し、
続いていつかゆっくりと巡ろうと夢見ている丹後半島がおおきく伸びている。
その先は限りなく広がる青い空と海。

 いつしか灰青色の空は、白い雲がたなびく水色の空となり、海は、穏やかな秋の陽射しを受けて露草色に煌めいている。
なんて爽快なのだろう。夢と希望を感じる眺めなのだろう。爽やかな空気を胸いっぱい吸い込みながら、
砲台建設に携わった人たちは、どんな思いで、海を、山を、空を、見つめたのだろう、とふと思い、
チクリと胸に痛みを覚える。

 次の目的地、△218.1へは舗装された林道を辿っていく。分岐から金ケ岬へは車は通行不可能な土道となる。
道中まあるい小石が散らばっていて、不思議だなぁ、と思いながら歩いていたが、そうかぁ、と気が付いた。
この道は砲台への道。整地するために海岸の小石を敷き詰めたのだろう。
DSC_0271_1.JPG
 木立の向こうに塀のようなものが見え、金岬砲台跡に到着した。
雑木林の中にレンガ造りの建築物の跡が迷路のように続いている。井戸や水路の跡もあった。
どれだけの軍人がここで過ごし海を見張っていたのだろう。想像を超える規模だった。
 木が生い茂ったり崩れたりして元の形が分からないものが多いが、赤茶色のレンガでしっかりと固められた弾薬庫群は、
100年以上経った今も形を留めていて、当時のロシアへの脅威の大きさをまざまざと感じる。
 わたしに、夢と希望、浪漫を感じさせてくれる海は、明治の時代は、ロシアからの侵略路と見なされ、
不穏の対象でもあったのだ、と思い知る。

 落ち葉を踏みしめ、戦争という時代を物語る建築物の跡を巡りながら、
日本が関わった戦争について、世界のあちこちで起こっている争いについて、争いの中で生きる人たちについて、
わたしは何を知っているのだろう、知らないことだらけだ、と胸をつかれる。

 知らない、知ることが出来ない、ということを感じるのは、時にかなしくやるせなく、時にどきどきわくわくする。

「そろそろ行きますか」
地図を広げ、Kさんと金ケ岬の地形を確認する。そう、今日の山旅は、先端への山旅。
標高170mで尾根がふたつに分れるが、北西の尾根に進むことに決める。
 出会いはいつも不意にやって来る。お酒やビールのビンが転がる明るい雑木林の中を下っていくと、
思いもかけない風景がわたし達を出迎えてくれた。シデ、ヤマザクラ、ケヤキ、タブの大木が佇む静謐さを湛えた森。
中でもタブの木の貫禄には目を見張るばかり。
 半島の先端、戦争遺跡の先には、こんなにも素晴らしい巨木の森が展開していたのだ。

 波の音が大きくなる。どこまで進めるか。
「ここまでかな」Kさんがおっしゃった。標高約100m。木立の向こうがすとんと落ちているのが分かる。
地形図を見ても少し下は崖になっている。しゃがみ込んで木々の間から白い波が岩礁に打ち付ける青い海を眺める。
「多弥寺山のようにはなかなかいかないなぁ」
「そうですね」
 くやしさは無い。今日も、清々しい諦めと共に、足元のすぐ先の未知の世界を感じ胸がときめく。
胸の鼓動と波の音が合わさるのを感じる。
そう、すうっと降り立つことが出来ないから、知ることが出来ないから面白いのだ。
そして、次の旅への想像を掻き立ててくれるのだ。
DSC_0275_1.JPG
 帰路は、海沿いの破線も気になったが、ヤブに埋もれているように感じたので、林道の合流地まで戻り、
△228.8の尾根を下った。この尾根も思いもかけない清々しい雑木林が続く素敵な尾根だった。
標高170mで南東に進み、車道が終わる地点に降り立つ。

 すぐ横の緩やかな谷間に広がる田んぼは、セイタカアワダチソウのまっ黄色のお花畑になっていた。
目の前の青く煌めく湾には白い船が浮かび、向こう側の緑のお山の下には、無機質な巨大な火力発電所が建っている。
 ひと息ついて空を見上げると、太古から変わらぬお日様が、令和の時代の風景を、
今を生きるわたしたちを、まっすぐに見つめていた。

sato


 
アバター
わりばし
記事: 1767
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by わりばし »

おはようございますsatoさん。

戦争遺産が自然に変わりつつあるようですね。

私の住んでいた高茶屋には津海軍工廠があり航空エンジンの工場がありました。
香良洲にある三重海軍航空隊(予科練)から5km、陸軍歩兵第33連隊からは1.5kmの位置にあり。
三重海軍航空隊は特攻隊の基地で、大森南朋の父の麿 赤兒は祖父が海軍少佐でここに幼少期に勤めていたこともあり津に住んでいた時期があります。
33連隊は陸上自衛隊の久居駐屯地になっていて、南京大虐殺に関わった部隊です。
自衛隊内部の建物は当時の物がかなり残っています。
駐屯地のはずれの池の畔に「軍犬・軍馬の墓」がありますねえ。
三重海軍航空隊については資料館はありますがレンガ塀ぐらいしか残っていません。
昔は巨大な煙突がありましたが。

官舎・工員住宅のあった城山は北畠氏の時代に小森上野城の跡地を含めて造成したところから名がついています。
幹部の宿舎は川喜田半泥子の邸宅のあった千歳が丘にあり、現在は南ヶ丘につながっています。
海軍共済病院は三重県立高茶屋病院になり現在は三重県立こころの医療センターとして使われています。

全国8カ所しかない海軍工廠なので規模も大きく。
跡地は井村屋・松阪鉄工・住友ベークライト・日本板硝子などの工場として使われ現在も稼働しています。
航空エンジン工場跡はほとんど残ってなかったのですが
エンジンの性能を検査するための8角形のコンクリートの奇妙な建造物は30年前まで残っていました。
頑丈な建造物で戦後まもなくには破壊できなかったために残っていたようです。

レポを読んで地元のことを思い起こしました。

                     わりばし


最後に編集したユーザー わりばし [ 2023年10月24日(火) 18:08 ], 累計 2 回
アバター
山日和
記事: 3585
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:12
お住まい: 大阪府箕面市

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by 山日和 »

satoさん、こんばんは。

【山 域】  丹後 槙山金ケ岬周辺

まったく知らない山域です。 :D

コンクリートレンガが敷き詰められた林道にぽんと出た。先ずは三角点に向かう。
 ところが、電波塔?に着くと作業服を着た人達がいて、ここは自衛隊の敷地なので入ってはいけないとおっしゃる。
レンガの道は進入禁止とのことだった。舞鶴は、かつて日本海における帝国海軍の最重要拠点。
今は海上自衛隊の基地となっているところが多い。海を見渡すこのお山は、かつても今も重要な地ということなのだろう。

自衛隊の基地のあるところではあるあるですね。房総半島の千葉県最高峰もそうだったような。

 北西の山頂地帯に着くと、レンガ造りの倉庫のような建物の跡が見られた。槙山砲台跡だ。
下が弾薬庫でその上に砲台が設置された造りというが、草木が生い茂りどこが台座なのか分からない。
横の階段を登ると芝地になっていて大絶景が広がっていた。


こういう遺構には惹かれるものがありますね。地図で調べて見ると、このあたりには砲台跡が結構ありますね。

砲台建設に携わった人たちは、どんな思いで、海を、山を、空を、見つめたのだろう、とふと思い、
チクリと胸に痛みを覚える。

こう言ってしまえば身も蓋もないけど、富国強兵の時代、センチメンタルな思いは全然なかったと思いますよ。
ロシアの来襲に備えて守りを固める。その一念だったと思います。

 木立の向こうに塀のようなものが見え、金岬砲台跡に到着した。
雑木林の中にレンガ造りの建築物の跡が迷路のように続いている。井戸や水路の跡もあった。
どれだけの軍人がここで過ごし海を見張っていたのだろう。想像を超える規模だった。
 木が生い茂ったり崩れたりして元の形が分からないものが多いが、赤茶色のレンガでしっかりと固められた弾薬庫群は、100年以上経った今も形を留めていて、当時のロシアへの脅威の大きさをまざまざと感じる。
 わたしに、夢と希望、浪漫を感じさせてくれる海は、明治の時代は、ロシアからの侵略路と見なされ、不穏の対象でもあったのだ、と思い知る。


その通りですね。日清戦争の大勝の跡、ロシア何するものぞという感じだったんでしょう。

 落ち葉を踏みしめ、戦争という時代を物語る建築物の跡を巡りながら、
日本が関わった戦争について、世界のあちこちで起こっている争いについて、争いの中で生きる人たちについて、わたしは何を知っているのだろう、知らないことだらけだ、と胸をつかれる。
 知らない、知ることが出来ない、ということを感じるのは、時にかなしくやるせなく、時にどきどきわくわくする。


知ろうとすることはできます。少なくとも無関心よりは遥かにマシな態度だと思います。
知ったからと言って何か行動に移せるかというのは別の問題だけど。

 出会いはいつも不意にやって来る。お酒やビールのビンが転がる明るい雑木林の中を下っていくと、思いもかけない風景がわたし達を出迎えてくれた。シデ、ヤマザクラ、ケヤキ、タブの大木が佇む静謐さを湛えた森。中でもタブの木の貫禄には目を見張るばかり。
 半島の先端、戦争遺跡の先には、こんなにも素晴らしい巨木の森が展開していたのだ。


そんな巨木の森がこんなところに存在していたんですね。思わぬ喜びじゃないですか。:lol:

 波の音が大きくなる。どこまで進めるか。
「ここまでかな」Kさんがおっしゃった。標高約100m。木立の向こうがすとんと落ちているのが分かる。
地形図を見ても少し下は崖になっている。しゃがみ込んで木々の間から白い波が岩礁に打ち付ける青い海を眺める。
「多弥寺山のようにはなかなかいかないなぁ」
「そうですね」
 くやしさは無い。今日も、清々しい諦めと共に、足元のすぐ先の未知の世界を感じ胸がときめく。
胸の鼓動と波の音が合わさるのを感じる。
そう、すうっと降り立つことが出来ないから、知ることが出来ないから面白いのだ。
そして、次の旅への想像を掻き立ててくれるのだ。

波打ち際へうまく下りられることもあれば、断崖絶壁に阻まれることもある。半島の山旅の醍醐味ですね。 :D

                   山日和
biwaco
記事: 1423
登録日時: 2011年2月22日(火) 16:56
お住まい: 滋賀県近江八幡市

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by biwaco »

satoさん、ご無沙汰です。(^_-)

 >「丹後」「舞鶴の海」

私のふるさと近くの地名ワードが出て来て気になっておりました。
とはいえ、舞鶴と与謝を分けるこの金ヶ崎半島には行ったことはありません。まあ、道も無いので当たり前かも…。

金ヶ崎は、馬の顔のような東の大浦半島に食いつかれそうなニンジンみたいですね。
さらに「外堀」の若狭湾に守られた舞鶴湾は、昔も今も天然の軍事要塞となっている意味がわかります。
だいぶん前、喜多から「舞鶴冨士」と呼ばれている建部山へ登った(車で)ことがあります。山上に石造りの建造物があり、何かと思ったら北を睨む砲台跡でした。

地図に載っていないものをふくめ、高台や岬の先端にはいたるところに戦跡が残されてるようです。
同じ日本海に面した近くの丹後半島は私の故郷ですが、砲台跡はそんなに聞いたことがありません(知らないだけかも?)。やはり舞鶴は明治の時代から軍港、軍事施設の集約された町として守備が固められたんでしょう。

 >コンクリートレンガが敷き詰められた林道にぽんと出た。先ずは三角点に向かう。
 >ところが、電波塔?に着くと作業服を着た人達がいて、ここは自衛隊の敷地なので入ってはいけないとおっしゃる。
 >レンガの道は進入禁止とのことだった。


横波鼻から△480.1への尾根を登ったんですね。いくつかピークがありますが、まとめて「槙山」と呼ぶんでしょうね。
自衛隊がストップ掛けているレンガ道を避けてヤブ漕ぎでも? 北西の山頂との分岐まではOKなのかも?
山頂地帯からの画像、由良川の河口ですね。残念ながらKTRの鉄橋は山影に隠れてます。中央の島のように見えるのは栗田半島のエネ研かな?

 >半島の先端、戦争遺跡の先には、こんなにも素晴らしい巨木の森が展開していたのだ。

忌まわしい戦争遺跡は決して忘れてはいけないと同時に、決して再現・再興させてはならないものですね。いつまでも目に映るものは戦艦でなく巨木の森と広がる海原だけであることを願いたいものです。
        ~淡海の見える山でガマンの、びわ爺
tsubo
記事: 193
登録日時: 2023年3月07日(火) 13:27
お住まい: 和歌山県

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by tsubo »

satoさん、こんばんは。

海を眺める山歩き、私は山から太平洋を見ることが多いです。
特に海を眺めようと思わなくても、突然目に飛び込んでくることがよくあります。

砲台跡の写真を見て、おやっと思いました。
まだ行ったことはないのですが、和歌山の友ヶ島にも似たような砲台跡があるようです。
でも、日本海にある砲台跡ならロシアや中国に対するものだろうけど、和歌山と淡路島の間にある友ヶ島の砲台はどこに対しての物なんだろう。
今までそんなことは考えたこともなかったなあと思いました。
と思って調べたら、明治時代に大阪湾に外国艦隊が入ってくるのを防ぐためのものだったそうです。

satoさんの投稿を見て急に友ヶ島に行ってみたくなりました。
ここは葛城修験の行場でもあるし。

レンガ造りの砲台跡なら自然に溶け込んでいい感じですね。
でも、いつか風力発電とかメガソーラーが遺構となる日も来るのかなあと思うとねえ~~

tsubo
sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by sato »

わりばしさま

こんばんは。
コメントありがとうございます。
わりばしさんがお過ごしになった津市高茶屋町の戦争の歴史を、地図を見ながら読ませていただきました。
海軍工廠、そして特攻隊、南京大虐殺に関わった33連隊の基地があった地にお住まいだったのですね。
今、工業地として発展している地は、少年少女たちが軍事工場で戦争の武器を作らされていた地であり、
多くの若者が戦地に向かっていった地であったのですね。
「軍犬・軍馬の墓」、戦争に利用された犬や馬のお墓ですか。
「軍犬」「軍馬」かなしくやるせない響きですね。
舞鶴にも軍工廠が多く、軍事工場では、
中学生たちが何も知らずに人間魚雷回天の弾頭に火薬を詰め込む作業をしていたことを知りました。

台高山中の乾溜工場も第一次世界大戦時、兵器に使われる無煙火薬の材料のアセトンを製造していたのですね。
戦争の悲惨さ残酷さを体験した人の子孫、戦争を生き延びてきた人の子孫として、今、わたしたちは存在している。
戦争を物語る遺産が、忘れ去られ、土に埋もれてしまうのは、こころに痛みを感じます。

わりばしさんのコメントを読みながら、私も、ちいさな私が戦争のおそろしさを感じた日のことを、
そして祖母と母のことを思い起こしていました。
幼稚園に上がった年、家族で上野公園にお花見に出かけた日のことでした。
たくさんの花見客の間を迷子にならぬよう父の手を握りながら歩いていたのですが、
突然、ぎょっとして心臓が止まりそうになりました。
ゴザの上に坐ってアコーディオンを弾いている茶色っぽい服を着た男の人たちの姿が目を突いたのです。
男の人たちは帽子を深く被っていて顔が見えず、手や足がありませんでした。
「戦争で傷ついた軍人さん」と父が教えてくれました。
「戦争って何?戦争って手や足がなくなっちゃうの?こんな怖ろしい姿になっちゃうの?」
頭の中がぐるぐるして怖くて半べそをかきながら父の手を握りしめていました。
戦後27年経った年に見た光景です。

それから、数年経った年のある日のことです。
大阪のおばあちゃんと呼んでいた母方の祖母が泊まりにきてくれました。
祖母がお風呂に入った時、何の気なしに脱衣所を覗いたら、壁に立てかけられた義足を見てしまいました。
その時、初めて祖母の足が片方無いということを知りました。
「おばあちゃんも戦争で足が無くなってしまったの?」と思いましたが聞くことが出来ませんでした。
聞いてはいけないと思いました。
私には母方の祖母が二人いました。川西のおばあちゃん、大阪のおばあちゃん、と呼んでいました。
川西のおばあちゃんはおじいちゃんと暮らしていましたが、大阪のおばあちゃんはひとりで暮らしていました。
何で母方の祖母が二人いるのか不思議でしたが、このことも聞いてはいけないと感じていました。
大阪のおばあちゃんは、夏と冬には必ず高島屋の包装紙で包まれたお菓子を送ってくれて、
かわいいよそ行きのワンピースやリフォームして作った着物もプレゼントしてくれました。
人見知りゆえ、ほとんどお話が出来なかったのですが、やさしいおばあちゃんが好きでした。

大阪のおばあちゃんが亡くなった時、
「おばあちゃんは、戦中戦後を通して学校の先生を勤め上げた。立派な女性だった」とだけ母は言いました。
それ以上のことは話さず、私も聞きませんでしたが、母の生みの親が大阪のおばあちゃんで、
母のお父さんは戦争で亡くなっていて、女手ひとつで二人の子供を育てるのは大変だろうということで、
母は川西のおじいちゃんおばあちゃんの家の子供として育ったのだと理解しました。
その時に感じた戦争というもののかなしさが、普段は忘れていますが、こころに刻まれていて、
戦争は絶対に嫌だ、そして、たくさんの人達を悲しませた戦争の歴史は忘れてはならないと
痛みを持って感じるのだと思います。

でも、争いが無くなる日は来るのでしょうか。
イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナ・・・毎日ニュースを聞く度にやるせなさに襲われます。
昨年、国家の関与する武力紛争は55もあり、紛争によって亡くなった人は23万8000人にも及んだそうです。
膨大な数でひと括りされていますが、ひとりひとりかけがえのない人生が奪われてしまったのですよね。
そして、えらそうに言っている自分のこころの中にも争いがある。

山旅の話が、戦争、争いの話になってしまいました。

日曜日は、オフ会ですね。
仲間と和やかな時間を過ごせるというのは、ほんとうにしあわせなことなのだなぁ、と思います。
皆さまとお会い出来るのを楽しみにしています。

sato
sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by sato »

山日和さま

こんばんは。
まったく知らない山域?へのコメントありがとうございます。
こんなお山があるのだ、と興味を示してくださりうれしいです。

いきなり話が房総に飛びますが、千葉県最高峰愛宕山の山頂は自衛隊の基地なのですね。
各都道府県の最高峰の中で、最も低い山ということは認識していましたが、自衛隊の基地とは知りませんでした。
調べてみると事前に申請をすると三角点まで行けるそうです。
戦争の時代は軍の基地だったのかなと思いましたが、戦後に在日アメリカ軍が着工し、
7年後に自衛隊に移管されたそうです。
実家のある千葉の歴史や文化は、全く知らないと言っていいくらいに知りません。
最近になって、知りたいという気持ちが芽生えてきました。
愛宕山の歴史をちょこっと知ることが出来ました。ありがとうございます。

城下町、漁港として発展した西舞鶴と、軍港、軍工廠として発展した東舞鶴から成る舞鶴市。
一昨年、成生岬で砲台跡に出会い、舞鶴の戦争の歴史を知りたくなりました。
舞鶴湾が軍港として発展したのは、四方を400mの山に囲まれ、海岸線が複雑に入り組み、
出入り口が700mと狭く、天然の要害としての役割も果たしていたからなのですね。
砲台は、湾の出入り口の金ケ岬側には金岬砲台と槙山砲台が、博奕岬側には葦谷砲台と浦入砲台が配置されていました。
成生岬砲台は、昭和9年に金岬砲台を撤去した後に設置された砲台と知りました。

私は、人の手によって作り出された物の痕跡を見ると、その労働に携わった人に思いを巡らせてしまいます。
「富国強兵の時代、ロシアの来襲に備え守りを固める」その一念で人々は働いていたと山日和さんは思われるのですね。
人間の意識というものは、時代のうねりや力によって変えられてしまうものですものね。

かなしかったりやるせなかったりする現実を前にすると、私は何にも知らない、知ることが出来ない、と思ってしまいます。
でも、そうですね。知ろうとすることは出来ますね。想像し寄り添うことは出来ますね。

ちいさな半島に、こんなにも素晴らしい巨木の森が展開しているとは驚きでした。
予期せぬ風景との出会いは山旅の醍醐味ですね。
先端への山旅は、どこまで進めるかなというワクワクドキドキ感もたまりません。
地図を読む愉しさ、想像し創造する山旅の愉しさを、Kさんは、いつも感じさせてくださいます。
「見るというのはいたって簡単な行為であるが、その見方には無限のひろがりと深さがある」
という宮本常一の言葉がからだの中に響き渡ります。
山登りは、ほんとうに深く面白いですね。

sato
sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by sato »

びわ爺さま

こんばんは。
オフ会への道中お話出来てうれしかったです。ダイラの頭は出会いの場ですね。
毎回ヤブこぎの方々にお会いして、これからオフ会が始まるのだ、というワクワクドキドキの気持ちが高まります。
びわ爺さんとは以前にもここでお会いしましたね。

丹後はびわ爺さんのふるさとですね。
丹後半島はいつかゆっくりと巡りたいと思い続けている地です。
槙山の展望地から丹後半島を眺めていたのですが、山腹に広がる田畑に目が吸い寄せられていきました。
上世屋という集落があるのですね。
成相寺奥の院の伝承を持つうつくしい棚田が広がる古くからある集落と知り、是非訪れたくなりました。

「金ケ崎は、馬の顔のような東の大浦半島に食いつかれそうなニンジンのよう」
えっ?地図で確認しました。なるほど。成生岬が耳で大丹生川が口ですね。
そういえば、常神半島は「御神島に噛みつこうとする怪鳥」でしたね。びわ爺さんのゆたかな想像の世界に魅せられます。
言葉遊びにも。若者言葉、略語もサラリと使われますね。「超エモ体験」ってどういう意味?
びわ爺さん、こころは「びわ坊」ですね(笑)

建部山は富士山のようなうつくしい形のお山ですね。そして、このうつくしいお山の上に怖ろしい砲台が設置されたのですね。
地図をコピーして砲台があった場所に印を入れたのですが、当時の日本にとってロシアがどれだけの脅威だったか感じさせられました。
明治から終戦まで、徴兵制もあったのですよね。台湾、朝鮮の人たちも日本軍に従事していた。
戦争遺跡を見て、私たちの国が関わった戦争についていろいろ考えさせられました。

私たちが登ったルートは、そうです。△480.1の尾根です。最初こそ荒れた植林でしたが、歩きやすい雑木林の尾根でした。
△480・1直下から槙山砲台跡までは、レンガ道を下らせていただき、一般林道に出て登って行きました。

山頂からの写真、集落と集落との間の水流が由良川の河口です。
白い建物、宮津エネルギー研究所が建っている半島が栗田半島です。
KTR?京都丹後鉄道のことですね。そう、由良川の河口に橋が架かっていますね。
槙山からはちょうど山の影になってしまい見えませんが、由良ケ岳の山頂から全景を楽しめます。
由良ケ岳も素敵なお山です。『海をながめる山歩き』を読み、再訪したくなりました。

「忌々しい戦争遺跡は決して忘れてはいけないと同時に、決して再現、再興させてはならないもの」ほんとうにそう思います。
戦争は怖ろしいです。絶対に嫌です。でも、今、私がお山を楽しんでいる、その時、恐怖に怯えている人たちがたくさんいる。
武器を持って戦っている人たちがいる。争いに加担している人たちがいる。
私の中でも争いが起こる。平和って難しいと悲しくなります。それでも、平和を願うこころを強く持ちたいです。

びわ爺さん、コメントありがとうございました。
うれしかったのに、お返事が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

sato
sato
記事: 422
登録日時: 2019年2月13日(水) 12:55

Re: 【丹後】 先端への山旅 舞鶴の海をながめる山歩きで見た風景

投稿記事 by sato »

tsuboさま

こんばんは。
日曜日は、オフ会にご一緒出来てうれしかったです。
先週の水曜日にコメントを下さったのに、お返事がすっかり遅くなってしまいすみません。

南紀にお住いのtsuboさんは、海といえば太平洋がお浮かびですよね。
そうですね。私も、海を眺めようと思わなくても、突然目に飛び込んでくることがよくあります。
オフ会の前日に登ったお山からも、不意に伊勢湾が目に飛び込み「あっ、海」と見入ってしまいました。
登った山から海が見えると、それだけでうれしくなります。ドキドキします。海って不思議ですね。

友ヶ島の砲台跡は、『海をながめる山歩き』に紹介されていますね。
写真を見ると、戦争遺跡というより、どこかの国の中世のうつくしい町跡のような感じを受けました。
戦争中、本土を守るための要塞となり、一般人は立ち入ることが出来ず、地形図からも抹消されていた島は、
平和が当たり前のように思われている今は、「ラピュタの島」として多くの観光客でにぎわっていると聞きました。

そう、友ヶ島は葛城修験の行場もありますね。役行者が最初に修行を積んだといわれるのが葛城の峰々。
28の行場に経典を埋めたと伝えられ、その始まりが友ヶ島なのですね。
修験道というと山岳修行が浮かびますが、日本人にとって山と海は、神々が御座す神聖な場所。
台高の山々を源とし、和泉山脈からの水を集めて海に注ぐ紀の川。
和泉山脈を紀の川の流れに沿って西に向かっていくと海を隔てて友ヶ島が目の前に。
海に浮かぶ断崖で囲まれた島は聖なる地として遥拝されていたのだなぁと感じます。
行場の虎島は、修験者の案内がなければ訪れることが出来ないそうですね。
友ヶ島へは、私も、いつか訪れたいなと思っています。

残酷な戦争を物語る砲台跡ですが、そうなのです、時を経て「自然に溶け込んでいい感じ」に思えたり。
人間が起こした暗い歴史も、負の建造物も、お山は静かに大きく包み込んでいました。
でも、巨大な風力発電はどうなのでしょうね。風力発電の寿命は20年。撤去は出来るけれど膨大な費用がかかります。
跡地は、いつか健やかな森へと戻るのでしょうか。
また、いろいろ考えて始めてしまいました。

sato
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