【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

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わりばし
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【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by わりばし » 2018年12月26日(水) 17:30

【日 付】2018年12月25日(火)
【山 域】台高
【コース】菅谷駐車場7:44---12:16赤嵓滝谷乾留工場13:25---15:33菅谷駐車場
【メンバー】単独

 天候に恵まれたクリスマスの日に2年ぶりに赤嵓滝谷乾留工場に出かけた。残り香のような霧氷をながめ狸水に立ち寄ったりしながらのんびりと赤嵓滝谷の奥の三俣を目指す。

1394標高点の南にあるコルから下る。谷をそのまま下ると滝に突き当たり行き詰ってしまうので左の尾根に向かってトラバースしていく。嵓を巻くまでは急な下りだがここを越えるとゆるやかな広い尾根にかわるのんびりと尾根芯をはずさないように下ると赤嵓滝谷の三俣にあった乾留工場の飯場跡に着く。

 飯場跡にはビールやサイダー、日本酒の瓶や茶碗などの陶磁器がたくさん落ちている。サクラビールや大日本ビールなど当時は高価だったビール瓶が多く日本酒の貧乏徳利は少しだ。大正時代に繁栄を極め短期間で使われなくなっただけに、サクラビール瓶や三ツ矢サイダーの瓶底にエンボスのある瓶など大正時代の物がそのまま残っており大正時代にタイムスリップした感覚になる。以前はあった割れていない瓶は持っていかれたようで無かった。

 対岸には乾留工場跡があり無数の手びねりの土管に耐熱レンガがある。ここの耐熱レンガは「SHINAGAWA」「IGA―BATA」「RENSEKISHA」「BIZEN-INBE」の物が使われている。あらためて見てみて蒸留に使われた土管の数には驚かされる。「これだけ大量の物資が赤嵓滝を越えたとは考えにくいが、それではどこから運んだのだろう。」という2年前の宿題を思い出した。



【歴史的背景】
 当時、酢酸は飲料や染め物剤として使われていた。最初はイギリス・ドイツから輸入していたが第1次世界大戦により輸出停止となる。アメリカから原料の酢酸石灰を輸入していたが、最新兵器無煙火薬の材料アセトンの抽出の原料でもあるために輸出が制限され価格が高騰した。瞬く間に全国で木炭噴煙利用の酢酸石灰製造が広まりその工場が木材乾留工場になる。
(大正5年 中外商業新報「酢酸工業盛況」による)

【酢酸石灰製造者】
 経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だった。青田に6つの乾留工場、蓮(千石)に5つの乾留工場を持っていた。当時無尽蔵といわれた豊富な原生林を使い木材乾留し、出てきた溶液に石灰を入れ酢酸石灰として出荷した。蓮には千石谷右岸に本社がありここに第1工場、喜平小屋谷出合に第3工場、赤嵓滝谷の赤嵓滝上に第4工場、赤嵓滝谷奥の三俣に第5工場があり第5工場が最大だと思われる。第2工場は確認できていない。飯高の乾留工場に残されたビール瓶は、鈴木商店傘下のサクラビールのものが多い。



 赤嵓滝谷は沢登りの対象となる谷で険しい。目の前に広がる大量の資材をどうやって運んだのだろうか。「蓮の場合は山中の工場から人の背や肩により清瀬まで運んだ。」と飯高町史には書かれている。中俣を遡行した際も中俣と左俣の間の尾根を上った際もそのような痕跡は見られなかった。当時よく使われていた瀬戸越の道につなげる事を考えると残るのは乾留工場のある右岸の尾根しかない。

 直接取りつくのは難しそうなので、小谷から巻いた。見た目とは違い歩きやすい。微妙に段差のようなものがあり九十九折れの道跡だ。この状態は1240m付近まで続いた。広い場所を過ぎ尾根をそのまま進むと大きな嵓が立ちはだかっており、これは難しい。広い場所まで戻り道跡を追うと、谷にトラバースするように続いていた。その先は道が落ちていてたどれなかったが古道の目印の大木が残されており、谷をトラバースした先には瀬戸越の尾根が見えていた。道型からして、乾留工場から瀬戸越につないだ道と考えていいだろう。というかここしか運べる場所はない。上った尾根の道型を追って下ると谷までスムーズに下れ、左岸に渡りそのまま上ると飯場跡だった。

 帰りは木材の運搬路の痕跡を求めて飯場跡から東よりに尾根を進むと広い土場に出た。ここには溝道と掘割とおもわれる地形が残っており、土場からは広い尾根が続いていた。掘割の向こうには谷に下りていく溝があり、赤嵓滝の上にある小規模な乾留工場につながっていた道だったようだ。ここからはゆるやかな広い傾斜横の尾根を上る。歩きやすくここを人は使ったのかもしれない。嵓地帯も獣道を追うとスムーズに抜けられその先は九十九折れの道のようだ。1320m地点で木馬道が東側からきていた。嵓を越えるあたりは急なので修羅で木材を落としたようだ。

 蓮の土場だった夫婦滝駐車場から桧塚の下部まで木馬道がつながっており今でもたどれる。ここからヌタハラ谷を回り込みながら1359標高点下部につき、再び赤嵓滝谷側に回り込むように木馬道がつけられ今回上ってきた幅広の斜面を修羅で三俣の土場に落としたのだろう。桧塚下部以降も木馬道の痕跡は所々で残っている。この木馬道を使って蓮周辺の原生林の木材を運んだのだろう。

 赤嵓滝谷乾留工場からの物資や人の流れた道と木材の搬出道の目途がつき整備されたマナコ谷登山道をひたすら下った。

 乾留工場は第1次世界大戦が終わり戦争特需が終息したのとアセトンの代用品が出来たことで酢酸の輸入が再開され急激に需要が無くなり人の記憶からも消えていった。


添付ファイル
IMG_2455.JPG
IMG_2467.JPG
蓮第5工場
IMG_2470.JPG
つながったままの土管
IMG_2481.JPG
瀬戸越にトラバースする目印の木
IMG_2490.JPG
修羅の斜面
最後に編集したユーザー わりばし on 2018年12月29日(土) 11:49 [ 編集 1 回目 ]

雨子庵
記事: 393
登録日時: 2011年10月12日(水) 19:40
住所: 名古屋(ときどき青田(飯高))

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by 雨子庵 » 2018年12月27日(木) 19:11

わりばしさん おひさです
あめちゃんです

乾留、ナカナカサボっててすいません。
楽しく読ませていただきました。

1394標高点の南にあるコルから下る。谷をそのまま下ると滝に突き当たり行き詰ってしまうので左の尾根に向かってトラバースしていく。嵓を巻くまでは急な下りだがここを越えるとゆるやかな広い尾根にかわるのんびりと尾根芯をはずさないように下ると赤嵓滝谷の三俣にあった乾留工場の飯場跡に着く。
先日、恥ずかしながらこのコルまでやっと到達しました。

大正時代に繁栄を極め短期間で使われなくなっただけに、サクラビール瓶や三ツ矢サイダーの瓶底にエンボスのある瓶など大正時代の物がそのまま残っており大正時代にタイムスリップした感覚になる。以前はあった割れていない瓶は持っていかれたようで無かった。
そこにいると、当時のヒトの声も聞こえてきそう
『どっからきたんやぁ?』

 対岸には乾留工場跡があり無数の手びねりの土管に耐熱レンガがある。ここの耐熱レンガは「SHINAGAWA」「IGA―BATA」「RENSEKISHA」「BIZEN-INBE」の物が使われている。あらためて見てみて蒸留に使われた土管の数には驚かされる。

どこかにも書きましたが、「手びねり土管」、鑑定の結果常滑産で間違いないそうです。

飯高の乾留工場に残されたビール瓶は、鈴木商店傘下のサクラビールのものが多い。
山で暮らしてた地元のヒトは飲んだことも見たことないような・・・

広い場所まで戻り道跡を追うと、谷にトラバースするように続いていた。その先は道が落ちていてたどれなかったが古道の目印の大木が残されており、谷をトラバースした先には瀬戸越の尾根が見えていた。道型からして、乾留工場から瀬戸越につないだ道と考えていいだろう。というかここしか運べる場所はない。

古道がビンゴすると、イニシエのヒトと心がシンクロする瞬間が

 帰りは木材の運搬路の痕跡を求めて飯場跡から東よりに尾根を進むと広い土場に出た。ここには溝道と掘割とおもわれる地形が残っており、土場からは広い尾根が続いていた。掘割の向こうには谷に下りていく溝があり、赤嵓滝の上にある小規模な乾留工場につながっていた道だったようだ。ここからはゆるやかな広い傾斜横の尾根を上る。歩きやすくここを人は使ったのかもしれない。嵓地帯も獣道を追うとスムーズに抜けられその先は九十九折れの道のようだ。1320m地点で木馬道が東側からきていた。嵓を越えるあたりは急なので修羅で木材を落としたようだ。

つい先日、オジヤンと、乾留のつけた木馬道の話題になりました
『乾留の木馬道は変わっとる。急なところに行くと、スッと無くなる。これは無くなるんじゃなくて、そこから木を転がして(私は修羅のことだと思いますが)下におろす。またそこから木馬道が続く。だから乾留の道は途中で無くなることが多い』そうです。

 蓮の土場だった夫婦滝駐車場から桧塚の下部まで木馬道がつながっており今でもたどれる。ここからヌタハラ谷を回り込みながら1359標高点下部につき、再び赤嵓滝谷側に回り込むように木馬道がつけられ今回上ってきた幅広の斜面を修羅で三俣の土場に落としたのだろう。桧塚下部以降も木馬道の痕跡は所々でっている。この木馬道を使って蓮周辺の原生林の木材を運んだのだろう。
これもムカシオジヤンと辿ったこと(教えてもらったこと)があります。ヌタハラからの木馬道は桧塚奥峰の西側、緩やかな草原をチョイ降りこんだところまで確実に来ています。そこから先(ヒキウス平方面)ははっきりしないみたいですが・・・。残っている木馬道には、木馬道には珍しく折り返しがあり、オジヤンは『ここがヘヤピンになっとる、珍しいところ』と教えてくれました。

 赤嵓滝谷乾留工場からの物資や人の流れた道と木材の搬出道の目途がつき整備されたマナコ谷登山道をひたすら下った。
ゴメンナサイ、さぼってて :oops:

 乾留工場は人の記憶からも消えていった。

オジヤンは自分が体験したように語ってくれます :mrgreen:
青田でも、物資輸送で儲けたり、それらのまとめ役(親方)が出てきたり、かなりの特需だったそうです。

あめちゃん

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わりばし
記事: 1261
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
住所: 三重県津市

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by わりばし » 2018年12月28日(金) 07:18

おはようございます、雨子庵さん。

乾留、ナカナカサボっててすいません。
楽しく読ませていただきました。

万人受けするレポではないのですが、記録として残してたいなと思いアップしました。


1394標高点の南にあるコルから下る。谷をそのまま下ると滝に突き当たり行き詰ってしまうので左の尾根に向かってトラバースしていく。嵓を巻くまでは急な下りだがここを越えるとゆるやかな広い尾根にかわるのんびりと尾根芯をはずさないように下ると赤嵓滝谷の三俣にあった乾留工場の飯場跡に着く。

先日、恥ずかしながらこのコルまでやっと到達しました。

三俣には行ってみてください。テン泊にいい所です。

大正時代に繁栄を極め短期間で使われなくなっただけに、サクラビール瓶や三ツ矢サイダーの瓶底にエンボスのある瓶など大正時代の物がそのまま残っており大正時代にタイムスリップした感覚になる。以前はあった割れていない瓶は持っていかれたようで無かった。

そこにいると、当時のヒトの声も聞こえてきそう
『どっからきたんやぁ?』

山中に残された不思議な空間としか言いようがないですね。


 対岸には乾留工場跡があり無数の手びねりの土管に耐熱レンガがある。ここの耐熱レンガは「SHINAGAWA」「IGA―BATA」「RENSEKISHA」「BIZEN-INBE」の物が使われている。あらためて見てみて蒸留に使われた土管の数には驚かされる。


どこかにも書きましたが、「手びねり土管」、鑑定の結果常滑産で間違いないそうです。

貴重な手びねり土管です。常滑まで行って確認してもらったんでしたよね。 :ugeek:

IMG_2474.JPG
手びねり土管の四俣

飯高の乾留工場に残されたビール瓶は、鈴木商店傘下のサクラビールのものが多い。

山で暮らしてた地元のヒトは飲んだことも見たことないような・・・

イギリスの技師も数人いたようで、上層部のみ飲んでいたのかも?
地元の人は当時あった森の「馬車万」という居酒屋で飲んでいたんだろうな。

IMG_2461.JPG
飯場の生活痕

広い場所まで戻り道跡を追うと、谷にトラバースするように続いていた。その先は道が落ちていてたどれなかったが古道の目印の大木が残されており、谷をトラバースした先には瀬戸越の尾根が見えていた。道型からして、乾留工場から瀬戸越につないだ道と考えていいだろう。というかここしか運べる場所はない。

古道がビンゴすると、イニシエのヒトと心がシンクロする瞬間が

よくぞ九十九折道が残ってくれていました。尾根道だったからだろう。

IMG_2483.JPG
トラバースしていく道跡

 帰りは木材の運搬路の痕跡を求めて飯場跡から東よりに尾根を進むと広い土場に出た。ここには溝道と掘割とおもわれる地形が残っており、土場からは広い尾根が続いていた。掘割の向こうには谷に下りていく溝があり、赤嵓滝の上にある小規模な乾留工場につながっていた道だったようだ。ここからはゆるやかな広い傾斜横の尾根を上る。歩きやすくここを人は使ったのかもしれない。嵓地帯も獣道を追うとスムーズに抜けられその先は九十九折れの道のようだ。1320m地点で木馬道が東側からきていた。嵓を越えるあたりは急なので修羅で木材を落としたようだ。

つい先日、オジヤンと、乾留のつけた木馬道の話題になりました
『乾留の木馬道は変わっとる。急なところに行くと、スッと無くなる。これは無くなるんじゃなくて、そこから木を転がして(私は修羅のことだと思いますが)下におろす。またそこから木馬道が続く。だから乾留の道は途中で無くなることが多い』そうです。

こういう裏付けの証言は貴重です。今のうちにオジヤンに聞いておかないと・・

 蓮の土場だった夫婦滝駐車場から桧塚の下部まで木馬道がつながっており今でもたどれる。ここからヌタハラ谷を回り込みながら1359標高点下部につき、再び赤嵓滝谷側に回り込むように木馬道がつけられ今回上ってきた幅広の斜面を修羅で三俣の土場に落としたのだろう。桧塚下部以降も木馬道の痕跡は所々でっている。この木馬道を使って蓮周辺の原生林の木材を運んだのだろう。

これもムカシオジヤンと辿ったこと(教えてもらったこと)があります。ヌタハラからの木馬道は桧塚奥峰の西側、緩やかな草原をチョイ降りこんだところまで確実に来ています。そこから先(ヒキウス平方面)ははっきりしないみたいですが・・・。残っている木馬道には、木馬道には珍しく折り返しがあり、オジヤンは『ここがヘヤピンになっとる、珍しいところ』と教えてくれました。

1359標高点下部のあたりは残っていて、ヘアピンです。

 赤嵓滝谷乾留工場からの物資や人の流れた道と木材の搬出道の目途がつき整備されたマナコ谷登山道をひたすら下った。

ゴメンナサイ、さぼってて :oops:

そろそろ本業を頑張らないと。

 乾留工場は人の記憶からも消えていった。

オジヤンは自分が体験したように語ってくれます :mrgreen:
青田でも、物資輸送で儲けたり、それらのまとめ役(親方)が出てきたり、かなりの特需だったそうです。

危険を伴う筏流しの日雇い賃が30銭が相場だったころ
乾留工場が1円
搬出の手車引きが2円20銭という相場でした。

1ヶ月最高102円も手車引きでかせいだ人もいたようです。


SHIGEKI
記事: 652
登録日時: 2011年7月25日(月) 18:30

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by SHIGEKI » 2018年12月28日(金) 21:22

わりばしさん こんばんは。

【日 付】2018年12月25日(火)
【山 域】台高
【コース】菅谷駐車場7:44---12:16赤嵓滝谷乾留工場13:25---15:33菅谷駐車場
【メンバー】単独

 天候に恵まれたクリスマスの日に2年ぶりに赤嵓滝谷乾留工場に出かけた。残り香のような霧氷をながめ狸水に立ち寄ったりしながらのんびりと赤嵓滝谷の奥の三俣を目指す。

浅学の不肖Sには 訳分からん話でコメントのしようがありません。

1394標高点の南にあるコルから下る。谷をそのまま下ると滝に突き当たり行き詰ってしまうので左の尾根に向かってトラバースしていく。嵓を巻くまでは急な下りだがここを越えるとゆるやかな広い尾根にかわるのんびりと尾根芯をはずさないように下ると赤嵓滝谷の三俣にあった乾留工場の飯場跡に着く。

そもそも「乾留」?? これは日本の常識ですか~ :mrgreen:

調べても?? ようは 蒸し焼き?

 飯場跡にはビールやサイダー、日本酒の瓶や茶碗などの陶磁器がたくさん落ちている。サクラビールや大日本ビールなど当時は高価だったビール瓶が多く日本酒の貧乏徳利は少しだ。大正時代に繁栄を極め短期間で使われなくなっただけに、サクラビール瓶や三ツ矢サイダーの瓶底にエンボスのある瓶など大正時代の物がそのまま残っており大正時代にタイムスリップした感覚になる。以前はあった割れていない瓶は持っていかれたようで無かった。

この話は何年か前のわりばしさんrepで読んだ気がします。


【歴史的背景】
 当時、酢酸は飲料や染め物剤として使われていた。最初はイギリス・ドイツから輸入していたが第1次世界大戦により輸出停止となる。アメリカから原料の酢酸石灰を輸入していたが、最新兵器無煙火薬の材料アセトンの抽出の原料でもあるために輸出が制限され価格が高騰した。瞬く間に全国で木炭噴煙利用の酢酸石灰製造が広まりその工場が木材乾留工場になる。
(大正5年 中外商業新報「酢酸工業盛況」による)

【酢酸石灰製造者】
 経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だった。青田に6つの乾留工場、蓮(千石)に5つの乾留工場を持っていた。当時無尽蔵といわれた豊富な原生林を使い木材乾留し、出てきた溶液に石灰を入れ酢酸石灰として出荷した。蓮には千石谷右岸に本社がありここに第1工場、喜平小屋谷出合に第3工場、赤嵓滝谷の赤嵓滝上に第4工場、赤嵓滝谷奥の三俣に第5工場があり第5工場が最大だと思われる。第2工場は確認できていない。飯高の乾留工場に残されたビール瓶は、鈴木商店傘下のサクラビールのものが多い。

老化した頭は受け付けませんわ。 :roll:


 赤嵓滝谷乾留工場からの物資や人の流れた道と木材の搬出道の目途がつき整備されたマナコ谷登山道をひたすら下った。

それはよかった!!

頭と体 しっかり回転させ、納得して気持ちもすっきり いい一日でしたね~

          SHIGEKI




 

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わりばし
記事: 1261
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
住所: 三重県津市

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by わりばし » 2018年12月29日(土) 08:29

おはようございます、SHIGEKIさん。

浅学の不肖Sには 訳分からん話でコメントのしようがありません。


マニアックなレポにコメントしてもらいありがとうございます。 :mrgreen:

IMG_2459.JPG

1394標高点の南にあるコルから下る。谷をそのまま下ると滝に突き当たり行き詰ってしまうので左の尾根に向かってトラバースしていく。嵓を巻くまでは急な下りだがここを越えるとゆるやかな広い尾根にかわるのんびりと尾根芯をはずさないように下ると赤嵓滝谷の三俣にあった乾留工場の飯場跡に着く。

そもそも「乾留」?? これは日本の常識ですか~ :mrgreen:

調べても?? ようは 蒸し焼き?


最近ホームセンターなんかで見かける木酸液から酢酸を抽出する感じです。
第1次世界大戦で当時めちゃもうかったようです。

IMG_2471.JPG
乾留の沢

 飯場跡にはビールやサイダー、日本酒の瓶や茶碗などの陶磁器がたくさん落ちている。サクラビールや大日本ビールなど当時は高価だったビール瓶が多く日本酒の貧乏徳利は少しだ。大正時代に繁栄を極め短期間で使われなくなっただけに、サクラビール瓶や三ツ矢サイダーの瓶底にエンボスのある瓶など大正時代の物がそのまま残っており大正時代にタイムスリップした感覚になる。以前はあった割れていない瓶は持っていかれたようで無かった。

この話は何年か前のわりばしさんrepで読んだ気がします。


すばらしい見抜きましたね。
ここは大部分何年か前のレポをコピペしました。 8-)

IMG_2502.JPG
サクラビールのビール瓶

【歴史的背景】
 当時、酢酸は飲料や染め物剤として使われていた。最初はイギリス・ドイツから輸入していたが第1次世界大戦により輸出停止となる。アメリカから原料の酢酸石灰を輸入していたが、最新兵器無煙火薬の材料アセトンの抽出の原料でもあるために輸出が制限され価格が高騰した。瞬く間に全国で木炭噴煙利用の酢酸石灰製造が広まりその工場が木材乾留工場になる。
(大正5年 中外商業新報「酢酸工業盛況」による)

【酢酸石灰製造者】
 経営者は神戸の鈴木よねで、当時三菱・三井を凌駕するといわれた巨大コンツェルン鈴木商店だった。青田に6つの乾留工場、蓮(千石)に5つの乾留工場を持っていた。当時無尽蔵といわれた豊富な原生林を使い木材乾留し、出てきた溶液に石灰を入れ酢酸石灰として出荷した。蓮には千石谷右岸に本社がありここに第1工場、喜平小屋谷出合に第3工場、赤嵓滝谷の赤嵓滝上に第4工場、赤嵓滝谷奥の三俣に第5工場があり第5工場が最大だと思われる。第2工場は確認できていない。飯高の乾留工場に残されたビール瓶は、鈴木商店傘下のサクラビールのものが多い。

老化した頭は受け付けませんわ。 :roll:


鈴木商店の事は鈴木商店記念館のサイトを見てください。

www.suzukishoten-museum.com/

ドラマになった「お家さん」の事です。
鈴木よねー天海祐希、金子直吉ー小栗旬がやっていました。

 赤嵓滝谷乾留工場からの物資や人の流れた道と木材の搬出道の目途がつき整備されたマナコ谷登山道をひたすら下った。

それはよかった!!

頭と体 しっかり回転させ、納得して気持ちもすっきり いい一日でしたね~
 

 
ありがとうございます。
雪が無かったのが幸いでした。



yamaneko0922
記事: 50
登録日時: 2018年11月20日(火) 06:39

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by yamaneko0922 » 2018年12月29日(土) 15:35

わりばしさん

圧倒的な蘊蓄のレポ、大変、興味深く拝読させて頂きました。ドキュメンタリーと山行記録の面白さが交差する作品、非常に魅力的ですね。
当時の日銭のことまで、どこでそんな知識が手に入るのか、興味があります。
乾留に関して、もしも簡単に入手可能な参考文献なり書籍があるようでしたら教えて頂けないでしょうか。

piccolo
記事: 70
登録日時: 2015年2月14日(土) 13:41
住所: 奈良県宇陀市

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by piccolo » 2018年12月29日(土) 18:32



わりばしさん、おこんばんは~(=^^=)

天候に恵まれたクリスマスの日に2年ぶりに赤嵓滝谷乾留工場に出かけた。残り香のような霧氷をながめ狸水に立ち寄ったりしながらのんびりと赤嵓滝谷の奥の三俣を目指す。

2年前と言えば、秋にマナコ谷道の小屋でバッタリ遭遇した時ですね。

1394標高点の南にあるコルから下る。谷をそのまま下ると滝に突き当たり行き詰ってしまうので左の尾根に向かってトラバースしていく。嵓を巻くまでは急な下りだがここを越えるとゆるやかな広い尾根にかわるのんびりと尾根芯をはずさないように下ると赤嵓滝谷の三俣にあった乾留工場の飯場跡に着く。

もし…もしですけど、奈良側からでしたら明神岳から派生する南東尾根使えばいいかな?と思っています、が帰りの200m登り返ししんどそ~(>_<)

以前はあった割れていない瓶は持っていかれたようで無かった。

 他にも訪れる方がいるのですか!!!

対岸には乾留工場跡があり無数の手びねりの土管に耐熱レンガがある。ここの耐熱レンガは「SHINAGAWA」「IGA―BATA」「RENSEKISHA」「BIZEN-INBE」の物が使われている。あらためて見てみて蒸留に使われた土管の数には驚かされる。「これだけ大量の物資が赤嵓滝を越えたとは考えにくいが、それではどこから運んだのだろう。」という2年前の宿題を思い出した。

SHINAGAWAしか見たことないですぅ。

その先は道が落ちていてたどれなかったが古道の目印の大木が残されており、谷をトラバースした先には瀬戸越の尾根が見えていた。道型からして、乾留工場から瀬戸越につないだ道と考えていいだろう。というかここしか運べる場所はない。上った尾根の道型を追って下ると谷までスムーズに下れ、対岸に渡りそのまま上ると飯場跡だった。

笹ヶ峰から千石林道へ下る時、瀬戸越道をかすめた事ありましたが乾留工場からも繋がっていたとは驚き~、かなり厳しそうな道だったのでしょうね。


では、よいお年を。
piccolo

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わりばし
記事: 1261
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
住所: 三重県津市

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by わりばし » 2018年12月30日(日) 08:09

おはようございます、やまねこさん。

当時の日銭のことまで、どこでそんな知識が手に入るのか、興味があります。
乾留に関して、もしも簡単に入手可能な参考文献なり書籍があるようでしたら教えて頂けないでしょうか。

当時の木材乾留工場の文献は無いですね。
第1次世界大戦の間の数年間の事なので忘れ去られたか・・
武器につながるアセトンがからんでいるのであえて歴史から消したか・・かなと思っています。

全国各地に出来たようで、宮沢賢治の童話にも出てきます。
「ポラーノの広場」では、乾留工場・乾留会社・アセトンなどの言葉もあります。
童話の中では乾留工場跡で密造酒を造る設定になっています。

県内でも乾留の産業遺跡がしっかり残っているのにまったくふれていない所もありますが
飯高町史にはしっかり載っています。
「鈴木よね」が「鈴木たま」と間違っていたり、青田の乾留工場が5つと記載されていたりと間違いもありますが、おおむね信頼できると思います。
日銭は町史に載っています。

運搬経路の記述は「蓮の場合は山中の工場から人の背や肩により清瀬のかねつるまで運び、そこから荷車で森へ輸送していた。近隣に聞こえた素封家小倉吉右衛門も運輸部門を設け、森から宮前へと製品を輸送していたそうである。」です。

IMG_2466.JPG

乾留工場が閉じた理由のひとつに「経営者の取引銀行であった台湾銀行のの倒産に関係があると言われていましたが・・」と昭和金融恐慌時に鈴木商店が倒産した理由にもふれられていました。

最後にこうとじています。
「いずれにしてもはかない命であった。同時に運送業者は廃業、従業員は家に帰り、馬車万は店を閉じ、よそから働きに来ていた人々は去り、蓮の盆踊りも昔の静けさに返った。当時を懐かしんで、『乾留工場が続いていたら、飯高町はもっと開けた町になっていたやろな・・』と、古老がつぶやいていた。


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通風山
管理人
記事: 901
登録日時: 2011年2月11日(金) 08:12
住所: 愛知県常滑市

Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by 通風山 » 2018年12月30日(日) 11:27

わりばしさん、こんにちは。
年も迫ってきましたが、たまにはレスもしないと年が越せないので書き込みます。
手びねり土管ですが、実は我が家の作の可能性があります。
〇にAのマークはなかったですか?愛知陶管、〇にTであれば常滑陶管が商社となります。
もう既に常滑では陶管を制作しているところは一軒もありません。
昭和中期にオイルショックで燃料費の高騰でことごとく廃業に押しやられました。
当時は土管の等級はペンキのハンコでポンポン押しておりました。
検査官が土管をたたいてその響きで焼き具合を調べ、変形、形状等を目視するといういたって簡単な検査方法で、私が小中学生のころハンコを検査員の言われるままポンポンと押していたのを思い出します。
ペンキのマークですから消えてしまっているかもしれません。
後期になると生産者の刻印も入れるようになりましたが、時代的に無地のものかなと思います。
かなり前にまとめた我が家のかつての製陶所のサイトを叔父の藤井英男に頼まれて作成しました。
祖父と父がやっていた常滑の製陶所です。こんな感じで陶管も焼いておりました。ご参考までに。
http://www.geocities.jp/tokonamecity/index.html

       つう
通風山

グー(伊勢山上住人)
記事: 1672
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:10
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Re: 【台高】赤嵓滝谷乾留工場の人や物資・木材はどこから来たのか

投稿記事 by グー(伊勢山上住人) » 2018年12月30日(日) 11:38

わりばしさん、こんにちは。
あめちゃんに茶々を入れたいのだけどその前に。

蓮(千石)に5つの乾留工場を持っていた。
蓮に本社第1工場、喜平小屋谷出合に第3工場、赤嵓滝上に第4工場、三俣に第5工場
第2工場は確認できていない。


グーは学術的考察には疎いですがこの文面を読むと第2工場は喜平小屋谷二俣下の左岸の植林の中じゃないですか?

viewtopic.php?f=4&t=220

当時よく使われていた瀬戸越の道につなげる事を考えると残るのは乾留工場のある右岸の尾根しかない。
直接取りつくのは難しそうなので、小谷から巻いた。


どの小谷を指しているのか判断できません。

微妙に段差のようなものがあり九十九折れの道跡だ。この状態は1240m付近まで続いた。

えらく高くまで登るのですね。
瀬戸越の道から赤嵓滝を巻くのだったらCo1000から1050の間に道があったとグーは推測します。



                               グー(伊勢山上住人)


わぁ~! 通さん、生きとった!!

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