【鈴鹿】炭焼きの里時山をめぐる旅 毘沙門谷・阿蘇谷(ダイラ)
Posted: 2018年11月12日(月) 13:21
【日 付】2018年11月11日(日)
【山 域】鈴鹿
【コース】ゲート駐車場7:10---7:33毘沙門谷出合------10:00ダイラ13:00---14:00時山文化伝承館---14:55ゲート駐車場
【メンバー】山日和さん、草川さん、中西さん、わりばし(途中から単独)
時山というと囲炉裏を囲む家族の写真が浮かぶ。囲炉裏の上にもち焼き網、湯飲茶椀を入れた木箱がつるしてあり、炭焼きの村の家族のだんらんの様子が写っている。1500町歩(約1500ヘクタール)の山林にシデ、カシ、カエデなど炭焼きに適した木が多くあり、昔は1年を通して炭を焼いていた。地元の方が五僧のあたりまで焼きに行っていたと言っていたので時山集落が広範囲に炭焼き窯を設置していたことがわかる。
こうした村の昔の営みを感じられれないいなと時山に向かった。阿蘇谷登山口駐車場で準備していると山日和さん達も到着した。「山登りはこんなにも面白い」の著者の草川さんと中西さんも一緒だ、毘沙門谷を詰めるようなのでご一緒させてもらった。実をいうと谷の出合までの40分の歩きがおっくうで1台車をデポする話に乗った感じだ。私の車で舗装された道を進むとほんの少しでバリケードがあり兔夢号の隣に駐車した。
林道は高度を上げていくのでおかしいなと思っていたところ山日和さんからストップがかかった。もっと手前で旧道への分岐があるはずだがわからなかった。少し進んだ所にテープがあり植林の尾根を下った。着いたのが毘沙門谷出合で、旧道は使える状態ではなく放置された錆びた車が2台残されていた。地元の人によると数年前までは車で出合まで行けたが、今は使う人もなくほったらかしになっているそうだ。炭窯手前の木道は通れる状態ではなく谷から対岸に渡った。
出合から左岸に石積みの道があり炭焼窯をつないでいたようだ。炭焼き窯跡がひっきりなしに出てくる。石積み道が右岸に渡ってからも窯をつないでいた道型は残っており、炭焼き人の痕跡を追っているみたいだった。ここの炭焼き窯の特徴は、炭焼き窯の隣に四角い石積みがあることだ。これまで紀伊半島のたくさんの炭窯を見てきたがこんなのははじめてだ、しかもほとんどの場所に四角い石積みがある。何かの小屋跡なのだろうが、確証が持てない。帰りに立ち寄った時山文化伝承館の人に聞いたら、これは炭焼きをする時に食事や寝泊まりをするための小屋跡だそうで、この方も子どものころここで食事をしたりしていたそうだ。年中炭焼きを行う雪深い地域だけに、こうしたしっかりとした小屋が必要だったのだろう。
この谷は長い分ゆるやかに高度を上げ歩きやすい。炭焼きが長く続いたおかげで自然林につつまれ光が差し込み地形図よりも広い谷のように感じさせてくれる。植林が下りてきている左岸に石積みの広い場所があり、植林小屋があったのかもしれない。渡渉を繰り返すと左岸の支谷にワサビ田が見える。5段程の石垣が谷の横に棚田のように並んでいる。谷から水を引き込んでワサビ田にしたようだが、今は水を引いていないので石垣が積みあがっているだけで、ワサビの痕跡も無かった。残念・・
稜線が近づくと谷はますます陽の光が差し込み、結局稜線直下まで窯跡が続いていた。尾根に上がった所でkasayaさんと出会い、私以外の人はダイラの頭に向かった。ここからオフ会場のダイラに向かって道があったのが気になりコルから下る。毘沙門谷上部の炭窯だと谷を下るより峠を乗越して時山に向かったほうが近いので、昔の杣道なのだろう。最初は急だったが、すぐに歩きやすい傾斜にかわり仕事道として使える感じだった。
ダイラでは、いつもながらの個性豊かな面々と会えて楽しかった。実はここ2年程オフ会に参加出来ずにいたのだ。
帰りは阿蘇谷を下る。ここから登ってきた人も多く、帰りは一人だった。テープもあり迷うことはない。巡視路として使われているようで小尾根を越すようにつけられたりしているが、こんな所は谷沿いを下った。登山道を外れた所に滝上のしっかりした窯跡や湯飲みなどの生活痕が残っているのがおもしろい。再び巡視路に合流するとワサビ田跡の石垣が見える。
朽ちた炭焼き窯のようなものが残っている。現役でも無さそうだし、不思議な感じがする。伝承館の人に写真を見せて確認すると焼場だそうだ。最初「このあたりは蒸し焼きにする。」という言葉を聞いてピンとこなかった。土に棺桶が入る穴を掘り、一番下に炭を並べその上に棺桶、棺桶の周りにワラを詰め、最後にゴザを水でベタベタにして穴をふさいで火をつける。濡れたゴザでおおうから蒸し焼きと言うようだ。炭焼きのように密閉して火力が逃げないので一晩できれいに焼けるそうで、炭焼きの村ならではの知恵が活かされている。上石津に焼場が出来たので穴を埋め焼場を潰した残骸が残っていたので中途半端に見えたようだ。
西尾本の焼場の場所とは違うので、炭焼き窯を転用したみたいだ。左岸の広くなった焼場跡には何もなく、自然石の仏も今は無いそうだ。焼場跡から道は立派な幅の広い石垣道になる。棺桶を担いで歩く道なのでこれぐらいは必要なのだろう。ただ、雪の季節は大変なようで、朝から雪かきをしてから葬列を組んだようで、当時の苦労がしのばれる。
出合にある墓場をすぎ時山文化伝承館でゆっくりさせてもらってから駐車場に向かった。
【山 域】鈴鹿
【コース】ゲート駐車場7:10---7:33毘沙門谷出合------10:00ダイラ13:00---14:00時山文化伝承館---14:55ゲート駐車場
【メンバー】山日和さん、草川さん、中西さん、わりばし(途中から単独)
時山というと囲炉裏を囲む家族の写真が浮かぶ。囲炉裏の上にもち焼き網、湯飲茶椀を入れた木箱がつるしてあり、炭焼きの村の家族のだんらんの様子が写っている。1500町歩(約1500ヘクタール)の山林にシデ、カシ、カエデなど炭焼きに適した木が多くあり、昔は1年を通して炭を焼いていた。地元の方が五僧のあたりまで焼きに行っていたと言っていたので時山集落が広範囲に炭焼き窯を設置していたことがわかる。
こうした村の昔の営みを感じられれないいなと時山に向かった。阿蘇谷登山口駐車場で準備していると山日和さん達も到着した。「山登りはこんなにも面白い」の著者の草川さんと中西さんも一緒だ、毘沙門谷を詰めるようなのでご一緒させてもらった。実をいうと谷の出合までの40分の歩きがおっくうで1台車をデポする話に乗った感じだ。私の車で舗装された道を進むとほんの少しでバリケードがあり兔夢号の隣に駐車した。
林道は高度を上げていくのでおかしいなと思っていたところ山日和さんからストップがかかった。もっと手前で旧道への分岐があるはずだがわからなかった。少し進んだ所にテープがあり植林の尾根を下った。着いたのが毘沙門谷出合で、旧道は使える状態ではなく放置された錆びた車が2台残されていた。地元の人によると数年前までは車で出合まで行けたが、今は使う人もなくほったらかしになっているそうだ。炭窯手前の木道は通れる状態ではなく谷から対岸に渡った。
出合から左岸に石積みの道があり炭焼窯をつないでいたようだ。炭焼き窯跡がひっきりなしに出てくる。石積み道が右岸に渡ってからも窯をつないでいた道型は残っており、炭焼き人の痕跡を追っているみたいだった。ここの炭焼き窯の特徴は、炭焼き窯の隣に四角い石積みがあることだ。これまで紀伊半島のたくさんの炭窯を見てきたがこんなのははじめてだ、しかもほとんどの場所に四角い石積みがある。何かの小屋跡なのだろうが、確証が持てない。帰りに立ち寄った時山文化伝承館の人に聞いたら、これは炭焼きをする時に食事や寝泊まりをするための小屋跡だそうで、この方も子どものころここで食事をしたりしていたそうだ。年中炭焼きを行う雪深い地域だけに、こうしたしっかりとした小屋が必要だったのだろう。
この谷は長い分ゆるやかに高度を上げ歩きやすい。炭焼きが長く続いたおかげで自然林につつまれ光が差し込み地形図よりも広い谷のように感じさせてくれる。植林が下りてきている左岸に石積みの広い場所があり、植林小屋があったのかもしれない。渡渉を繰り返すと左岸の支谷にワサビ田が見える。5段程の石垣が谷の横に棚田のように並んでいる。谷から水を引き込んでワサビ田にしたようだが、今は水を引いていないので石垣が積みあがっているだけで、ワサビの痕跡も無かった。残念・・
稜線が近づくと谷はますます陽の光が差し込み、結局稜線直下まで窯跡が続いていた。尾根に上がった所でkasayaさんと出会い、私以外の人はダイラの頭に向かった。ここからオフ会場のダイラに向かって道があったのが気になりコルから下る。毘沙門谷上部の炭窯だと谷を下るより峠を乗越して時山に向かったほうが近いので、昔の杣道なのだろう。最初は急だったが、すぐに歩きやすい傾斜にかわり仕事道として使える感じだった。
ダイラでは、いつもながらの個性豊かな面々と会えて楽しかった。実はここ2年程オフ会に参加出来ずにいたのだ。
帰りは阿蘇谷を下る。ここから登ってきた人も多く、帰りは一人だった。テープもあり迷うことはない。巡視路として使われているようで小尾根を越すようにつけられたりしているが、こんな所は谷沿いを下った。登山道を外れた所に滝上のしっかりした窯跡や湯飲みなどの生活痕が残っているのがおもしろい。再び巡視路に合流するとワサビ田跡の石垣が見える。
朽ちた炭焼き窯のようなものが残っている。現役でも無さそうだし、不思議な感じがする。伝承館の人に写真を見せて確認すると焼場だそうだ。最初「このあたりは蒸し焼きにする。」という言葉を聞いてピンとこなかった。土に棺桶が入る穴を掘り、一番下に炭を並べその上に棺桶、棺桶の周りにワラを詰め、最後にゴザを水でベタベタにして穴をふさいで火をつける。濡れたゴザでおおうから蒸し焼きと言うようだ。炭焼きのように密閉して火力が逃げないので一晩できれいに焼けるそうで、炭焼きの村ならではの知恵が活かされている。上石津に焼場が出来たので穴を埋め焼場を潰した残骸が残っていたので中途半端に見えたようだ。
西尾本の焼場の場所とは違うので、炭焼き窯を転用したみたいだ。左岸の広くなった焼場跡には何もなく、自然石の仏も今は無いそうだ。焼場跡から道は立派な幅の広い石垣道になる。棺桶を担いで歩く道なのでこれぐらいは必要なのだろう。ただ、雪の季節は大変なようで、朝から雪かきをしてから葬列を組んだようで、当時の苦労がしのばれる。
出合にある墓場をすぎ時山文化伝承館でゆっくりさせてもらってから駐車場に向かった。