【鈴鹿】八風越と石槫越

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わりばし
記事: 1763
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by わりばし »

【日 時】2011年7月24日(日)
【山 域】鈴鹿
【コース】石槫峠P7:35---7:55八風キャンプ場---9:53八風峠---10:35お菊池---13:03石槫峠P
【メンバー】単独

 中世に山越商人たちが歩いた八風街道を滋賀県側からつめようと考え、駐車地を石槫峠にした。石槫トンネルの滋賀県側の出口の十字路を右折すると峠道、左折すると八風林道になる。峠道に入る。滋賀県側の峠道はアスファルト舗装で、立派なもんだ。5キロ上って駐車地に着く。もうすでに、3台ほど駐車してある。めちゃくちゃ早いなと思ったが・・・後で昆虫採集のグループだとわかった。ここで、いつものママチャリを下ろして来た道を下る。八風林道の入口になる八風キャンプ場のゲートは閉められているので、ゲート前に自転車をデポする。

八風街道
八風街道
 キャンプ場をすぎ林道が右岸から左岸に移った辺りでノリ面が崩れ通れなくなっている。今週初めの台風の影響だろう。泥におおわれた林道も長靴なので平気。林道のゲートをすぎしばらくすると八風峠の登山口が見えてきた。再び右岸に渡り谷を上っていく。台風の影響か川の水量は多いようだ。登山道は沢筋から離れることなく、常に水音を聞かせてくれる。地図を見る分には植林の暗い道を想像していたのだが、沢筋は自然林が残されており、明るく風も通り気持ちがいい。しかも、沢筋だけあって、涼しい。石畳が残されている所もあり古道の雰囲気を感じさせてくれる。ホオノキの大きな葉が時折顔をのぞかせた。沢の水の流れは八風峠直下の900mまで続き、暑さを感じるとこなく八風峠に着いた。 
八風谷
八風谷
 山越商人が活躍したのは中世になる。山越商人は、山賊を警戒してキャラバン隊を組んで山を越えたようだ。「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という当時の記録も残っている。当時の八風越は、近江の四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)が流通を独占し近江と桑名を結ぶ通商路として栄えていた。

 八風峠と石槫峠を比べると八風峠の方が標高は高いにもかかわらずこの道が栄えていた。それは、当時の石槫峠道が古語録谷の廊下帯に道がつけられなかったため白谷越と山ノ神峠を越えるという遠回りをしなければならなかったためだと思われる。滋賀県からの八風越の道はキャラバン隊が通っていた往時を思い起こさせる歩きやすいなだらかな道だった。この道も信長による楽市楽座の導入と山越商人の禁止により衰退し、江戸時代初期には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は北伊勢と近江の人々をむすぶ生活道の役割を果たすのみとなっていったようだ。

 県境稜線に出て少し南にひと上りした所に、八風大明神の石碑と鳥居が立っていた。石碑は田光軍人会が建立したものだった。菰野の連隊が神風でも祈願して立てたのだろうか。

八風峠
八風峠
 三池岳に向かい、そこからピストンでお菊池をめざす。東の尾根の登山道を下って行くが、池のありそうな場所を通過するものの池はなし。尾根が狭くなり、おいおいと思った頃に池に着いた。小さな池だがお菊の伝承もあり存在感はある。上ノ茶屋で働く若い娘お菊が大切な皿を割ったことを責められ、池に身を投げたという伝承で、池に陶器を投入れると天候が急変すると言われてきた。陶器を流通対象から外そうとするあたり麓の小椋谷の木地師の影響を思わずにはいられない。山越商人の時代には、陶器も流通対象に含まれていたことから考えると、江戸時代以降に作られた伝承のようだ。道沿いに田光の境界の石柱が埋められていた。ここは菰野の田光の共有地のようだ。
お菊池
お菊池
 県境稜線を北に向かう。台風のせいで、たくさんの枝や木が道を塞いでいる。木をどけたり枝を蹴りたおしたりしながら進む。葉もたくさん落ちており緑の小道が続いた。途中でヒメシャクラではないツルリとした樹皮の木のみが集まった場所があった。以外に長い尾根道を歩いていくとNTTの中継所跡に出た。竜ヶ岳はガスっており、稜線歩きも風が吹きこの時期にしてはめずらしく涼しい山歩きができた。ここで、昼食をとっていると、緑のタモを持った人達が何人も石槫峠付近の山の中にいる。「昆虫屋」と言っていたので昆虫採集をしているようだ。だいぶ早めだが、駐車地につきママチャリを回収して帰路についた。
緑の小道
緑の小道
 家に着き駐車地で着替えた服を洗濯カゴにいれると、手になにやら肉球のようなものがある。流しに飛ばすと、家では見たことの無い不思議な動きをしている。ヒルだ・・・。ズボンかどこかについていたようで、危機一髪だった・・・セーフ。
緑水
記事: 749
登録日時: 2011年3月14日(月) 02:52

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by 緑水 »

わりばしさんオハヨウございます、今週は涼しそうなお天気予報だ。アルプスへの山はチョッと残念なお天気となりそうだね。

[quote="わりばし"]【日 時】2011年7月24日(日)
【コース】石槫峠P7:35---7:55八風キャンプ場---9:53八風峠---10:35お菊池---13:03石槫峠P

 中世に山越商人たちが歩いた八風街道を滋賀県側からつめようと考え、駐車地を石槫峠にした。
5キロ上って駐車地に着く。


伊勢側からの峠道は廃道でしょうね、近江からのガ便利デスモンね。
パラボラの跡地は駐車場になったのかしら?


 林道のゲートをすぎしばらくすると八風峠の登山口が見えてきた。

ココの林道はホッタラカシですか、作りが頑丈に出来てたから、赤坂谷から植林地帯抜けて白滝谷出会いへのダム建設道だと見ていましたよ。


沢筋は自然林が残されており、明るく風も通り気持ちがいい。しかも、沢筋だけあって、涼しい。石畳が残されている所もあり古道の雰囲気を感じさせてくれる。ホオノキの大きな葉が時折顔をのぞかせた。沢の水の流れは八風峠直下の900mまで続き、暑さを感じるとこなく八風峠に着いた。 

貼り付けた画像は好いところ写してますね、近江側はゆったりしてるから好い感じだな。

 山越商人が活躍したのは中世になる。山越商人は、山賊を警戒してキャラバン隊を組んで山を越えたようだ。「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という当時の記録も残っている。当時の八風越は、近江の四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)が流通を独占し近江と桑名を結ぶ通商路として栄えていた。

それほど大量な生活物資が山越えしてたんですか。
伊勢のほうが海からの道もあり、ナニ不自由無しの物資があった思うけどなあ。
戦国のときは尾張と京都結ぶ近江は琵琶湖もあり、そちら側のほうが栄えてたんだね。文化程度も高いですよね←想像です


 この道も信長による楽市楽座の導入と山越商人の禁止により衰退し、江戸時代初期には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は北伊勢と近江の人々をむすぶ生活道の役割を果たすのみとなっていったようだ。

ふう~んなるほどなあ。昔は桑名が重要で北勢町から白瀬峠越えて土倉峠から茨川へノタノタ峠から湖東へ。
今やいしぐれトンネルは重要な道ですな。


八風大明神の石碑と鳥居が立っていた。石碑は田光軍人会が建立したものだった。菰野の連隊が神風でも祈願して立てたのだろうか。


アラそうなん、単なる軍人記念碑なの?緑ちゃんなんか八つの谷風の集まる神様の地かと思ってました。
八風大明神へは新年に安全祈願に行きますよ。
鳥居の痛みがひどいですね、マオちゃん鳥居が新しくなるには鳥居を上げる道を言うてましたね。


 池に身を投げたという伝承で、池に陶器を投入れると天候が急変すると言われてきた。陶器を流通対象から外そうとするあたり麓の小椋谷の木地師の影響を思わずにはいられない。

緑ちゃんこのへんも良くわからないんだよなあ。
陶器なんてさ、神代の昔から壺や皿は作られてたよね、木地師曲がり物はそんなにも競争するものだったのかな。


山越商人の時代には、陶器も流通対象に含まれていたことから考えると、江戸時代以降に作られた伝承のようだ。道沿いに田光の境界の石柱が埋められていた。ここは菰野の田光の共有地のようだ。[/quote]

幽霊お化けの話はどこから出たのでしょうな、あそこでキャンプすると美女の幽霊が出るとの話ですよ、一枚二枚・・・
ヒルはお化けよりヤダネ

                              緑水
山猪
記事: 97
登録日時: 2011年4月15日(金) 21:39
お住まい: 愛知県名古屋市

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by 山猪 »

わりばし さん、こんにちは。
【日 時】2011年7月24日(日)
【山 域】鈴鹿
【コース】石槫峠P7:35---7:55八風キャンプ場---9:53八風峠---10:35お菊池---13:03石槫峠P
【メンバー】単独
ウーム、今秋に考えていたコース。時間的にどうか・・・・などと考えていましたが・・・・・やはり短いですね(参考になります)。
5キロ上って駐車地に着く。もうすでに、3台ほど駐車してある。めちゃくちゃ早いなと思ったが・・・後で昆虫採集のグループだとわかった。
昆虫採集だと、前日の晩から色々やってるかも知れませんね。エサとか集光とかで・・・・。
地図を見る分には植林の暗い道を想像していたのだが、沢筋は自然林が残されており、明るく風も通り気持ちがいい。しかも、沢筋だけあって、涼しい。石畳が残されている所もあり古道の雰囲気を感じさせてくれる。ホオノキの大きな葉が時折顔をのぞかせた。沢の水の流れは八風峠直下の900mまで続き、暑さを感じるとこなく八風峠に着いた。
 
24日は、名古屋でも比較的涼しかったような、本来この時期だと暑くてバテバテコースおまけにヒルが出るという情報も得ています。
 山越商人が活躍したのは中世になる。山越商人は、山賊を警戒してキャラバン隊を組んで山を越えたようだ。「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という当時の記録も残っている。当時の八風越は、近江の四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)が流通を独占し近江と桑名を結ぶ通商路として栄えていた。
物々しい光景が目に浮かぶようです。
 県境稜線に出て少し南にひと上りした所に、八風大明神の石碑と鳥居が立っていた。石碑は田光軍人会が建立したものだった。菰野の連隊が神風でも祈願して立てたのだろうか。
そうでしたか・・・・・そう言えば、ここの石碑に目を通したこと有りませんでしたヮ。
小さな池だがお菊の伝承もあり存在感はある。上ノ茶屋で働く若い娘お菊が大切な皿を割ったことを責められ、池に身を投げたという伝承で、池に陶器を投入れると天候が急変すると言われてきた。
お菊さんって、むちゃくちゃ根性のある女性だったんですね・・・・・この池、池と言うより単なる水たまりですから・・・・・。もっとも、この伝承って木地師がオラが山の自慢話として広めたようなことが『鈴鹿の山と谷』?に記載してあったような・・・・。
 家に着き駐車地で着替えた服を洗濯カゴにいれると、手になにやら肉球のようなものがある。流しに飛ばすと、家では見たことの無い不思議な動きをしている。ヒルだ・・・。ズボンかどこかについていたようで、危機一髪だった・・・セーフ。
ざっ残念・・・・・。

by サンチョ
アバター
わりばし
記事: 1763
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、緑水さん。

伊勢側からの峠道は廃道でしょうね、近江からのガ便利デスモンね。
パラボラの跡地は駐車場になったのかしら?


跡地は、ただの空地ですね。

入口がしっかりブロックされていて、車では上がれません。


ココの林道はホッタラカシですか、作りが頑丈に出来てたから、赤坂谷から植林地帯抜けて白滝谷出会いへのダム建設道だと見ていましたよ。


いや現役の林道で、赤坂谷方面ににしっかりのびているようです。

王子製紙の所有みたいですが。


沢筋は自然林が残されており、明るく風も通り気持ちがいい。しかも、沢筋だけあって、涼しい。石畳が残されている所もあり古道の雰囲気を感じさせてくれる。ホオノキの大きな葉が時折顔をのぞかせた。沢の水の流れは八風峠直下の900mまで続き、暑さを感じるとこなく八風峠に着いた。 

貼り付けた画像は好いところ写してますね、近江側はゆったりしてるから好い感じだな。

ありがとうございます。もう一枚はっておきます。
八風谷
八風谷
 山越商人が活躍したのは中世になる。山越商人は、山賊を警戒してキャラバン隊を組んで山を越えたようだ。「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という当時の記録も残っている。当時の八風越は、近江の四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)が流通を独占し近江と桑名を結ぶ通商路として栄えていた。

それほど大量な生活物資が山越えしてたんですか。
伊勢のほうが海からの道もあり、ナニ不自由無しの物資があった思うけどなあ。
戦国のときは尾張と京都結ぶ近江は琵琶湖もあり、そちら側のほうが栄えてたんだね。文化程度も高いですよね←想像です


「近江泥棒に伊勢乞食」と言われるように商才は近江の方があったのでしょうね。

三井などで有名な松阪商人も元は近江の日野商人ですから。


 この道も信長による楽市楽座の導入と山越商人の禁止により衰退し、江戸時代初期には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は北伊勢と近江の人々をむすぶ生活道の役割を果たすのみとなっていったようだ。

ふう~んなるほどなあ。昔は桑名が重要で北勢町から白瀬峠越えて土倉峠から茨川へノタノタ峠から湖東へ。
今やいしぐれトンネルは重要な道ですな。


そうみたいですね。今の私達が思っている以上に桑名は重要な所だったようです。

米相場でもポイントになる場所だったようです。


八風大明神の石碑と鳥居が立っていた。石碑は田光軍人会が建立したものだった。菰野の連隊が神風でも祈願して立てたのだろうか。

アラそうなん、単なる軍人記念碑なの?緑ちゃんなんか八つの谷風の集まる神様の地かと思ってました。
八風大明神へは新年に安全祈願に行きますよ。
鳥居の痛みがひどいですね、マオちゃん鳥居が新しくなるには鳥居を上げる道を言うてましたね。


鳥居は何箇所か表面が落ちていました。

どこから上げますかね?

八風大明神の石碑
八風大明神の石碑
 池に身を投げたという伝承で、池に陶器を投入れると天候が急変すると言われてきた。陶器を流通対象から外そうとするあたり麓の小椋谷の木地師の影響を思わずにはいられない。

緑ちゃんこのへんも良くわからないんだよなあ。
陶器なんてさ、神代の昔から壺や皿は作られてたよね、木地師曲がり物はそんなにも競争するものだったのかな。


昔は結構木の椀を使っていたみたいですよ。

日野椀などは日常品としてけっこう流通していたようです。


幽霊お化けの話はどこから出たのでしょうな、あそこでキャンプすると美女の幽霊が出るとの話ですよ、一枚二枚・・・
ヒルはお化けよりヤダネ


出るのなら韓流美人がいいな。 :mrgreen:

                                            わりばし
biwaco
記事: 1423
登録日時: 2011年2月22日(火) 16:56
お住まい: 滋賀県近江八幡市

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by biwaco »

ちょっと涼しい週末でしたね。
鈴鹿歩くにはちょうどいいお天気だったでしょうか…。

コース】石槫峠P7:35---7:55八風キャンプ場---9:53八風峠---10:35お菊池---13:03石槫峠P

八風街道ですか…。行ったのはいつだったかなあ?と記録を見たら4年前の秋でした。
たしかスマイバー谷沿いの林道の終点から中峠近くへ出たと思います。
帰りは八風峠から荒れた谷を下りました。

 中世に山越商人たちが歩いた八風街道を滋賀県側からつめようと考え、駐車地を石槫峠にした。
石槫トンネルの滋賀県側の出口の十字路を右折すると峠道、左折すると八風林道になる。5キロ上って駐車地に着く。
ここで、いつものママチャリを下ろして来た道を下る。八風林道の入口になる八風キャンプ場のゲートは閉められているので、ゲート前に自転車をデポする。


なるほど、省エネの周回ルートですね。歩いたら結構長いもんねえ。

 山越商人が活躍したのは中世になる。山越商人は、山賊を警戒してキャラバン隊を組んで山を越えたようだ。「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という当時の記録も残っている。当時の八風越は、近江の四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)が流通を独占し近江と桑名を結ぶ通商路として栄えていた。

中世の産業道路でしたか。民俗歴史に詳しいわりばしレポは、勉強になります。(すぐ忘れるのが困りもんですが…)
その当時の山越商人は「近江商人」とは言わないですよね。
で、近江からそんなに仰山、何を運んでたんでしょう? 米や炭は北勢にもあっただろうし…?

 八風峠と石槫峠を比べると八風峠の方が標高は高いにもかかわらずこの道が栄えていた。それは、当時の石槫峠道が古語録谷の廊下帯に道がつけられなかったため白谷越と山ノ神峠を越えるという遠回りをしなければならなかったためだと思われる。滋賀県からの八風越の道はキャラバン隊が通っていた往時を思い起こさせる歩きやすいなだらかな道だった。この道も信長による楽市楽座の導入と山越商人の禁止により衰退し、江戸時代初期には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は北伊勢と近江の人々をむすぶ生活道の役割を果たすのみとなっていったようだ。

えー? 政所から山の神峠~太尾~白谷越え~石榑ですか! そら、八風街道のほうがらくだな。
昔の人は偉かった…いや、エラ(シンド)かった(@_@;)

 県境稜線に出て少し南にひと上りした所に、八風大明神の石碑と鳥居が立っていた。石碑は田光軍人会が建立したものだった。菰野の連隊が神風でも祈願して立てたのだろうか。

八風とか八幡は戦の神様のようですから…。

 三池岳に向かい、そこからピストンでお菊池をめざす。小さな池だがお菊の伝承もあり存在感はある。上ノ茶屋で働く若い娘お菊が大切な皿を割ったことを責められ、池に身を投げたという伝承で、池に陶器を投入れると天候が急変すると言われてきた。陶器を流通対象から外そうとするあたり麓の小椋谷の木地師の影響を思わずにはいられない。山越商人の時代には、陶器も流通対象に含まれていたことから考えると、江戸時代以降に作られた伝承のようだ。

お菊さんの話は、姫路城にもあったような…
鈴鹿も舞台だったんでしょうか?
やはり、陶器と木製器のシェア争いがネタ元?

 県境稜線を北に向かう。以外に長い尾根道を歩いていくとNTTの中継所跡に出た。竜ヶ岳はガスっており、稜線歩きも風が吹きこの時期にしてはめずらしく涼しい山歩きができた。

NTT中継所跡は竜ヶ岳から見るとヘリポートみたいです。
これからは遭難救助ヘリの中継基地になるのかな?

 家に着き駐車地で着替えた服を洗濯カゴにいれると、手になにやら肉球のようなものがある。流しに飛ばすと、家では見たことの無い不思議な動きをしている。ヒルだ・・・。ズボンかどこかについていたようで、危機一髪だった・・・セーフ。

おやおや、とんだお土産付きでした。わりばしででも摘まんでポイして下さい。
お疲れさまでした。

                   ~biwaco
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わりばし
記事: 1763
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、山猪さん。

ウーム、今秋に考えていたコース。時間的にどうか・・・・などと考えていましたが・・・・・やはり短いですね(参考になります)。

時間がもっと早ければ白谷越への道を探索しようと思っていたのですが、現地で見てみると結構遠いので止めました。 :cry:
5キロ上って駐車地に着く。もうすでに、3台ほど駐車してある。めちゃくちゃ早いなと思ったが・・・後で昆虫採集のグループだとわかった。
昆虫採集だと、前日の晩から色々やってるかも知れませんね。エサとか集光とかで・・・・。

そうみたいですね。

昆虫屋さんの車のライト近くにやけに虫がへばりついていました。

夜ライトをつけていたんですかね。

昆虫屋と緑タモ
昆虫屋と緑タモ
小さな池だがお菊の伝承もあり存在感はある。上ノ茶屋で働く若い娘お菊が大切な皿を割ったことを責められ、池に身を投げたという伝承で、池に陶器を投入れると天候が急変すると言われてきた。
お菊さんって、むちゃくちゃ根性のある女性だったんですね・・・・・この池、池と言うより単なる水たまりですから・・・・・。もっとも、この伝承って木地師がオラが山の自慢話として広めたようなことが『鈴鹿の山と谷』?に記載してあったような・・・・。

そうみたいですね。

米相場を引き上げるために、お菊池に陶器を投げ込んで天候を悪化させた人がいたと信じられていた時代ですから。

私としてはお菊さんはKARAのような若い娘がいいですね。

お菊さんはいづこへ
お菊さんはいづこへ
 家に着き駐車地で着替えた服を洗濯カゴにいれると、手になにやら肉球のようなものがある。流しに飛ばすと、家では見たことの無い不思議な動きをしている。ヒルだ・・・。ズボンかどこかについていたようで、危機一髪だった・・・セーフ。
ざっ残念・・・・・。

まだ無血記録は続いております。

                                         わりばし
Kasaya
記事: 927
登録日時: 2011年2月20日(日) 14:34

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by Kasaya »

わりばしさん こんばんは
【コース】石槫峠P7:35---7:55八風キャンプ場---9:53八風峠---10:35お菊池---13:03石槫峠P
八風キャンプ場って滋賀県側にもあるんですよね。どうも三重県側にいると田光沿いのキャンプ場を連想してしまいます。


 中世に山越商人たちが歩いた八風街道を滋賀県側からつめようと考え、駐車地を石槫峠にした。
こういう経緯からどちらにも八風の名前が残ったんでしょうかねえ。

石槫トンネルの滋賀県側の出口の十字路を右折すると峠道、左折すると八風林道になる。峠道に入る。滋賀県側の峠道はアスファルト舗装で、立派なもんだ。5キロ上って駐車地に着く。もうすでに、3台ほど駐車してある。めちゃくちゃ早いなと思ったが・・・後で昆虫採集のグループだとわかった。ここで、いつものママチャリを下ろして来た道を下る。八風林道の入口になる八風キャンプ場のゲートは閉められているので、ゲート前に自転車をデポする。
三重県側からはもう峠に行かれませんが滋賀県側からはいけるんですねえ。以前わりばしさんのように石槫峠に自転車をデポした
ことがありますが、道の崩壊以降もうできないのかと思ってました。

林道のゲートをすぎしばらくすると八風峠の登山口が見えてきた。再び右岸に渡り谷を上っていく。台風の影響か川の水量は多いようだ。登山道は沢筋から離れることなく、常に水音を聞かせてくれる。地図を見る分には植林の暗い道を想像していたのだが、沢筋は自然林が残されており、明るく風も通り気持ちがいい。しかも、沢筋だけあって、涼しい。石畳が残されている所もあり古道の雰囲気を感じさせてくれる。ホオノキの大きな葉が時折顔をのぞかせた。沢の水の流れは八風峠直下の900mまで続き、暑さを感じるとこなく八風峠に着いた。 
これだけ読むと簡単にいけそうですね。一度八風峠から道なりにスマイバ谷との出合まで行ったことになっているのですが、さっぱり
思い出せません。

 八風峠と石槫峠を比べると八風峠の方が標高は高いにもかかわらずこの道が栄えていた。それは、当時の石槫峠道が古語録谷の廊下帯に道がつけられなかったため白谷越と山ノ神峠を越えるという遠回りをしなければならなかったためだと思われる。滋賀県からの八風越の道はキャラバン隊が通っていた往時を思い起こさせる歩きやすいなだらかな道だった。この道も信長による楽市楽座の導入と山越商人の禁止により衰退し、江戸時代初期には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は北伊勢と近江の人々をむすぶ生活道の役割を果たすのみとなっていったようだ。
こんなことを思いながら歩くのも良さそうですね。その時代の遺物でも拾ったりして。

お菊池

この池に身を投げるのはちょっと難しい気がします
以外に長い尾根道を歩いていくとNTTの中継所跡に出た。竜ヶ岳はガスっており、稜線歩きも風が吹きこの時期にしてはめずらしく涼しい山歩きができた。
地図で見ると八風峠から石槫峠が一番しんどそうですねえ

思議な動きをしている。ヒルだ・・・。ズボンかどこかについていたようで、危機一髪だった・・・セーフ。わりばし
ありゃー!貴重な体験をしそこないましたね。鈴鹿に行ったら献血するのが流儀でしょう(^_^.)

Kasaya
アバター
わりばし
記事: 1763
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、biwacoさん。

八風街道ですか…。行ったのはいつだったかなあ?と記録を見たら4年前の秋でした。
たしかスマイバー谷沿いの林道の終点から中峠近くへ出たと思います。
帰りは八風峠から荒れた谷を下りました。

秋の頃は紅葉できれいでしょうね。

林道終点からは植林ですか?


 山越商人が活躍したのは中世になる。山越商人は、山賊を警戒してキャラバン隊を組んで山を越えたようだ。「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という当時の記録も残っている。当時の八風越は、近江の四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔)が流通を独占し近江と桑名を結ぶ通商路として栄えていた。

中世の産業道路でしたか。民俗歴史に詳しいわりばしレポは、勉強になります。(すぐ忘れるのが困りもんですが…)
その当時の山越商人は「近江商人」とは言わないですよね。
で、近江からそんなに仰山、何を運んでたんでしょう? 米や炭は北勢にもあっただろうし…?

この当時の山越商人は、四本商人と五箇商人の事を指しますから、近江商人のルーツですね。

伊勢から運び込む方が主だったようですよ。

「あさのを」麻布の材料、「土の物」焼き物、「あふら草」菜種や胡麻などの油の材料、「紙」美濃紙、「木綿」三河のわた、「わげ物」曲げ物、「塩、わかめ、あらめ、のり、魚」等のようです。


 八風峠と石槫峠を比べると八風峠の方が標高は高いにもかかわらずこの道が栄えていた。それは、当時の石槫峠道が古語録谷の廊下帯に道がつけられなかったため白谷越と山ノ神峠を越えるという遠回りをしなければならなかったためだと思われる。滋賀県からの八風越の道はキャラバン隊が通っていた往時を思い起こさせる歩きやすいなだらかな道だった。この道も信長による楽市楽座の導入と山越商人の禁止により衰退し、江戸時代初期には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は北伊勢と近江の人々をむすぶ生活道の役割を果たすのみとなっていったようだ。

えー? 政所から山の神峠~太尾~白谷越え~石榑ですか! そら、八風街道のほうがらくだな。
昔の人は偉かった…いや、エラ(シンド)かった(@_@;)

山の神峠からは又川谷~白谷~白谷越~石槫ですね。

白谷越からはTrailWalkerさんが見つけた道ですね。

白谷越までは遠いなあ
白谷越までは遠いなあ
 県境稜線に出て少し南にひと上りした所に、八風大明神の石碑と鳥居が立っていた。石碑は田光軍人会が建立したものだった。菰野の連隊が神風でも祈願して立てたのだろうか。

八風とか八幡は戦の神様のようですから…。

八風はヤマトタケルに伊勢を追い出されて八の風になって出て行ったようですから・・弱っちそうですね。

 三池岳に向かい、そこからピストンでお菊池をめざす。小さな池だがお菊の伝承もあり存在感はある。上ノ茶屋で働く若い娘お菊が大切な皿を割ったことを責められ、池に身を投げたという伝承で、池に陶器を投入れると天候が急変すると言われてきた。陶器を流通対象から外そうとするあたり麓の小椋谷の木地師の影響を思わずにはいられない。山越商人の時代には、陶器も流通対象に含まれていたことから考えると、江戸時代以降に作られた伝承のようだ。

お菊さんの話は、姫路城にもあったような…
鈴鹿も舞台だったんでしょうか?
やはり、陶器と木製器のシェア争いがネタ元?

いや~たぶん番町皿屋敷のパクリでしょう。

 県境稜線を北に向かう。以外に長い尾根道を歩いていくとNTTの中継所跡に出た。竜ヶ岳はガスっており、稜線歩きも風が吹きこの時期にしてはめずらしく涼しい山歩きができた。

NTT中継所跡は竜ヶ岳から見るとヘリポートみたいです。
これからは遭難救助ヘリの中継基地になるのかな?

草も生えて無かったんですが、どうするつもりですかね?

NTTの標は何箇所かありましたが・・・

中継跡と石槫峠
中継跡と石槫峠
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わりばし
記事: 1763
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 【鈴鹿】八風越と石槫越

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、Kasayaさん。

【コース】石槫峠P7:35---7:55八風キャンプ場---9:53八風峠---10:35お菊池---13:03石槫峠P
八風キャンプ場って滋賀県側にもあるんですよね。どうも三重県側にいると田光沿いのキャンプ場を連想してしまいます。

このキャンプ場は使えるみたいなのですが、この時期の日曜日に閉めているということはほとんど使われていないってことかな?

石槫トンネルの滋賀県側の出口の十字路を右折すると峠道、左折すると八風林道になる。峠道に入る。滋賀県側の峠道はアスファルト舗装で、立派なもんだ。5キロ上って駐車地に着く。もうすでに、3台ほど駐車してある。めちゃくちゃ早いなと思ったが・・・後で昆虫採集のグループだとわかった。ここで、いつものママチャリを下ろして来た道を下る。八風林道の入口になる八風キャンプ場のゲートは閉められているので、ゲート前に自転車をデポする。
三重県側からはもう峠に行かれませんが滋賀県側からはいけるんですねえ。以前わりばしさんのように石槫峠に自転車をデポした
ことがありますが、道の崩壊以降もうできないのかと思ってました。

滋賀県側の峠道のは以外にもきれいに整備され、砂防工事の車両なんかも入っていました。

林道のゲートをすぎしばらくすると八風峠の登山口が見えてきた。再び右岸に渡り谷を上っていく。台風の影響か川の水量は多いようだ。登山道は沢筋から離れることなく、常に水音を聞かせてくれる。地図を見る分には植林の暗い道を想像していたのだが、沢筋は自然林が残されており、明るく風も通り気持ちがいい。しかも、沢筋だけあって、涼しい。石畳が残されている所もあり古道の雰囲気を感じさせてくれる。ホオノキの大きな葉が時折顔をのぞかせた。沢の水の流れは八風峠直下の900mまで続き、暑さを感じるとこなく八風峠に着いた。 
これだけ読むと簡単にいけそうですね。一度八風峠から道なりにスマイバ谷との出合まで行ったことになっているのですが、さっぱり
思い出せません。

上る分には赤テープもあり素直な道だと思います。

珍しくクマザサに覆われた場所もあり、鈴鹿のヤブの復活も近そうです。


 八風峠と石槫峠を比べると八風峠の方が標高は高いにもかかわらずこの道が栄えていた。それは、当時の石槫峠道が古語録谷の廊下帯に道がつけられなかったため白谷越と山ノ神峠を越えるという遠回りをしなければならなかったためだと思われる。滋賀県からの八風越の道はキャラバン隊が通っていた往時を思い起こさせる歩きやすいなだらかな道だった。この道も信長による楽市楽座の導入と山越商人の禁止により衰退し、江戸時代初期には歴史の表舞台から遠ざかってしまい、その後は北伊勢と近江の人々をむすぶ生活道の役割を果たすのみとなっていったようだ。
こんなことを思いながら歩くのも良さそうですね。その時代の遺物でも拾ったりして。


[attachment=1]IMG_4062.jpg[/attachment]

お菊池


この池に身を投げるのはちょっと難しい気がします

今はどう考えても無理ですね。
お菊池にある田光の境界線杭
お菊池にある田光の境界線杭
以外に長い尾根道を歩いていくとNTTの中継所跡に出た。竜ヶ岳はガスっており、稜線歩きも風が吹きこの時期にしてはめずらしく涼しい山歩きができた。
地図で見ると八風峠から石槫峠が一番しんどそうですねえ

ちょっとした上り下りの連続です。

ガレあり緑の小道ありで、あきなくて歩いていて楽しいですよ。


思議な動きをしている。ヒルだ・・・。ズボンかどこかについていたようで、危機一髪だった・・・セーフ。わりばし
ありゃー!貴重な体験をしそこないましたね。鈴鹿に行ったら献血するのが流儀でしょう(^_^.)

昔はヒルなんていなかったですからね。

無血記録はどこまで伸びますか・・・
:mrgreen:
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八風峠方面の山々
八風峠方面の山々
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