【日 付】2013年11月17日(日)
【山 域】台高
【コース】青田発電所7:08---9:40P1186---10:56桧塚11:30---13:38池杉山---14:34青田発電所
【メンバー】単独
今年の秋はなにやら慌ただしく過ぎて行ってしまった。いつの間にか台高の千メートルの稜線部での紅葉の見時はすぎさり森は冬の準備をはじめている。私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
[attachment=2]IMG_7701.jpg[/attachment]
青田発電所の駐車場に停め歩き出すが、雨子庵さんはいないようだ。帰りに下ってくるトガ尾の末端が伐採されているのを確認しながら林道を上る。ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。ここの木には「上ツヅラ原 右2号」と書かれた昭和27年の白い標識が針金でつけられている。窯跡の前の小谷の反対側に杣道が続いており、小谷には朽ちた木が残っていたので、以前は橋がかけられていたようだ。
杣道はツヅ田原谷に沿いながら上って行く。出合には滝がかかっているが、その上部は荒れており、ツヅ田原橋を橋脚ごと破壊した土石流の痕跡がそのまま残っている。えん堤を越えると杣道は尾根筋に向かいツヅラ折れに上って行く。尾根が広がり緩斜面になった植林の真ん中に窯跡がありその上部の木に同じ年につけられた4号標識がつけられていた。ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。以前zippさんも指摘していたが「ツヅラ原」が「ツヅタ原」になり、そこに漢字の田を当てたもんだから訳のわからない「ツヅ田原」になってしまったようだ。
植林の尾根筋だがきれいに手入れされそこに現役の杣道が続いており気持ちがいい。ツヅラ原のあたりから古いマーキングが時たま顔を出すが新しいマーキングは無い。尾根はカクレ谷側が自然林になりツヅ田原谷側のみ植林になる。中腹では黄色や紅のカエデの葉がきれいに色づいていた。痩せ尾根になると植林はついてこれず自然林の尾根に変わる。上部には千秋社の黄色の杭や何を思ったか黄色の登山道テープまで出てくる。杣道はあるがどう考えても一般登山道ではない。ブナの木が目立ち始めるとP1186は目と鼻の先だった。
[attachment=0]IMG_7706.jpg[/attachment]
葉が落ち冬の準備が整ったブナの稜線を歩く。今日はぽかぽか陽気で気分も晴れやかだ。落葉の道を上って行くと、小鳥が落葉に群れており私が近づくと落葉の上を逃げていった。何をしているのだろう?
桧塚まで行くが、今日は奥峰にもだれもいない。桧塚から少し戻り、トガ尾まで見渡せる展望抜群の草地で昼食をとった。
[attachment=4]IMG_7681.jpg[/attachment]
P1186まで来た道をもどりしばらく行くと、稜線直下から地滑りがおきている。ツヅ田原谷の源頭部で、この谷の土石流の大きさがわかる。蓮側はすべて植林だが稜線は自然林が残り1100m付近ではカエデの紅葉が強烈な印象をあたえてくれる。P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
[attachment=3]IMG_7688.jpg[/attachment]
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
[attachment=1]IMG_7704.jpg[/attachment]
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。『木地師の習俗(滋賀県・三重県)』には「昔はブナの木を多く使用した。ブナは二百年もたたないと使い物にならないが、栗は二十年もたつと径四寸くらいに育つから、今はもっぱら栗を用いる。それもなければ桧でも作れないことはないが、どうも杓子としてふさわしくない。」という記述がある。青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
今回の山行は、冬にむけてバリエーションを増やすつもりで歩いたが、木地師につながる残されたブナの木に出会えて予想外の収穫だった。
【台高】杓子の里を廻る ヅヅラ原尾を上りトガ尾を下る
フォーラムルール
新規トピックは文頭に以下のテンプレートをなるべく使ってください。
【 日 付 】
【 山 域 】
【メンバー】
【 天 候 】
【 ルート 】
※ユーザーでなくても返信が可能です。ユーザー名に名前を入れて返信してください。
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【 日 付 】
【 山 域 】
【メンバー】
【 天 候 】
【 ルート 】
※ユーザーでなくても返信が可能です。ユーザー名に名前を入れて返信してください。
わりばしさん、こんばんわ 雨子庵です。
【日 付】2013年11月17日(日)
【山 域】台高
【コース】青田発電所7:08---9:40P1186---10:56桧塚11:30---13:38池杉山---14:34青田発電所
【メンバー】単独
青田発電所の駐車場に停め歩き出すが、雨子庵さんはいないようだ。
この日は、浜松でイベントやってました。浜名湖のカキもプリプリで美味しかったです。
この日は天気も良くてうらやましい。
ちなみに上記の時刻、在住でも怠惰パターンだとまだ寝てる場合多です。モーニングコールお願いします。
帰りに下ってくるトガ尾の末端が伐採されているのを確認しながら林道を上る。ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。ここの木には「上ツヅラ原 右2号」と書かれた昭和27年の白い標識が針金でつけられている。窯跡の前の小谷の反対側に杣道が続いており、小谷には朽ちた木が残っていたので、以前は橋がかけられていたようだ。
木屋谷橋(藤本橋)を渡ったあたりから、昔の道(人道)は今の車道のちょっと上でした。その旧道を横切ったのかも知れませんね。
また、戦後、場所は定かではありませんが、岐阜のほうから炭焼きに来ている人が多かったそうです。権利を買って入山していたらしいです。札はひょっとしたらその名残かも・・・。
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
『池杉山に行ってきたよ』とオジヤンに報告したら、『それはどこだ?』と言われたことがあります。
地元の名称ではないかも・・・・。
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。『木地師の習俗(滋賀県・三重県)』には「昔はブナの木を多く使用した。ブナは二百年もたたないと使い物にならないが、栗は二十年もたつと径四寸くらいに育つから、今はもっぱら栗を用いる。それもなければ桧でも作れないことはないが、どうも杓子としてふさわしくない。」という記述がある。青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
先日、青田のお不動さんの祭りで聞いたプチ情報。先ほどの木屋谷橋の上にあった中栃村に住んでいた『藤本さん』は、その昔屋号を『木屋』と言ったそうです。盛伝寺の記録(初耳!)もそうですが、木地師の氏子狩帳に記載のある、『青田の木屋』の場所のナゾがそこで解けて私はうれしかったです。ちなみに、橋を渡った対岸辺りの地名は『木屋むかい』だそうです。
余談ですがジロニィにとっては皆さんのハンドルネームは『屋号』という言葉で会話が成立しています。
たとえば、『あの大きい兄ちゃんの「屋号」はなんちゅうんだ?』『グーさんです』『グーチョキパーのグーけ?』『そうです』
こんな感じで 。
雨子庵
【日 付】2013年11月17日(日)
【山 域】台高
【コース】青田発電所7:08---9:40P1186---10:56桧塚11:30---13:38池杉山---14:34青田発電所
【メンバー】単独
青田発電所の駐車場に停め歩き出すが、雨子庵さんはいないようだ。
この日は、浜松でイベントやってました。浜名湖のカキもプリプリで美味しかったです。
この日は天気も良くてうらやましい。
ちなみに上記の時刻、在住でも怠惰パターンだとまだ寝てる場合多です。モーニングコールお願いします。
帰りに下ってくるトガ尾の末端が伐採されているのを確認しながら林道を上る。ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。ここの木には「上ツヅラ原 右2号」と書かれた昭和27年の白い標識が針金でつけられている。窯跡の前の小谷の反対側に杣道が続いており、小谷には朽ちた木が残っていたので、以前は橋がかけられていたようだ。
木屋谷橋(藤本橋)を渡ったあたりから、昔の道(人道)は今の車道のちょっと上でした。その旧道を横切ったのかも知れませんね。
また、戦後、場所は定かではありませんが、岐阜のほうから炭焼きに来ている人が多かったそうです。権利を買って入山していたらしいです。札はひょっとしたらその名残かも・・・。
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
『池杉山に行ってきたよ』とオジヤンに報告したら、『それはどこだ?』と言われたことがあります。
地元の名称ではないかも・・・・。
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。『木地師の習俗(滋賀県・三重県)』には「昔はブナの木を多く使用した。ブナは二百年もたたないと使い物にならないが、栗は二十年もたつと径四寸くらいに育つから、今はもっぱら栗を用いる。それもなければ桧でも作れないことはないが、どうも杓子としてふさわしくない。」という記述がある。青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
先日、青田のお不動さんの祭りで聞いたプチ情報。先ほどの木屋谷橋の上にあった中栃村に住んでいた『藤本さん』は、その昔屋号を『木屋』と言ったそうです。盛伝寺の記録(初耳!)もそうですが、木地師の氏子狩帳に記載のある、『青田の木屋』の場所のナゾがそこで解けて私はうれしかったです。ちなみに、橋を渡った対岸辺りの地名は『木屋むかい』だそうです。
余談ですがジロニィにとっては皆さんのハンドルネームは『屋号』という言葉で会話が成立しています。
たとえば、『あの大きい兄ちゃんの「屋号」はなんちゅうんだ?』『グーさんです』『グーチョキパーのグーけ?』『そうです』
こんな感じで 。
雨子庵
Re:
おはようございます、雨子庵さん。
【日 付】2013年11月17日(日)
【山 域】台高
【コース】青田発電所7:08---9:40P1186---10:56桧塚11:30---13:38池杉山---14:34青田発電所
【メンバー】単独
青田発電所の駐車場に停め歩き出すが、雨子庵さんはいないようだ。
この日は、浜松でイベントやってました。浜名湖のカキもプリプリで美味しかったです。
この日は天気も良くてうらやましい。
ちなみに上記の時刻、在住でも怠惰パターンだとまだ寝てる場合多です。モーニングコールお願いします。
浜松でしたか、カキも有名なんだ。
三重だと的矢かな。
また帰りにでもおじゃまします。
帰りに下ってくるトガ尾の末端が伐採されているのを確認しながら林道を上る。ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。ここの木には「上ツヅラ原 右2号」と書かれた昭和27年の白い標識が針金でつけられている。窯跡の前の小谷の反対側に杣道が続いており、小谷には朽ちた木が残っていたので、以前は橋がかけられていたようだ。
木屋谷橋(藤本橋)を渡ったあたりから、昔の道(人道)は今の車道のちょっと上でした。その旧道を横切ったのかも知れませんね。
また、戦後、場所は定かではありませんが、岐阜のほうから炭焼きに来ている人が多かったそうです。権利を買って入山していたらしいです。札はひょっとしたらその名残かも・・・。
窯跡の横を通っていたので、昔の人道かもしれませんね。
その一部が杣道として使われている感じでした。
わざわざ岐阜から焼きに来て採算が合うんですかね。
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
『池杉山に行ってきたよ』とオジヤンに報告したら、『それはどこだ?』と言われたことがあります。
地元の名称ではないかも・・・・。
そうですね。
植林以前、杉山じゃなかったでしょうしね。
名前は呼ぶ地域や時代によって違うことがありますからね。
青田では何と呼んでいたんです?
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。『木地師の習俗(滋賀県・三重県)』には「昔はブナの木を多く使用した。ブナは二百年もたたないと使い物にならないが、栗は二十年もたつと径四寸くらいに育つから、今はもっぱら栗を用いる。それもなければ桧でも作れないことはないが、どうも杓子としてふさわしくない。」という記述がある。青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
先日、青田のお不動さんの祭りで聞いたプチ情報。先ほどの木屋谷橋の上にあった中栃村に住んでいた『藤本さん』は、その昔屋号を『木屋』と言ったそうです。盛伝寺の記録(初耳!)もそうですが、木地師の氏子狩帳に記載のある、『青田の木屋』の場所のナゾがそこで解けて私はうれしかったです。ちなみに、橋を渡った対岸辺りの地名は『木屋むかい』だそうです。
中栃村の入り口付近に住んでみえた藤本さんでしたか。
となりが中栃さんですね。
対岸を「木屋むかい」と呼ぶぐらいだから木屋は中栃村の中核となる屋号だったんですね。
盛伝寺には、他にも杓子屋・筒井・小倉・吹放といった庶民が許されなかった名字が江戸時代に記されています。
余談ですがジロニィにとっては皆さんのハンドルネームは『屋号』という言葉で会話が成立しています。
たとえば、『あの大きい兄ちゃんの「屋号」はなんちゅうんだ?』『グーさんです』『グーチョキパーのグーけ?』『そうです』
こんな感じで 。
オフ会の時にグーさんに杓子をいただいたので、貼っておきます。
飯高の杓子です。
【日 付】2013年11月17日(日)
【山 域】台高
【コース】青田発電所7:08---9:40P1186---10:56桧塚11:30---13:38池杉山---14:34青田発電所
【メンバー】単独
青田発電所の駐車場に停め歩き出すが、雨子庵さんはいないようだ。
この日は、浜松でイベントやってました。浜名湖のカキもプリプリで美味しかったです。
この日は天気も良くてうらやましい。
ちなみに上記の時刻、在住でも怠惰パターンだとまだ寝てる場合多です。モーニングコールお願いします。
浜松でしたか、カキも有名なんだ。
三重だと的矢かな。
また帰りにでもおじゃまします。
帰りに下ってくるトガ尾の末端が伐採されているのを確認しながら林道を上る。ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。ここの木には「上ツヅラ原 右2号」と書かれた昭和27年の白い標識が針金でつけられている。窯跡の前の小谷の反対側に杣道が続いており、小谷には朽ちた木が残っていたので、以前は橋がかけられていたようだ。
木屋谷橋(藤本橋)を渡ったあたりから、昔の道(人道)は今の車道のちょっと上でした。その旧道を横切ったのかも知れませんね。
また、戦後、場所は定かではありませんが、岐阜のほうから炭焼きに来ている人が多かったそうです。権利を買って入山していたらしいです。札はひょっとしたらその名残かも・・・。
窯跡の横を通っていたので、昔の人道かもしれませんね。
その一部が杣道として使われている感じでした。
わざわざ岐阜から焼きに来て採算が合うんですかね。
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
『池杉山に行ってきたよ』とオジヤンに報告したら、『それはどこだ?』と言われたことがあります。
地元の名称ではないかも・・・・。
そうですね。
植林以前、杉山じゃなかったでしょうしね。
名前は呼ぶ地域や時代によって違うことがありますからね。
青田では何と呼んでいたんです?
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。『木地師の習俗(滋賀県・三重県)』には「昔はブナの木を多く使用した。ブナは二百年もたたないと使い物にならないが、栗は二十年もたつと径四寸くらいに育つから、今はもっぱら栗を用いる。それもなければ桧でも作れないことはないが、どうも杓子としてふさわしくない。」という記述がある。青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
先日、青田のお不動さんの祭りで聞いたプチ情報。先ほどの木屋谷橋の上にあった中栃村に住んでいた『藤本さん』は、その昔屋号を『木屋』と言ったそうです。盛伝寺の記録(初耳!)もそうですが、木地師の氏子狩帳に記載のある、『青田の木屋』の場所のナゾがそこで解けて私はうれしかったです。ちなみに、橋を渡った対岸辺りの地名は『木屋むかい』だそうです。
中栃村の入り口付近に住んでみえた藤本さんでしたか。
となりが中栃さんですね。
対岸を「木屋むかい」と呼ぶぐらいだから木屋は中栃村の中核となる屋号だったんですね。
盛伝寺には、他にも杓子屋・筒井・小倉・吹放といった庶民が許されなかった名字が江戸時代に記されています。
余談ですがジロニィにとっては皆さんのハンドルネームは『屋号』という言葉で会話が成立しています。
たとえば、『あの大きい兄ちゃんの「屋号」はなんちゅうんだ?』『グーさんです』『グーチョキパーのグーけ?』『そうです』
こんな感じで 。
オフ会の時にグーさんに杓子をいただいたので、貼っておきます。
飯高の杓子です。
Re: 【台高】杓子の里を廻る ヅヅラ原尾を上りトガ尾を下る
わりばしさん、おはようございます。
17日は雨の予報でしたが、予想外にいい天気になりましたね。その日は私は奥美濃の沢にいましたが、のんびりと沢歩きを楽しむことができました。
今年の秋はなにやら慌ただしく過ぎて行ってしまった。いつの間にか台高の千メートルの稜線部での紅葉の見時はすぎさり森は冬の準備をはじめている。私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
桧塚東尾根ですか。あそこは私も好きな尾根で何度か歩いたことがあります。急な斜面もなくてのんびり歩くにはいい尾根ですね。人も少ないし。
杣道はツヅ田原谷に沿いながら上って行く。出合には滝がかかっているが、その上部は荒れており、ツヅ田原橋を橋脚ごと破壊した土石流の痕跡がそのまま残っている。えん堤を越えると杣道は尾根筋に向かいツヅラ折れに上って行く。尾根が広がり緩斜面になった植林の真ん中に窯跡がありその上部の木に同じ年につけられた4号標識がつけられていた。ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。以前zippさんも指摘していたが「ツヅラ原」が「ツヅタ原」になり、そこに漢字の田を当てたもんだから訳のわからない「ツヅ田原」になってしまったようだ。
私はこの尾根は歩いたことがないですね。台高も鈴鹿もまだまだ歩いていないところが沢山あります。まだまだ楽しめそうです。
桧塚まで行くが、今日は奥峰にもだれもいない。桧塚から少し戻り、トガ尾まで見渡せる展望抜群の草地で昼食をとった。
天気予報が悪かったですからね。私もその日は誰にも会いませんでした。
P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
はい、ここから見た桧塚は雄大でいいです。
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
私も前回はこの伐採地を降りましたが、急斜面で降りにくいですよね。時間的には林道とそれほど変わらないかも。
17日は雨の予報でしたが、予想外にいい天気になりましたね。その日は私は奥美濃の沢にいましたが、のんびりと沢歩きを楽しむことができました。
今年の秋はなにやら慌ただしく過ぎて行ってしまった。いつの間にか台高の千メートルの稜線部での紅葉の見時はすぎさり森は冬の準備をはじめている。私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
桧塚東尾根ですか。あそこは私も好きな尾根で何度か歩いたことがあります。急な斜面もなくてのんびり歩くにはいい尾根ですね。人も少ないし。
杣道はツヅ田原谷に沿いながら上って行く。出合には滝がかかっているが、その上部は荒れており、ツヅ田原橋を橋脚ごと破壊した土石流の痕跡がそのまま残っている。えん堤を越えると杣道は尾根筋に向かいツヅラ折れに上って行く。尾根が広がり緩斜面になった植林の真ん中に窯跡がありその上部の木に同じ年につけられた4号標識がつけられていた。ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。以前zippさんも指摘していたが「ツヅラ原」が「ツヅタ原」になり、そこに漢字の田を当てたもんだから訳のわからない「ツヅ田原」になってしまったようだ。
私はこの尾根は歩いたことがないですね。台高も鈴鹿もまだまだ歩いていないところが沢山あります。まだまだ楽しめそうです。
桧塚まで行くが、今日は奥峰にもだれもいない。桧塚から少し戻り、トガ尾まで見渡せる展望抜群の草地で昼食をとった。
天気予報が悪かったですからね。私もその日は誰にも会いませんでした。
P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
はい、ここから見た桧塚は雄大でいいです。
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
私も前回はこの伐採地を降りましたが、急斜面で降りにくいですよね。時間的には林道とそれほど変わらないかも。
@シュークリーム@
Re: 【台高】杓子の里を廻る ヅヅラ原尾を上りトガ尾を下る
こんばんは~、わりばしさん。
私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
冬に向けて!ならば、風の吹きすさぶ北面より、南面蓮側のバリを歩いた方がよろしくない!?
ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。
前に、雨子庵主氏が云っておられたつづ田原橋手前にあるお地蔵さん、気づかれました?
以前は、苔にまみれてよほど注意しないとわからなかったんだけど、おじやんが苔を剥いできれいになってます(^^;字が刻まれているんだけど…。
ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。
九十九曲からじゃないと思うよ。舌切り雀の昔話にでてくる「つづら箱」でしょう。
アオツヅラフジなどはよく細工に使われる植物です。ツヅラフジもしくは、ツル植物が繁茂していた原なんだろうと思うよ。
ブナの木が目立ち始めるとP1186は目と鼻の先だった。
尾根が稜線に出たあたりはいい感じの場所です。
落葉の道を上って行くと、小鳥が落葉に群れており私が近づくと落葉の上を逃げていった。何をしているのだろう?
アトリかな。
蓮側はすべて植林だが稜線は自然林が残り1100m付近ではカエデの紅葉が強烈な印象をあたえてくれる。
植林側、ちょうどカラマツの黄葉がいいころじゃ無かったかなぁ?
P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
ここからの眺望はいいですね~。
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
ナメラのブナの穴は覗かれませんでしたか?
クマかヒキガエルがいたかも(^^;。
池杉山の北面は杉植林の伐採後、新たに植林をしなかったのかな?ヤブになっちゃいましたね。
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。
やっぱりそうなんだよね、栗はどちらかいうと里山の樹だし。山を移動する木地師が自由に伐れる樹じゃなかったろうしね。
青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
へぇ、1700年の記録がありましたか。その頃すでに定着されてるんですね。
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
トガ尾の破線道って、歩いたことないです(^^;。いつも林道を使ってますよ(^^)。
[attachment=0]P6061729_800_640.jpg[/attachment]
zipp
Re: 【台高】杓子の里を廻る ヅヅラ原尾を上りトガ尾を下る
おはようございます、シュークリームさん。
17日は雨の予報でしたが、予想外にいい天気になりましたね。その日は私は奥美濃の沢にいましたが、のんびりと沢歩きを楽しむことができました。
シュークリームさんの沢シーズンはまだまだ続きそうですね。
そろそろ雪が・・・
今年の秋はなにやら慌ただしく過ぎて行ってしまった。いつの間にか台高の千メートルの稜線部での紅葉の見時はすぎさり森は冬の準備をはじめている。私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
桧塚東尾根ですか。あそこは私も好きな尾根で何度か歩いたことがあります。急な斜面もなくてのんびり歩くにはいい尾根ですね。人も少ないし。
この尾根は結構歩かれているみたいですね。
この日は、鹿とアトリに合っただけでした。
杣道はツヅ田原谷に沿いながら上って行く。出合には滝がかかっているが、その上部は荒れており、ツヅ田原橋を橋脚ごと破壊した土石流の痕跡がそのまま残っている。えん堤を越えると杣道は尾根筋に向かいツヅラ折れに上って行く。尾根が広がり緩斜面になった植林の真ん中に窯跡がありその上部の木に同じ年につけられた4号標識がつけられていた。ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。以前zippさんも指摘していたが「ツヅラ原」が「ツヅタ原」になり、そこに漢字の田を当てたもんだから訳のわからない「ツヅ田原」になってしまったようだ。
私はこの尾根は歩いたことがないですね。台高も鈴鹿もまだまだ歩いていないところが沢山あります。まだまだ楽しめそうです。
以外に時間がかかるので下りに使うにはいいかもしれません。
ただ末端の杣道に入るのにツヅタ原からツヅ田原谷沿いに下っていくあたりを間違えなければ、スムーズに下れると思います。
桧塚まで行くが、今日は奥峰にもだれもいない。桧塚から少し戻り、トガ尾まで見渡せる展望抜群の草地で昼食をとった。
天気予報が悪かったですからね。私もその日は誰にも会いませんでした。
展望はあったのですが曇っていましたからねえ。
でも、ポカポカ陽気で暖かかったですよ。
P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
はい、ここから見た桧塚は雄大でいいです。
そうですよね。私はこんな姿の桧塚を初めて見たので驚きました。
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
私も前回はこの伐採地を降りましたが、急斜面で降りにくいですよね。時間的には林道とそれほど変わらないかも。
はい。私も伐採地を下ってからそう思いました。
17日は雨の予報でしたが、予想外にいい天気になりましたね。その日は私は奥美濃の沢にいましたが、のんびりと沢歩きを楽しむことができました。
シュークリームさんの沢シーズンはまだまだ続きそうですね。
そろそろ雪が・・・
今年の秋はなにやら慌ただしく過ぎて行ってしまった。いつの間にか台高の千メートルの稜線部での紅葉の見時はすぎさり森は冬の準備をはじめている。私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
桧塚東尾根ですか。あそこは私も好きな尾根で何度か歩いたことがあります。急な斜面もなくてのんびり歩くにはいい尾根ですね。人も少ないし。
この尾根は結構歩かれているみたいですね。
この日は、鹿とアトリに合っただけでした。
杣道はツヅ田原谷に沿いながら上って行く。出合には滝がかかっているが、その上部は荒れており、ツヅ田原橋を橋脚ごと破壊した土石流の痕跡がそのまま残っている。えん堤を越えると杣道は尾根筋に向かいツヅラ折れに上って行く。尾根が広がり緩斜面になった植林の真ん中に窯跡がありその上部の木に同じ年につけられた4号標識がつけられていた。ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。以前zippさんも指摘していたが「ツヅラ原」が「ツヅタ原」になり、そこに漢字の田を当てたもんだから訳のわからない「ツヅ田原」になってしまったようだ。
私はこの尾根は歩いたことがないですね。台高も鈴鹿もまだまだ歩いていないところが沢山あります。まだまだ楽しめそうです。
以外に時間がかかるので下りに使うにはいいかもしれません。
ただ末端の杣道に入るのにツヅタ原からツヅ田原谷沿いに下っていくあたりを間違えなければ、スムーズに下れると思います。
桧塚まで行くが、今日は奥峰にもだれもいない。桧塚から少し戻り、トガ尾まで見渡せる展望抜群の草地で昼食をとった。
天気予報が悪かったですからね。私もその日は誰にも会いませんでした。
展望はあったのですが曇っていましたからねえ。
でも、ポカポカ陽気で暖かかったですよ。
P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
はい、ここから見た桧塚は雄大でいいです。
そうですよね。私はこんな姿の桧塚を初めて見たので驚きました。
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
私も前回はこの伐採地を降りましたが、急斜面で降りにくいですよね。時間的には林道とそれほど変わらないかも。
はい。私も伐採地を下ってからそう思いました。
Re: 【台高】杓子の里を廻る ヅヅラ原尾を上りトガ尾を下る
おはようございますzippさん。
私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
冬に向けて!ならば、風の吹きすさぶ北面より、南面蓮側のバリを歩いた方がよろしくない!?
ハハハ、そう言われればそうですね。
マナコ谷道を上り下りするだけでは面白味が無いなと思いまして。
ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。
前に、雨子庵主氏が云っておられたつづ田原橋手前にあるお地蔵さん、気づかれました?
以前は、苔にまみれてよほど注意しないとわからなかったんだけど、おじやんが苔を剥いできれいになってます(^^;字が刻まれているんだけど…。
以前書かれてましたね。
忘れてました。
次見に行こうっと。
ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。
九十九曲からじゃないと思うよ。舌切り雀の昔話にでてくる「つづら箱」でしょう。
アオツヅラフジなどはよく細工に使われる植物です。ツヅラフジもしくは、ツル植物が繁茂していた原なんだろうと思うよ。
そうですか。勉強になるなあ。
そういや、うちの家にもつづら箱あるなあ。
『つづらは「九十九」とも変換されるがこれはツヅラフジのつるが曲がりくねっていることが語源とされている。日光のいろは坂のような坂道を「九十九折り」「葛折り」と呼ぶのも、これが語源である。』
九十九折りってツヅラフジが語源とは知らなかった。
ブナの木が目立ち始めるとP1186は目と鼻の先だった。
尾根が稜線に出たあたりはいい感じの場所です。
紅葉も展望もあり心地よい所でした。
落葉の道を上って行くと、小鳥が落葉に群れており私が近づくと落葉の上を逃げていった。何をしているのだろう?
アトリかな。
アトリってどんぐり食べるんだ。
蓮側はすべて植林だが稜線は自然林が残り1100m付近ではカエデの紅葉が強烈な印象をあたえてくれる。
植林側、ちょうどカラマツの黄葉がいいころじゃ無かったかなぁ?
これかな?
P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
ここからの眺望はいいですね~。
桧塚を見直しました。
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
ナメラのブナの穴は覗かれませんでしたか?
クマかヒキガエルがいたかも(^^;。
穴が開いていましたね。
クマにお会いしたかったなあ。
池杉山の北面は杉植林の伐採後、新たに植林をしなかったのかな?ヤブになっちゃいましたね。
モノレールのあるあたりですね。
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。
やっぱりそうなんだよね、栗はどちらかいうと里山の樹だし。山を移動する木地師が自由に伐れる樹じゃなかったろうしね。
当時はブナの大木の森が広がっていたんでしょうね。
青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
へぇ、1700年の記録がありましたか。その頃すでに定着されてるんですね。
いつごろまで、ブナで杓子を作っていたんですかね?
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
トガ尾の破線道って、歩いたことないです(^^;。いつも林道を使ってますよ(^^)。
林道を歩いて正解だと思います。
私も冬に向けて桧塚周辺のバリエーションを増やすために青田を起点にツヅラ平尾を登りトガ尾を降りる周回コースを歩くことにした。
冬に向けて!ならば、風の吹きすさぶ北面より、南面蓮側のバリを歩いた方がよろしくない!?
ハハハ、そう言われればそうですね。
マナコ谷道を上り下りするだけでは面白味が無いなと思いまして。
ツヅ田原橋をすぎ植林側を気にしながら歩くと踏み跡があり上って行くと窯跡に出る。
前に、雨子庵主氏が云っておられたつづ田原橋手前にあるお地蔵さん、気づかれました?
以前は、苔にまみれてよほど注意しないとわからなかったんだけど、おじやんが苔を剥いできれいになってます(^^;字が刻まれているんだけど…。
以前書かれてましたね。
忘れてました。
次見に行こうっと。
ここがツヅラ原という名前が示すように、ツヅラ折れになって上った先にある原なのだろう。
九十九曲からじゃないと思うよ。舌切り雀の昔話にでてくる「つづら箱」でしょう。
アオツヅラフジなどはよく細工に使われる植物です。ツヅラフジもしくは、ツル植物が繁茂していた原なんだろうと思うよ。
そうですか。勉強になるなあ。
そういや、うちの家にもつづら箱あるなあ。
『つづらは「九十九」とも変換されるがこれはツヅラフジのつるが曲がりくねっていることが語源とされている。日光のいろは坂のような坂道を「九十九折り」「葛折り」と呼ぶのも、これが語源である。』
九十九折りってツヅラフジが語源とは知らなかった。
ブナの木が目立ち始めるとP1186は目と鼻の先だった。
尾根が稜線に出たあたりはいい感じの場所です。
紅葉も展望もあり心地よい所でした。
落葉の道を上って行くと、小鳥が落葉に群れており私が近づくと落葉の上を逃げていった。何をしているのだろう?
アトリかな。
アトリってどんぐり食べるんだ。
蓮側はすべて植林だが稜線は自然林が残り1100m付近ではカエデの紅葉が強烈な印象をあたえてくれる。
植林側、ちょうどカラマツの黄葉がいいころじゃ無かったかなぁ?
これかな?
P1115付近からは稜線をしたがえた桧塚の山容が飛び込んでくる。ヌタハラ谷やマナコ谷から見るとなかなか存在感を感じることのない桧塚だが、東から見ると立派なものだ。
ここからの眺望はいいですね~。
桧塚を見直しました。
ナメラ山では植林におおわれるが、頂上直下にはブナの古木が残されている。これ以降は植林に入るのかと思いきや自然林の稜線が続き紅葉が目を楽しませてくれる。池杉山にもブナの大木が残されており、植林以前にはブナの森が広がっていたのだろう。
ナメラのブナの穴は覗かれませんでしたか?
クマかヒキガエルがいたかも(^^;。
穴が開いていましたね。
クマにお会いしたかったなあ。
池杉山の北面は杉植林の伐採後、新たに植林をしなかったのかな?ヤブになっちゃいましたね。
モノレールのあるあたりですね。
青田は、木地師が多く住み杓子を作っていた。今は栗の木で作ることが多いようだが、昔はブナの古木で作っていたようだ。
やっぱりそうなんだよね、栗はどちらかいうと里山の樹だし。山を移動する木地師が自由に伐れる樹じゃなかったろうしね。
当時はブナの大木の森が広がっていたんでしょうね。
青田の盛伝寺に残る木地師と思われる最も古い記録は元禄13年(1700年)の木屋十吉で、三百年前からこの地で杓子を作っていたと考えてよいだろう。それに耐えうるだけのブナの豊かな森が近隣にあり、その名残が池杉山やナメラ山のブナのように思った。
へぇ、1700年の記録がありましたか。その頃すでに定着されてるんですね。
いつごろまで、ブナで杓子を作っていたんですかね?
トガ尾の上部からはモノレールがつけられている。尾根筋を古い鹿除けの金網ネットぞいに下って林道終点をすぎ再び林道に出会う。ここから点線ルートはヤブっぽくなるがそのまま下り、途中から谷に向かう杣道を使い楽勝かと思いきや伐採地に出てしまった。伐採地は見る分には歩きやすそうだがとても歩きにくかった。
トガ尾の破線道って、歩いたことないです(^^;。いつも林道を使ってますよ(^^)。
林道を歩いて正解だと思います。
Re: Re:
わりばしさん、こんばんわ。雨子庵です。
本質とはちと離れて申し訳ないですが・・・。
中栃村の入り口付近に住んでみえた藤本さんでしたか。
となりが中栃さんですね。
対岸を「木屋むかい」と呼ぶぐらいだから木屋は中栃村の中核となる屋号だったんですね。
盛伝寺には、他にも杓子屋・筒井・小倉・吹放といった庶民が許されなかった名字が江戸時代に記されています。
『吹放』の屋号をオジヤンに聞いてみました。
これは『ふきはなし』と呼んだそうです。
場所は昔の青田の小学校(今は広場になってますが)の下流で流れ込んでいる上前谷(笹ガ谷?林道があり、本流に降りる道もあるので分かりやすいところ)の上部の辺りだそうです。
それ以外の苗字は、なんとなく後付け名称っぽいので今回はオジヤンには聞いていませんが・・・。
けど面白そうですね、こうやって糸が少しずつほぐれていくのが・・・。
私、青田の『屋号マップ』作ろうとしてて、以前まったくもって未完成です・・・・。反省・・・。
杓子の写真を載せます。
上が、例の蓮に住んでいた方の作品(戦前・素材:栗)
下が、それを見たオジヤンが、『ワシにもできるんちゃうか』と作った作品(平成・素材:オジヤンをもってしても不明。良い木なので取ってあったそうです)
本質とはちと離れて申し訳ないですが・・・。
中栃村の入り口付近に住んでみえた藤本さんでしたか。
となりが中栃さんですね。
対岸を「木屋むかい」と呼ぶぐらいだから木屋は中栃村の中核となる屋号だったんですね。
盛伝寺には、他にも杓子屋・筒井・小倉・吹放といった庶民が許されなかった名字が江戸時代に記されています。
『吹放』の屋号をオジヤンに聞いてみました。
これは『ふきはなし』と呼んだそうです。
場所は昔の青田の小学校(今は広場になってますが)の下流で流れ込んでいる上前谷(笹ガ谷?林道があり、本流に降りる道もあるので分かりやすいところ)の上部の辺りだそうです。
それ以外の苗字は、なんとなく後付け名称っぽいので今回はオジヤンには聞いていませんが・・・。
けど面白そうですね、こうやって糸が少しずつほぐれていくのが・・・。
私、青田の『屋号マップ』作ろうとしてて、以前まったくもって未完成です・・・・。反省・・・。
杓子の写真を載せます。
上が、例の蓮に住んでいた方の作品(戦前・素材:栗)
下が、それを見たオジヤンが、『ワシにもできるんちゃうか』と作った作品(平成・素材:オジヤンをもってしても不明。良い木なので取ってあったそうです)
Re: Re:
おはようございます雨子庵さん。
中栃村の入り口付近に住んでみえた藤本さんでしたか。
となりが中栃さんですね。
対岸を「木屋むかい」と呼ぶぐらいだから木屋は中栃村の中核となる屋号だったんですね。
盛伝寺には、他にも杓子屋・筒井・小倉・吹放といった庶民が許されなかった名字が江戸時代に記されています。
『吹放』の屋号をオジヤンに聞いてみました。
これは『ふきはなし』と呼んだそうです。
場所は昔の青田の小学校(今は広場になってますが)の下流で流れ込んでいる上前谷(笹ガ谷?林道があり、本流に降りる道もあるので分かりやすいところ)の上部の辺りだそうです。
ふきなしと読むんだ。
私が資料として使っている飯高町郷土史から中栃村の地図を貼っておきますね。
それ以外の苗字は、なんとなく後付け名称っぽいので今回はオジヤンには聞いていませんが・・・。
けど面白そうですね、こうやって糸が少しずつほぐれていくのが・・・。
筒井・小倉は木地師に多い名前です。
全国の木地師集団は2派に分かれていました。
一つは近江君ケ畑の大皇大明神を崇める派
もう一つは近江蛭谷の筒井八幡宮を崇める派です。
中栃村に筒井八幡跡があり青田にも筒井姓があることからこのあたりが蛭谷派であることがわかります。
ちなみに伊勢の木地師の中心地であった大紀町柏崎には大皇神社があるので君ケ畑派で、派閥が違うんですよね。
私、青田の『屋号マップ』作ろうとしてて、以前まったくもって未完成です・・・・。反省・・・。
杓子屋は屋号として使われた感じがしますが。
杓子の写真を載せます。
上が、例の蓮に住んでいた方の作品(戦前・素材:栗)
下が、それを見たオジヤンが、『ワシにもできるんちゃうか』と作った作品(平成・素材:オジヤンをもってしても不明。良い木なので取ってあったそうです)
さすがオジヤンですね。
すばらしい。
「杓子定規」「猫も杓子も」「おたまじゃくし(お多賀杓子)」と日常的に身近な存在であった杓子が
この五十年ばかりの間に消滅寸前になるとは昔の人は思わなかったでしょうね。
中栃村の入り口付近に住んでみえた藤本さんでしたか。
となりが中栃さんですね。
対岸を「木屋むかい」と呼ぶぐらいだから木屋は中栃村の中核となる屋号だったんですね。
盛伝寺には、他にも杓子屋・筒井・小倉・吹放といった庶民が許されなかった名字が江戸時代に記されています。
『吹放』の屋号をオジヤンに聞いてみました。
これは『ふきはなし』と呼んだそうです。
場所は昔の青田の小学校(今は広場になってますが)の下流で流れ込んでいる上前谷(笹ガ谷?林道があり、本流に降りる道もあるので分かりやすいところ)の上部の辺りだそうです。
ふきなしと読むんだ。
私が資料として使っている飯高町郷土史から中栃村の地図を貼っておきますね。
それ以外の苗字は、なんとなく後付け名称っぽいので今回はオジヤンには聞いていませんが・・・。
けど面白そうですね、こうやって糸が少しずつほぐれていくのが・・・。
筒井・小倉は木地師に多い名前です。
全国の木地師集団は2派に分かれていました。
一つは近江君ケ畑の大皇大明神を崇める派
もう一つは近江蛭谷の筒井八幡宮を崇める派です。
中栃村に筒井八幡跡があり青田にも筒井姓があることからこのあたりが蛭谷派であることがわかります。
ちなみに伊勢の木地師の中心地であった大紀町柏崎には大皇神社があるので君ケ畑派で、派閥が違うんですよね。
私、青田の『屋号マップ』作ろうとしてて、以前まったくもって未完成です・・・・。反省・・・。
杓子屋は屋号として使われた感じがしますが。
杓子の写真を載せます。
上が、例の蓮に住んでいた方の作品(戦前・素材:栗)
下が、それを見たオジヤンが、『ワシにもできるんちゃうか』と作った作品(平成・素材:オジヤンをもってしても不明。良い木なので取ってあったそうです)
さすがオジヤンですね。
すばらしい。
「杓子定規」「猫も杓子も」「おたまじゃくし(お多賀杓子)」と日常的に身近な存在であった杓子が
この五十年ばかりの間に消滅寸前になるとは昔の人は思わなかったでしょうね。