木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース+α

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わりばし
記事: 1766
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース+α

投稿記事 by わりばし »

【日 時】2011年4月3日(日)
【山 域】奥美濃
【コース】小津駐車地7:00---9:26高屋山---10:45小津権現山---13:57花房山---
14:48林道終点---16:54小津駐車地
【メンバー】単独

スノー衆以来、気になっていた小津権現山と花房山を周回するコースを歩くことにした。小津集落が、このあたりの木地師の中心地であったことや白山神社に「元文庚申歳八月小津惣村木地屋惣中」と刻まれた石灯籠があることをスノー衆から帰って来てから知った。木地師とは、良材を求めて山々を巡っていた椀木地製作の工人の総称になる。権現は、白山権現のことで、白山を展望できる小津権現山の祠が奥宮で白山神社が里宮になる。元文庚申歳は、元文五年で徳川吉宗の時代にあたり、治田鉱山が繁栄を極めた頃だ。

小津の体育館に駐車し、白山神社横の登山口から上る。スギ花粉症がひどいので、植林地はマスクをして上る。そうでなくても汗かきなのに、マスクをしながら上ると余計に汗をかく。杉谷林道終点からは自然林に変わるのでマスクを取る。マンサクの黄色い花が咲いており、春の訪れを感じさせてくれる。高屋山までは地元の人も上ってきているようで枝がはらわれていた。雪はしっかり残っており、忘れたころに登山道が見え隠れする程度だ。前衛峰をすぎた下りの日陰の急斜面が凍っている。慎重に下ったのだが、すべってしまい落ちていく、スピードが出てきてしまったので木にしがみつき事なきをえた。
マンサク
マンサク
ひと上りすると小津権現山の頂上で、祠がある。祠は台の上に置かれているが、雪上に置かれているように見える。1m以上の積雪はありそうだ。ここからは、揖斐川と大きく開ける濃尾平野が目に飛び込んでくる。伊吹山や金糞岳が見え、能郷白山と白山が白く輝いている。ここで、アイゼンをつけピッケルに持ちかえる。遠く花房山までの稜線が見渡せる。この稜線に踏み跡はなし。
小津権現山
小津権現山
雪の急な斜面を下りていく。雪庇には亀裂が入っているので要注意だ。雪庇が広い所は問題ないのだが、狭まってくると樹林帯に逃げ込むしかない。この樹林帯、よりによって程よく色づいた立派な杉が多い。雪原には黄色の文様が・・・今晩は鼻づまりがひどくなるなあ。雪がとけヤブが出ているところもあり、ヤブこぎ状態だ。夏道は所々見えるが、登山道なのか獣道なのかわからない状態だった。この状態は、P1096まで続いた。この日は樹林帯のある揖斐川側は風が吹いており、寒くなり途中からカッパを着て歩いた。
花房山
花房山
P1096からは雪の量も多くなる。花房山は正面に見えるのだが谷が深く入り込み、稜線はつの字を書くように回り込んでいる。この地形が、花の房に見えるのだろう。朝からの曇り空も青空が見えるようになってきた。だれも歩いていない雪の斜面を時間をかけて上っていく、最後の雪庇を越えると頂上だった。なんと、新しい踏み跡がある。どうも揖斐川側から上ってきた人がいたようだ。花房山の頂上からは、小津権現からは見えなかった徳山ダムと能郷白山が存在感を示している。白く霞む白山も見える。ここまで、長い道程だったがこの壮大なパノラマに疲れも吹っ飛んだ。
徳山ダムと能郷白山
徳山ダムと能郷白山
来た道をもどり、モレ谷林道終点に向けて下りている尾根を降りる。30分で林道に降りられて、目出たしと思った。ところが林道は、見えるだけで何箇所も崩壊している。しかも、山の斜面から雪崩れた雪が林道上に斜めに積もり固まっており平らな箇所はほとんどない。気を引き締めて歩いていく。下に水が流れ雪洞上になっている箇所を渡ったり、崩壊した斜面にピッケルを突き刺しながら歩いたりと、この林道が一番緊張した。結局モレ谷林道ゲート近くまで林道の雪上訓練は続いた。アイゼンがなければ、えらい目に合ったと思う。今回は林道を日の明るい内に下れたのでよかったが、暗くなれば登山道よりたちが悪いだろう。
白山神社の石灯篭
白山神社の石灯篭
途中でデポしてあったママチャリに乗って、白山神社に向かった。木地惣中の石灯籠を探すが、ここにはいくつも石灯籠がある。地元のおじいちゃんに聞くと、白山神社以外に2つの神社が過疎で集落が無くなったために合社してあるそうだ。石灯籠の事を聞いたが、「(歴史に)くわしい者が亡くなって、今はわからない」という事だったので探してみると、神社の入口にある石灯籠に「元文庚申歳八月小津惣村木地屋惣中」の文字が刻まれてあった。白山神社の供物を片付けていたおばあちゃんから「御神酒やから飲み」と言われ、形だけ飲ませていただいた。昨年の大平寺の円空仏の時といい、御神酒とのめぐり合わせが良いようだ。神社の境内からは長年にわたり小津の盛衰を見てきた大杉が集落を見つめていた。
最後に編集したユーザー わりばし [ 2011年4月13日(水) 16:10 ], 累計 1 回
skywalk
記事: 520
登録日時: 2011年3月07日(月) 21:33

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by skywalk »

日 時】2011年4月3日(日)
わりばしさん、こんばんは。
この日、私は花房、権現を背に天狗山の東尾根を登っていました。
天狗から花房と権現
天狗から花房と権現
スノー衆以来、気になっていた小津権現山と花房山を周回するコースを歩くことにした。

周回するってどうやってと思ったら最後まで読んで分かりました。しかし、ロングこースですね。

権現は、白山権現のことで、白山を展望できる小津権現山の祠が奥宮で白山神社が里宮になる。元文庚申歳は、元文五年で徳川吉宗の時代にあたり、治田鉱山が繁栄を極めた頃だ。

歴史のありそうなところですね。能郷白山も権現山の別称があるから関係ありそう。

小津の体育館に駐車し、白山神社横の登山口から上る。スギ花粉症がひどいので、植林地はマスクをして上る。そうでなくても汗かきなのに、マスクをしながら上ると余計に汗をかく。

つらいですね。私は花粉症とは無縁で実感できません。最近はアレルゲンが少しずつ染み出す治療法もあるみたいですから試してみたら。

前衛峰をすぎた下りの日陰の急斜面が凍っている。慎重に下ったのだが、すべってしまい落ちていく、スピードが出てきてしまったので木にしがみつき事なきをえた

少しだけ急な下りでアイゼン付けずにモノグサしたくなりますが、付けた方がいいですね。

遠く花房山までの稜線が見渡せる。この稜線に踏み跡はなし雪の急な斜面を下りていく。雪庇には亀裂が入っているので要注意だ。雪庇が広い所は問題ないのだが、狭まってくると樹林帯に逃げ込むしかない。この樹林帯、よりによって程よく色づいた立派な杉が多い。雪原には黄色の文様が・・・今晩は鼻づまりがひどくなるなあ。

またも強敵が現れた。

雪がとけヤブが出ているところもあり、ヤブこぎ状態だ。夏道は所々見えるが、登山道なのか獣道なのかわからない状態だった。この状態は、P1096まで続いた。この日は樹林帯のある揖斐川側は風が吹いており、寒くなり途中からカッパを着て歩いた。

やっぱりヤブでしたか。天狗山では風はなく穏やかでした。

花房山は正面に見えるのだが谷が深く入り込み、稜線はつの字を書くように回り込んでいる。

以前、藤橋から花房山に登った時は間違えて一本南の尾根に乗ってしまい「つ」の字から回り込むことになりましたが、あまりの笹ヤブに閉口して谷側の雪渓の上を歩いていきました。

白く霞む白山も見える。ここまで、長い道程だったがこの壮大なパノラマに疲れも吹っ飛んだ

登頂おめでとうございます。

来た道をもどり、モレ谷林道終点に向けて下りている尾根を降りる。30分で林道に降りられて、目出たしと思った

モレ谷林道の終点から歩いたら何度も大きな折り返しがあってすごい距離になりますが、どのあたりで林道に出合ったのですか。

途中でデポしてあったママチャリに乗って、白山神社に向かった。神社の境内からは長年にわたり小津の盛衰を見てきた大杉が集落を見つめていた
神社の神様が見守ってくれたのでしょうか。成功おめでとうございます。
biwaco
記事: 1423
登録日時: 2011年2月22日(火) 16:56
お住まい: 滋賀県近江八幡市

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by biwaco »

わりばしさん、ご無沙汰してます。
スノ―衆のリベンジ、お疲れさまでした。忘れ物探しどころか、ついでに花房巡りの大周回とは、わりばしさんの体力あってのスゴワザやないですか!
スノー衆以来、気になっていた小津権現山と花房山を周回するコースを歩くことにした。小津集落が、このあたりの木地師の中心地であったことや白山神社に「元文庚申歳八月小津惣村木地屋惣中」と刻まれた石灯籠があることをスノー衆から帰って来てから知った。木地師とは、良材を求めて山々を巡っていた椀木地製作の工人の総称になる。権現は、白山権現のことで、白山を展望できる小津権現山の祠が奥宮で白山神社が里宮になる。元文庚申歳は、元文五年で徳川吉宗の時代にあたり、治田鉱山が繁栄を極めた頃だ。
歴史民俗学の実地勉強までしてきましたか。(^O^)/
木地師集落は各地にありますね。奥永源寺の君ヶ畑も木地師発祥の地とか言われてます。
小津の体育館に駐車し、白山神社横の登山口から上る。スギ花粉症がひどいので、植林地はマスクをして上る。高屋山までは地元の人も上ってきているようで枝がはらわれていた。雪はしっかり残っており、忘れたころに登山道が見え隠れする程度だ。
苦労して辿り着いた高屋山なのに、もう到着ですか?
前衛峰をすぎた下りの日陰の急斜面が凍っている。慎重に下ったのだが、すべってしまい落ちていく、スピードが出てきてしまったので木にしがみつき事なきをえた。


そんなヤバイところありましたっけ? まあ、山は気候と時期でマッタク別の山みたいになりますけど。
わりばしさんの巨体を支えてくれた木に感謝せな。m(__)m
ひと上りすると小津権現山の頂上で、祠がある。祠は台の上に置かれているが、雪上に置かれているように見える。1m以上の積雪はありそうだ。ここからは、揖斐川と大きく開ける濃尾平野が目に飛び込んでくる。伊吹山や金糞岳が見え、能郷白山と白山が白く輝いている。ここで、アイゼンをつけピッケルに持ちかえる。遠く花房山までの稜線が見渡せる。この稜線に踏み跡はなし。


もう山頂ですか!あっさりクリアですね。
実はここからが本命だったとか?
雪の急な斜面を下りていく。雪庇には亀裂が入っているので要注意だ。雪庇が広い所は問題ないのだが、狭まってくると樹林帯に逃げ込むしかない。この樹林帯、よりによって程よく色づいた立派な杉が多い。雪原には黄色の文様が・・・今晩は鼻づまりがひどくなるなあ。雪がとけヤブが出ているところもあり、ヤブこぎ状態だ。夏道は所々見えるが、登山道なのか獣道なのかわからない状態だった。この状態は、P1096まで続いた。この日は樹林帯のある揖斐川側は風が吹いており、寒くなり途中からカッパを着て歩いた。


雪庇、クレバスにヤブ…、残雪期の山の状態は様々です。
P1096からは雪の量も多くなる。花房山は正面に見えるのだが谷が深く入り込み、稜線はつの字を書くように回り込んでいる。この地形が、花の房に見えるのだろう。朝からの曇り空も青空が見えるようになってきた。だれも歩いていない雪の斜面を時間をかけて上っていく、最後の雪庇を越えると頂上だった。なんと、新しい踏み跡がある。どうも揖斐川側から上ってきた人がいたようだ。花房山の頂上からは、小津権現からは見えなかった徳山ダムと能郷白山が存在感を示している。白く霞む白山も見える。ここまで、長い道程だったがこの壮大なパノラマに疲れも吹っ飛んだ。
う~ん、行ってみたくなったやないですか。どっちからチャレンジするかなあ…?
実は3日は美濃俣丸~笹ヶ峰へ行ってました。徳山ダムの替わりに広野ダムをを見下ろして、白山や能郷白山も拝んできました。
来た道をもどり、モレ谷林道終点に向けて下りている尾根を降りる。30分で林道に降りられて、目出たしと思った。ところが林道は、見えるだけで何箇所も崩壊している。しかも、山の斜面から雪崩れた雪が林道上に斜めに積もり固まっており平らな箇所はほとんどない。気を引き締めて歩いていく。下に水が流れ雪洞上になっている箇所を渡ったり、崩壊した斜面にピッケルを突き刺しながら歩いたりと、この林道が一番緊張した。結局モレ谷林道ゲート近くまで林道の雪上訓練は続いた。アイゼンがなければ、えらい目に合ったと思う。今回は林道を日の明るい内に下れたのでよかったが、暗くなれば登山道よりたちが悪いだろう。

P4030353.jpg
P4030353.jpg (40.26 KiB) 閲覧された回数 5349 回
全く同感。源平谷山を下った後の大河内林道もデブリや頼りないスノーブリッジ、スノーアーチをヒヤヒヤもので通過して、登るときより汗かきました。(>o<)
白山神社の供物を片付けていたおばあちゃんから「御神酒やから飲み」と言われ、形だけ飲ませていただいた。昨年の大平寺の円空仏の時といい、御神酒とのめぐり合わせが良いようだ。
雛祭りの白酒が発酵してマッコリになってませんでした?
ラストに酔いことがあったのは権現様の御利益だったのかもね~。(^O^)/

                    ~biwaco
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わりばし
記事: 1766
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、skywalkさん。

またニアミス状態でしたね。


スノー衆以来、気になっていた小津権現山と花房山を周回するコースを歩くことにした。

周回するってどうやってと思ったら最後まで読んで分かりました。しかし、ロングこースですね。


林道が長いのですが、一応周回になっています。ハハハ・・・ :|

権現は、白山権現のことで、白山を展望できる小津権現山の祠が奥宮で白山神社が里宮になる。元文庚申歳は、元文五年で徳川吉宗の時代にあたり、治田鉱山が繁栄を極めた頃だ。

歴史のありそうなところですね。能郷白山も権現山の別称があるから関係ありそう。


奥美濃は白山信仰が強かったので、このあたりの権現は白山権現なんだと思います。白山を展望できる山ならなおのことですね。

前衛峰をすぎた下りの日陰の急斜面が凍っている。慎重に下ったのだが、すべってしまい落ちていく、スピードが出てきてしまったので木にしがみつき事なきをえた

少しだけ急な下りでアイゼン付けずにモノグサしたくなりますが、付けた方がいいですね。


その通りです。権現山でつけようと思い、もうすぐだからとモノグサな考えをおこしてしまいました。

遠く花房山までの稜線が見渡せる。この稜線に踏み跡はなし雪の急な斜面を下りていく。雪庇には亀裂が入っているので要注意だ。雪庇が広い所は問題ないのだが、狭まってくると樹林帯に逃げ込むしかない。この樹林帯、よりによって程よく色づいた立派な杉が多い。雪原には黄色の文様が・・・今晩は鼻づまりがひどくなるなあ。

またも強敵が現れた。


この晩はひどくて一晩中鼻をかんでいました :oops:

花房山は正面に見えるのだが谷が深く入り込み、稜線はつの字を書くように回り込んでいる。

以前、藤橋から花房山に登った時は間違えて一本南の尾根に乗ってしまい「つ」の字から回り込むことになりましたが、あまりの笹ヤブに閉口して谷側の雪渓の上を歩いていきました。


花房山は雪がたっぷりあったのでヤブコギは回避できました。
小津権現山と花房山までの稜線
小津権現山と花房山までの稜線
白く霞む白山も見える。ここまで、長い道程だったがこの壮大なパノラマに疲れも吹っ飛んだ

登頂おめでとうございます。


ありがとうございます。 :P
能郷白山
能郷白山
来た道をもどり、モレ谷林道終点に向けて下りている尾根を降りる。30分で林道に降りられて、目出たしと思った

モレ谷林道の終点から歩いたら何度も大きな折り返しがあってすごい距離になりますが、どのあたりで林道に出合ったのですか。


林道の終点からです。途中二回ワープしましたが、林道上の崖に出てしまうのでお勧めできません。

とにかく林道は長いのですが、それよりも気を使いました。


途中でデポしてあったママチャリに乗って、白山神社に向かった。神社の境内からは長年にわたり小津の盛衰を見てきた大杉が集落を見つめていた
神社の神様が見守ってくれたのでしょうか。成功おめでとうございます。


白山神社の歴史を感じさせてくれる杉の大木が何本も境内にあります。
小津白山神社の大杉
小津白山神社の大杉

                                                     わりばし
最後に編集したユーザー わりばし [ 2011年4月07日(木) 10:42 ], 累計 1 回
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わりばし
記事: 1766
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by わりばし »

おはようございます、biwacoさん。

歴史民俗学の実地勉強までしてきましたか。(^O^)/
木地師集落は各地にありますね。奥永源寺の君ヶ畑も木地師発祥の地とか言われてます。


小津は君ヶ畑系の木地師集団だったようです。このあたりのまとめ役の集落ですから、君ヶ畑の奥美濃支店のようなもんです。
木が少なくなって伊勢木地師とのいざこざがあったようです。この木地師は蛭谷系ですから、蛭谷の伊勢支店とのいざこざです。
近江の小椋谷にある君ヶ畑も蛭谷も木地師発祥の地と主張して、木地山の取得権争いを全国でしていました。恐るべき近江です。
千種街道の利権を近江の保内商人が握っていたように、当時の近江にはかなりの政治力と財政力があったのでしょう。


苦労して辿り着いた高屋山なのに、もう到着ですか?

高屋山までは地元の人も登られる様で、きれいにヤブが刈り取られていました。
これからの時期は、ハイキングコースて感じです。


そんなヤバイところありましたっけ? まあ、山は気候と時期でマッタク別の山みたいになりますけど。
わりばしさんの巨体を支えてくれた木に感謝せな。m(__)m


スノー衆では到達していない場所です。日陰の部分が凍っていたんですよね・・・
なぎ倒した枝に感謝せねば・・


もう山頂ですか!あっさりクリアですね。
実はここからが本命だったとか?

小津権現山の奥宮
小津権現山の奥宮
う~ん、行ってみたくなったやないですか。どっちからチャレンジするかなあ…?
実は3日は美濃俣丸~笹ヶ峰へ行ってました。徳山ダムの替わりに広野ダムをを見下ろして、白山や能郷白山も拝んできました。


今年は奥美濃を攻めますね・・・

魅せられてしまいましたか?

白山
白山
金糞山
金糞山
全く同感。源平谷山を下った後の大河内林道もデブリや頼りないスノーブリッジ、スノーアーチをヒヤヒヤもので通過して、登るときより汗かきました。(>o<)

ご苦労様でした。下山したと思った所での危険な林道とは、トホホ・・・

雛祭りの白酒が発酵してマッコリになってませんでした?
ラストに酔いことがあったのは権現様の御利益だったのかもね~。(^O^)/


ありがとうございます。

御神酒は、権現様の御利益かもしれません。

帰ってからは、杉様の御利益で一晩中鼻水に苦しめられました。

                                     わりばし
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山日和
記事: 3583
登録日時: 2011年2月20日(日) 10:12
お住まい: 大阪府箕面市

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by 山日和 »

わりばしさん、こんばんは。

小津集落が、このあたりの木地師の中心地であったことや白山神社に「元文庚申歳八月小津惣村木地屋惣中」と刻まれた石灯籠があることをスノー衆から帰って来てから知った。木地師とは、良材を求めて山々を巡っていた椀木地製作の工人の総称になる。権現は、白山権現のことで、白山を展望できる小津権現山の祠が奥宮で白山神社が里宮になる。元文庚申歳は、元文五年で徳川吉宗の時代にあたり、治田鉱山が繁栄を極めた頃だ。

わりばしさんの知的好奇心が刺激されましたね。

スギ花粉症がひどいので、植林地はマスクをして上る。そうでなくても汗かきなのに、マスクをしながら上ると余計に汗をかく。

花粉症はつらいですね。私は奇跡的に治りましたが、10年以上前は夜は鼻が詰まって寝られなかったり、しゃべるのが億劫になったりひどいもんでした。

前衛峰をすぎた下りの日陰の急斜面が凍っている。慎重に下ったのだが、すべってしまい落ちていく、スピードが出てきてしまったので木にしがみつき事なきをえた。

危ないとこでしたね。この下りは雪の時は緊張するところですが、凍ってればなおさらです。

ひと上りすると小津権現山の頂上で、祠がある。祠は台の上に置かれているが、雪上に置かれているように見える。1m以上の積雪はありそうだ。

今年はホントに雪が多い。普段ならこの時期は地肌が見えてます。

雪の急な斜面を下りていく。雪庇には亀裂が入っているので要注意だ。雪庇が広い所は問題ないのだが、狭まってくると樹林帯に逃げ込むしかない。

微妙な季節です。もう少し早ければ楽できたでしょうね。

花房山は正面に見えるのだが谷が深く入り込み、稜線はつの字を書くように回り込んでいる。

東前ノ谷の緩やかな源頭部が回りこんでいるところですね。遠くから見るとカール地形のようで目を惹きます。

来た道をもどり、モレ谷林道終点に向けて下りている尾根を降りる。30分で林道に降りられて、目出たしと思った。
ところが林道は、見えるだけで何箇所も崩壊している。しかも、山の斜面から雪崩れた雪が林道上に斜めに積もり固まっており平らな箇所はほとんどない。気を引き締めて歩いていく。下に水が流れ雪洞上になっている箇所を渡ったり、崩壊した斜面にピッケルを突き刺しながら歩いたりと、この林道が一番緊張した。


これは林道へ出てからずっと林道を辿ったんでしょうか。林道を突っ切ってそのまま尾根を下りれば地形図の「モレ谷」の「モ」の字のあたりへ出ます。この方が楽ですよ。

白山神社の供物を片付けていたおばあちゃんから「御神酒やから飲み」と言われ、形だけ飲ませていただいた。

小津の集落はいい人ばかりのような気がします。山旅の終わりにほっこりしましたね。お疲れさまでした。

                             山日和
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わりばし
記事: 1766
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by わりばし »

こんばんは、山日和さん。

小津集落が、このあたりの木地師の中心地であったことや白山神社に「元文庚申歳八月小津惣村木地屋惣中」と刻まれた石灯籠があることをスノー衆から帰って来てから知った。木地師とは、良材を求めて山々を巡っていた椀木地製作の工人の総称になる。権現は、白山権現のことで、白山を展望できる小津権現山の祠が奥宮で白山神社が里宮になる。元文庚申歳は、元文五年で徳川吉宗の時代にあたり、治田鉱山が繁栄を極めた頃だ。

わりばしさんの知的好奇心が刺激されましたね。

緑水さんがちらっと木地師の事をいってたので、思わず調べてみました。
木地師が寄進した江戸時代の灯篭
木地師が寄進した江戸時代の灯篭
スギ花粉症がひどいので、植林地はマスクをして上る。そうでなくても汗かきなのに、マスクをしながら上ると余計に汗をかく。

花粉症はつらいですね。私は奇跡的に治りましたが、10年以上前は夜は鼻が詰まって寝られなかったり、しゃべるのが億劫になったりひどいもんでした。

薬を飲んでるのに効かないんですよね。花粉の季節にマラソンしていたのが間違いでした。

前衛峰をすぎた下りの日陰の急斜面が凍っている。慎重に下ったのだが、すべってしまい落ちていく、スピードが出てきてしまったので木にしがみつき事なきをえた。

危ないとこでしたね。この下りは雪の時は緊張するところですが、凍ってればなおさらです。

細い木がたくさんあったので、大丈夫と思ったのですが・・・

雪の急な斜面を下りていく。雪庇には亀裂が入っているので要注意だ。雪庇が広い所は問題ないのだが、狭まってくると樹林帯に逃げ込むしかない。

微妙な季節です。もう少し早ければ楽できたでしょうね。

この時期にこれだけ雪が残っていてくれたので、良しとしなければならないでしょうね。
花房山
花房山
花房山は正面に見えるのだが谷が深く入り込み、稜線はつの字を書くように回り込んでいる。

東前ノ谷の緩やかな源頭部が回りこんでいるところですね。遠くから見るとカール地形のようで目を惹きます。

なかなかいい所です。
東前ノ谷源頭部
東前ノ谷源頭部
来た道をもどり、モレ谷林道終点に向けて下りている尾根を降りる。30分で林道に降りられて、目出たしと思った。
ところが林道は、見えるだけで何箇所も崩壊している。しかも、山の斜面から雪崩れた雪が林道上に斜めに積もり固まっており平らな箇所はほとんどない。気を引き締めて歩いていく。下に水が流れ雪洞上になっている箇所を渡ったり、崩壊した斜面にピッケルを突き刺しながら歩いたりと、この林道が一番緊張した。


これは林道へ出てからずっと林道を辿ったんでしょうか。林道を突っ切ってそのまま尾根を下りれば地形図の「モレ谷」の「モ」の字のあたりへ出ます。この方が楽ですよ。

2回ほど林道をワープしましたが、たしかに尾根を突き切ったほうが楽ですね。 :shock:

白山神社の供物を片付けていたおばあちゃんから「御神酒やから飲み」と言われ、形だけ飲ませていただいた。

小津の集落はいい人ばかりのような気がします。山旅の終わりにほっこりしましたね。お疲れさまでした。

こういう出合いはいいもんです。気持ちが暖かくなりますね。

                                 わりばし                          
宮指路
記事: 1008
登録日時: 2011年2月27日(日) 21:13

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by 宮指路 »

わりばしさん、こんにちは :D

私も小津権現はスノーシューの撤退以来気になっていた山ですが、結局行けずじまいです。
花房山までの縦走は流石ですね。ちょっとマネできません。私ならせいぜい山頂往復と言ったところです。

途中ではちょっと危ない目に遭いましたね弘法も筆の誤りと言ったところでしょうか? :roll:

花房山の言われは尾根の形から来たとは知りませんでした。
ここも行きたい山の一つですが、この時期は雪が多くて揖斐川からでもアプローチが大変なんでしょうね。



                                                              宮指路
アバター
わりばし
記事: 1766
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース

投稿記事 by わりばし »


こんにちは、宮指路さん。

私も小津権現はスノーシューの撤退以来気になっていた山ですが、結局行けずじまいです。

雪が固まっているのでらくですよ。
小津権現山から花房山への縦走路
小津権現山から花房山への縦走路
途中ではちょっと危ない目に遭いましたね弘法も筆の誤りと言ったところでしょうか?

なんて言いながら滑落しそうになってるし :mrgreen:

花房山の言われは尾根の形から来たとは知りませんでした。

山の形がそうですからそうだと思いますよ・・・
花房山
花房山
ここも行きたい山の一つですが、この時期は雪が多くて揖斐川からでもアプローチが大変なんでしょうね。

どうですかね。揖斐川方面から小津権現山にも花房山にもトレースがありましたから、藤橋から登るひとはいるみたいですよ。ためしてみてはどうですか?    
花房山山頂
花房山山頂
      わりばし                                                          
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わりばし
記事: 1766
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
お住まい: 三重県津市

木地師の里を巡る旅 in ヤミテン

投稿記事 by わりばし »

【日 時】2011年4月10日(日)
【山 域】台高
【コース】青田発電所8:35---10:53帝釈山11:17---12:16青田発電所
【メンバー】単独

zippヤミテンプラオフ会が蓮で行われるので、以前から気になっていた飯高の木地師関連の史跡めぐりをする事にした。9日4時に蓮小学校跡集合なので、少し早めに出てこの日は江馬小屋の探索に行く。江馬小屋口の道端に寛政8年(1796年)の「木地屋六郎衛門息女」墓があるという、途中で会ったzippに聞いてみたが林道沿いにはないようだ。しかたがないので、林道から河原に下りようと踏み跡を歩いていくと、墓がある。もしやと思い見てみると間違いない。おそらく以前の道は今の林道より2m程低い所を通っていたのだろう、道をかさ上げした時からこの墓も忘れさられていったようだ。この墓は飯高で唯一「木地屋」と刻まれたもので、この上流の屋敷跡を江馬小屋の木地屋の屋敷跡と断定できる貴重な史跡になる。

江馬小屋口の木地師の娘の墓
江馬小屋口の木地師の娘の墓
一度河原に下りてから対岸に渡る。対岸に屋敷跡があるはずなので堰堤を巻いて500m程上っていくと屋敷跡が残っている。一部は土砂崩れで消えているものの、土瓶や水筒などの生活の跡も残っている。屋敷跡を上っていくとモミの大木が残されていた。この集落を守る木のようだ。集落跡から赤い鉄橋を渡り林道を下った。木地屋の墓は、昔あった寺の記録には戒名が残されていない。どうした経緯でここに残されたのかと思ってしまう。
江馬小屋の鎮守の木
江馬小屋の鎮守の木
蓮小学校跡地でヤミテンオフ会が行われる。この集落は、小学校や寺もあっただけに規模が大きい。私が見た山村跡では一番大きい。昔はここで夏祭りがおこなわれて、近隣の集落から大勢の人達が集まった場所だ。今は桜の古木と二宮金次郎の台座が残るのみである。

グルメな一夜をおえ、本日の駐車地青田発電所にむかう。ここから小屋谷川に沿って中栃村という木地師の村がかつて存在した。中栃村の探索と帝釈山をセットにしてコースを考えた。
発電所の近くで道を聞いたところ林道の途中から「旧道」と呼ばれる杣道が続いているようなので、杣道を歩く。しばらく上ると屋敷跡があらわれる。これは、元禄のころから続いた南伝八郎の屋敷跡になる。その後、杣道は植林の尾根を巻くのだがここで消えてしまう。この尾根の上部に石碑があるので、探しに行く。岩場はあるのだが、結局わからずじまいで中栃村の中で一番規模の大きい八幡谷と関所谷沿いの集落跡に向けて尾根を下って行く。

下りきった所に滝が流れており、その横に窯跡があった。広い谷沿いに向けて歩いていくと山側に石の構造物が2つ並んでいる。そして、その奥に大岩が鎮座していた。大岩に向かって右側が筒井八幡の台座で左側が庚申の台座になる。八幡谷は筒井八幡からきている。筒井八幡は木地師発祥の地の一つ近江の蛭谷にある神社で、この神社はその流れをくむ神社になる。つまり蛭谷系の木地師が中栃村に住んでいた事になり、奥美濃の小津集落の属していた君ヶ畑系とは違う木地師集団になる。あたりには、いくつかの屋敷跡が残されていた。ここを過ぎると千秋林道に出た。

筒井八幡跡の台座
筒井八幡跡の台座
小屋谷沿いは、この先は新しい植林地となり屋敷跡も残っていなさそうなので、ここから帝釈山に向かう。千秋林道に寸断された尾根を上っていく。植林地を抜け、自然林の急な斜面を上り傾斜がゆるやかになるとそこが帝釈山の頂上だった。ここには、寛政9年(1797年)の弥勒尊と八大竜王と大日如来の石碑が残っている。弥勒尊は江戸時代に穀霊とされ、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする信仰があった。食に関して豊かとは言えなかった山村の思いが伝わってくる。八大竜王の石碑には「行者 阿波国高橋某」と刻まれている。頂上から少し青田側に下った植林の中に巨大な座禅岩とよばれる岩場がある。この行者も座禅岩で雨乞いの祈りを捧げたのかもしれない。弥勒尊にしても八大竜王にしても当時の人々の祈りが、生活に密着したものであることがわかる。
帝釈山の弥勒尊
帝釈山の弥勒尊
帝釈山の名は、おそらく庚申信仰によるものだと思われる。江戸時代に伊勢や志摩で庚申信仰はさかんで、中栃村にも庚申跡が残っている。庚申とは帝釈天の生まれた日をさしており、山名が中栃村の庚申からきていることがわかる。
座禅岩
座禅岩
帰りは、千秋林道まで戻り、そこから林道を歩いて駐車地にもどった。林道は急な斜面にも作られており、ここを歩くぶんには中腹に木地師の村と暮らしがあり水平な杣道が通っていたなんてことは思わないだろう。

                                            わりばし
zipp
記事: 1165
登録日時: 2011年3月09日(水) 22:49

Re: 木地師の里を巡る旅 in ヤミテン

投稿記事 by zipp »

 わりばしさん、こんばんは。

林道から河原に下りようと踏み跡を歩いていくと、墓がある。もしやと思い見てみると間違いない。おそらく以前の道は今の林道より2m程低い所を通っていたのだろう、道をかさ上げした時からこの墓も忘れさられていったようだ。

 江馬小屋林道へタラノメを探しに行こうとしたら、マスクした人が長靴を履こうと林道をとうせんぼ。それがわりばしさんだった(^^;。
 しかし、木地師の墓を見つけられてしまうとは!
わたしは、目的の山に行こうとして予想外の出来事で目的を達せないとき、書物の記憶を辿って木地師他の昔の人たちの生活痕を探しに行っている。やっぱわりばしさんとは違うなぁと反省。


屋敷跡を上っていくとモミの大木が残されていた。この集落を守る木のようだ。
 画像の樹を指しているのなら、モミの樹じゃないよ。画像の樹は、たぶんカツラだと思います。

昔はここで夏祭りがおこなわれて、近隣の集落から大勢の人達が集まった場所だ。

 大正時代、乾溜工場時代は、山々から人々が降りてきて盆踊りで賑わったところです。

グルメな一夜をおえ、本日の駐車地青田発電所にむかう。ここから小屋谷川に沿って中栃村という木地師の村がかつて存在した。中栃村の探索と帝釈山をセットにしてコースを考えた。
 「小屋谷川」=木屋谷川ですね。

筒井八幡は木地師発祥の地の一つ近江の蛭谷にある神社で、この神社はその流れをくむ神社になる。つまり蛭谷系の木地師が中栃村に住んでいた事になり、奥美濃の小津集落の属していた君ヶ畑系とは違う木地師集団になる。

 これは、興味深いですね~。緑ちゃんものりだすかも(^^;。
三重南部の大紀町柏崎や大内山も君ヶ畑系だったと記憶しています。蛭谷系って記憶にないもの。

ここには、寛政9年(1797年)の弥勒尊と八大竜王と大日如来の石碑が残っている。弥勒尊は江戸時代に穀霊とされ、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする信仰があった。食に関して豊かとは言えなかった山村の思いが伝わってくる。八大竜王の石碑には「行者 阿波国高橋某」と刻まれている。頂上から少し青田側に下った植林の中に巨大な座禅岩とよばれる岩場がある。この行者も座禅岩で雨乞いの祈りを捧げたのかもしれない。

 この弥勒尊、寛政期につくられたとは思えないほど、摩耗欠損なく残っているし、可愛い弥勒菩薩です。
わたしのわからなかった座禅岩もあるのですね!また、ちゃんとわりばしさんのように資料をたずさへて行こう~と!

帝釈山の名は、おそらく庚申信仰によるものだと思われる。江戸時代に伊勢や志摩で庚申信仰はさかんで、中栃村にも庚申跡が残っている。庚申とは帝釈天の生まれた日をさしており、山名が中栃村の庚申からきていることがわかる。
 帝釈山の山の由来は、弥勒さんから来ているのではと私の直感では思うのです。あとから名付けた山名ではと。
「九谷山」がここで生活していた人たち山名なのではと。
庚申信仰は、紀伊長島以南(=紀州)では、盛んだったと思える碑などを見るけど、伊勢志摩ではあまり見ないというのがわたしの感想です。

帰りは、千秋林道まで戻り、そこから林道を歩いて駐車地にもどった。林道は急な斜面にも作られており、ここを歩くぶんには中腹に木地師の村と暮らしがあり水平な杣道が通っていたなんてことは思わないだろう。
 このレポで述べている「千秋林道」とは、「木屋谷林道」の延長の千秋林道(千秋橋以西を千秋林道というわたしの認識)ではなく、木屋谷林道の木屋谷橋を渡る手前から木屋谷川左岸山腹をゲート抜けて登って、菅谷の青田発電所取水堰への地形図にも載っていない林道を指しているかと思うのですが、それならば間違いです。
この林道をなんと云うのか知りませんが、青田発電所取水林道とでもいうのがしっくりくるかも。

 わたしも、ひょんなことから「飯高町郷土誌」を読んだ(はじめて読んだのは、飯高町田引のソバ屋さん)。
それを読んでもっとも興味を引かれたのが、大正期の乾溜工場です。いまだにまとまったレポを書いてないけど、これはいま山を歩いても跡は残っているし、当時の富国強兵策や戦争を考えるうえでも底ブル興味深い跡です。是非わりばしさんの食指が伸びることを希望(^^)。
   zipp
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わりばし
記事: 1766
登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
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Re: 木地師の里小津権現を巡る旅  花房山周回コース+α

投稿記事 by わりばし »


おはようございます、ZIPPさん。

林道から河原に下りようと踏み跡を歩いていくと、墓がある。もしやと思い見てみると間違いない。おそらく以前の道は今の林道より2m程低い所を通っていたのだろう、道をかさ上げした時からこの墓も忘れさられていったようだ。

 江馬小屋林道へタラノメを探しに行こうとしたら、マスクした人が長靴を履こうと林道をとうせんぼ。それがわりばしさんだった(^^;。
 しかし、木地師の墓を見つけられてしまうとは!

すみません。完璧な不審者で。

木地師の墓は、まったくの偶然です
:P


屋敷跡を上っていくとモミの大木が残されていた。この集落を守る木のようだ。
 画像の樹を指しているのなら、モミの樹じゃないよ。画像の樹は、たぶんカツラだと思います。

そうだカツラだ。

ZIPPさんに聞いたのに、忘れてしまいました。どうも植物関係は頭に入らないなあ・・・


昔はここで夏祭りがおこなわれて、近隣の集落から大勢の人達が集まった場所だ。

 大正時代、乾溜工場時代は、山々から人々が降りてきて盆踊りで賑わったところです。

以前言ってみえた乾溜工場ですね。
中栃村への杣道の切り通し
中栃村への杣道の切り通し
グルメな一夜をおえ、本日の駐車地青田発電所にむかう。ここから小屋谷川に沿って中栃村という木地師の村がかつて存在した。中栃村の探索と帝釈山をセットにしてコースを考えた。
 「小屋谷川」=木屋谷川ですね。

これが、飯高町史には「小屋谷川」と書いてあるんですよね。

しかも、中栃村と呼ばれる前はここの集落を「小屋谷」と呼んでいたと書いてあります。

昔の名前は小屋谷のようです。

中栃村の屋敷跡
中栃村の屋敷跡
ここには、寛政9年(1797年)の弥勒尊と八大竜王と大日如来の石碑が残っている。弥勒尊は江戸時代に穀霊とされ、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする信仰があった。食に関して豊かとは言えなかった山村の思いが伝わってくる。八大竜王の石碑には「行者 阿波国高橋某」と刻まれている。頂上から少し青田側に下った植林の中に巨大な座禅岩とよばれる岩場がある。この行者も座禅岩で雨乞いの祈りを捧げたのかもしれない。

 この弥勒尊、寛政期につくられたとは思えないほど、摩耗欠損なく残っているし、可愛い弥勒菩薩です。
わたしのわからなかった座禅岩もあるのですね!また、ちゃんとわりばしさんのように資料をたずさへて行こう~と!

そうですね、木地師の墓も仏像も江戸時代のものにしてはしっかりしていますね。

石がいいのかもしょれません。

八大龍王の石碑
八大龍王の石碑
帝釈山の名は、おそらく庚申信仰によるものだと思われる。江戸時代に伊勢や志摩で庚申信仰はさかんで、中栃村にも庚申跡が残っている。庚申とは帝釈天の生まれた日をさしており、山名が中栃村の庚申からきていることがわかる。

 帝釈山の山の由来は、弥勒さんから来ているのではと私の直感では思うのです。あとから名付けた山名ではと。
「九谷山」がここで生活していた人たち山名なのではと。
庚申信仰は、紀伊長島以南(=紀州)では、盛んだったと思える碑などを見るけど、伊勢志摩ではあまり見ないというのがわたしの感想です。

なるほど、地名というのはおもしろいですね。

庚申信仰は志摩は盛んですよ。

岳道の麓の集落にもたくさん庚申跡が残っています。

行者の歩いた伊勢から熊野への経路にはあるんじゃないかなあ。


帰りは、千秋林道まで戻り、そこから林道を歩いて駐車地にもどった。林道は急な斜面にも作られており、ここを歩くぶんには中腹に木地師の村と暮らしがあり水平な杣道が通っていたなんてことは思わないだろう。
 このレポで述べている「千秋林道」とは、「木屋谷林道」の延長の千秋林道(千秋橋以西を千秋林道というわたしの認識)ではなく、木屋谷林道の木屋谷橋を渡る手前から木屋谷川左岸山腹をゲート抜けて登って、菅谷の青田発電所取水堰への地形図にも載っていない林道を指しているかと思うのですが、それならば間違いです。
この林道をなんと云うのか知りませんが、青田発電所取水林道とでもいうのがしっくりくるかも。

それです。発電所取水・・と書いてありました。

すみません。このあたりにうといもので。


 わたしも、ひょんなことから「飯高町郷土誌」を読んだ(はじめて読んだのは、飯高町田引のソバ屋さん)。
それを読んでもっとも興味を引かれたのが、大正期の乾溜工場です。いまだにまとまったレポを書いてないけど、これはいま山を歩いても跡は残っているし、当時の富国強兵策や戦争を考えるうえでも底ブル興味深い跡です。是非わりばしさんの食指が伸びることを希望(^^)。

ZIPPさんの追いかけ山行もたくさんあるし、乾溜工場までたどり着けるか・・・

                                                   わりばし
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登録日時: 2011年2月20日(日) 16:55
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木地師の里を巡る旅  in ヤミテン 追記

投稿記事 by わりばし »

 

おはようございます、ZIPPさん。

レポは少しの間難しそうですね。

昨日午後から休みだったのでいつもの県立図書館に行ってきました。

文化財保護委員会が出している「木地師の習俗1 滋賀・三重」の中に詳しい記述があったので紹介します。


林道から河原に下りようと踏み跡を歩いていくと、墓がある。もしやと思い見てみると間違いない。おそらく以前の道は今の林道より2m程低い所を通っていたのだろう、道をかさ上げした時からこの墓も忘れさられていったようだ。

 江馬小屋林道へタラノメを探しに行こうとしたら、マスクした人が長靴を履こうと林道をとうせんぼ。それがわりばしさんだった(^^;。
 しかし、木地師の墓を見つけられてしまうとは!

木地師の墓は、この本にも詳しく書かれていて、貴重な物のようです。
木地師の墓
木地師の墓
木地師の墓
木地師の墓
[筒井八幡は木地師発祥の地の一つ近江の蛭谷にある神社で、この神社はその流れをくむ神社になる。つまり蛭谷系の木地師が中栃村に住んでいた事になり、奥美濃の小津集落の属していた君ヶ畑系とは違う木地師集団になる。

 これは、興味深いですね~。緑ちゃんものりだすかも(^^;。
三重南部の大紀町柏崎や大内山も君ヶ畑系だったと記憶しています。蛭谷系って記憶にないもの。

たしかに、三重の木地師の中心地の大紀町柏崎には君ヶ畑にある大皇神社が祀られており君ヶ畑系の木地師ですね。

帝釈山の名は、おそらく庚申信仰によるものだと思われる。江戸時代に伊勢や志摩で庚申信仰はさかんで、中栃村にも庚申跡が残っている。庚申とは帝釈天の生まれた日をさしており、山名が中栃村の庚申からきていることがわかる。
 帝釈山の山の由来は、弥勒さんから来ているのではと私の直感では思うのです。あとから名付けた山名ではと。
「九谷山」がここで生活していた人たち山名なのではと。

この本の中に「山村生活の研究」の引用として「三重県森村の九谷部落は越前から来た木地屋が拓いたといひ、蓮部落には寛政八年の木地屋の墓が残って居る」と書かれています。帝釈山が以前は九谷山と呼ばれていた事とこの山の麓に中栃村があることから考えて九谷部落は中栃村の事だと思います。そう考えると越前から来た中栃村だけが、筒井八幡を祀る蛭谷系の木地集団であったのも合点がいきます。
筒井八幡跡の台座と庚申跡の台座
筒井八幡跡の台座と庚申跡の台座
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