わりばしさん、こんばんは。
林道から河原に下りようと踏み跡を歩いていくと、墓がある。もしやと思い見てみると間違いない。おそらく以前の道は今の林道より2m程低い所を通っていたのだろう、道をかさ上げした時からこの墓も忘れさられていったようだ。
江馬小屋林道へタラノメを探しに行こうとしたら、マスクした人が長靴を履こうと林道をとうせんぼ。それがわりばしさんだった(^^;。
しかし、木地師の墓を見つけられてしまうとは!
わたしは、目的の山に行こうとして予想外の出来事で目的を達せないとき、書物の記憶を辿って木地師他の昔の人たちの生活痕を探しに行っている。やっぱわりばしさんとは違うなぁと反省。
屋敷跡を上っていくとモミの大木が残されていた。この集落を守る木のようだ。
画像の樹を指しているのなら、モミの樹じゃないよ。画像の樹は、たぶんカツラだと思います。
昔はここで夏祭りがおこなわれて、近隣の集落から大勢の人達が集まった場所だ。
大正時代、乾溜工場時代は、山々から人々が降りてきて盆踊りで賑わったところです。
グルメな一夜をおえ、本日の駐車地青田発電所にむかう。ここから小屋谷川に沿って中栃村という木地師の村がかつて存在した。中栃村の探索と帝釈山をセットにしてコースを考えた。
「小屋谷川」=木屋谷川ですね。
筒井八幡は木地師発祥の地の一つ近江の蛭谷にある神社で、この神社はその流れをくむ神社になる。つまり蛭谷系の木地師が中栃村に住んでいた事になり、奥美濃の小津集落の属していた君ヶ畑系とは違う木地師集団になる。
これは、興味深いですね~。緑ちゃんものりだすかも(^^;。
三重南部の大紀町柏崎や大内山も君ヶ畑系だったと記憶しています。蛭谷系って記憶にないもの。
ここには、寛政9年(1797年)の弥勒尊と八大竜王と大日如来の石碑が残っている。弥勒尊は江戸時代に穀霊とされ、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする信仰があった。食に関して豊かとは言えなかった山村の思いが伝わってくる。八大竜王の石碑には「行者 阿波国高橋某」と刻まれている。頂上から少し青田側に下った植林の中に巨大な座禅岩とよばれる岩場がある。この行者も座禅岩で雨乞いの祈りを捧げたのかもしれない。
この弥勒尊、寛政期につくられたとは思えないほど、摩耗欠損なく残っているし、可愛い弥勒菩薩です。
わたしのわからなかった座禅岩もあるのですね!また、ちゃんとわりばしさんのように資料をたずさへて行こう~と!
帝釈山の名は、おそらく庚申信仰によるものだと思われる。江戸時代に伊勢や志摩で庚申信仰はさかんで、中栃村にも庚申跡が残っている。庚申とは帝釈天の生まれた日をさしており、山名が中栃村の庚申からきていることがわかる。
帝釈山の山の由来は、弥勒さんから来ているのではと私の直感では思うのです。あとから名付けた山名ではと。
「九谷山」がここで生活していた人たち山名なのではと。
庚申信仰は、紀伊長島以南(=紀州)では、盛んだったと思える碑などを見るけど、伊勢志摩ではあまり見ないというのがわたしの感想です。
帰りは、千秋林道まで戻り、そこから林道を歩いて駐車地にもどった。林道は急な斜面にも作られており、ここを歩くぶんには中腹に木地師の村と暮らしがあり水平な杣道が通っていたなんてことは思わないだろう。
このレポで述べている「千秋林道」とは、「木屋谷林道」の延長の千秋林道(千秋橋以西を千秋林道というわたしの認識)ではなく、木屋谷林道の木屋谷橋を渡る手前から木屋谷川左岸山腹をゲート抜けて登って、菅谷の青田発電所取水堰への地形図にも載っていない林道を指しているかと思うのですが、それならば間違いです。
この林道をなんと云うのか知りませんが、青田発電所取水林道とでもいうのがしっくりくるかも。
わたしも、ひょんなことから「飯高町郷土誌」を読んだ(はじめて読んだのは、飯高町田引のソバ屋さん)。
それを読んでもっとも興味を引かれたのが、大正期の乾溜工場です。いまだにまとまったレポを書いてないけど、これはいま山を歩いても跡は残っているし、当時の富国強兵策や戦争を考えるうえでも底ブル興味深い跡です。是非わりばしさんの食指が伸びることを希望(^^)。
木地師の里小津権現を巡る旅 花房山周回コース+α
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Re: 木地師の里小津権現を巡る旅 花房山周回コース+α
おはようございます、ZIPPさん。
林道から河原に下りようと踏み跡を歩いていくと、墓がある。もしやと思い見てみると間違いない。おそらく以前の道は今の林道より2m程低い所を通っていたのだろう、道をかさ上げした時からこの墓も忘れさられていったようだ。
江馬小屋林道へタラノメを探しに行こうとしたら、マスクした人が長靴を履こうと林道をとうせんぼ。それがわりばしさんだった(^^;。
しかし、木地師の墓を見つけられてしまうとは!
すみません。完璧な不審者で。
木地師の墓は、まったくの偶然です
屋敷跡を上っていくとモミの大木が残されていた。この集落を守る木のようだ。
画像の樹を指しているのなら、モミの樹じゃないよ。画像の樹は、たぶんカツラだと思います。
そうだカツラだ。
ZIPPさんに聞いたのに、忘れてしまいました。どうも植物関係は頭に入らないなあ・・・
昔はここで夏祭りがおこなわれて、近隣の集落から大勢の人達が集まった場所だ。
大正時代、乾溜工場時代は、山々から人々が降りてきて盆踊りで賑わったところです。
以前言ってみえた乾溜工場ですね。
グルメな一夜をおえ、本日の駐車地青田発電所にむかう。ここから小屋谷川に沿って中栃村という木地師の村がかつて存在した。中栃村の探索と帝釈山をセットにしてコースを考えた。
「小屋谷川」=木屋谷川ですね。
これが、飯高町史には「小屋谷川」と書いてあるんですよね。
しかも、中栃村と呼ばれる前はここの集落を「小屋谷」と呼んでいたと書いてあります。
昔の名前は小屋谷のようです。
ここには、寛政9年(1797年)の弥勒尊と八大竜王と大日如来の石碑が残っている。弥勒尊は江戸時代に穀霊とされ、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする信仰があった。食に関して豊かとは言えなかった山村の思いが伝わってくる。八大竜王の石碑には「行者 阿波国高橋某」と刻まれている。頂上から少し青田側に下った植林の中に巨大な座禅岩とよばれる岩場がある。この行者も座禅岩で雨乞いの祈りを捧げたのかもしれない。
この弥勒尊、寛政期につくられたとは思えないほど、摩耗欠損なく残っているし、可愛い弥勒菩薩です。
わたしのわからなかった座禅岩もあるのですね!また、ちゃんとわりばしさんのように資料をたずさへて行こう~と!
そうですね、木地師の墓も仏像も江戸時代のものにしてはしっかりしていますね。
石がいいのかもしょれません。
帝釈山の名は、おそらく庚申信仰によるものだと思われる。江戸時代に伊勢や志摩で庚申信仰はさかんで、中栃村にも庚申跡が残っている。庚申とは帝釈天の生まれた日をさしており、山名が中栃村の庚申からきていることがわかる。
帝釈山の山の由来は、弥勒さんから来ているのではと私の直感では思うのです。あとから名付けた山名ではと。
「九谷山」がここで生活していた人たち山名なのではと。
庚申信仰は、紀伊長島以南(=紀州)では、盛んだったと思える碑などを見るけど、伊勢志摩ではあまり見ないというのがわたしの感想です。
なるほど、地名というのはおもしろいですね。
庚申信仰は志摩は盛んですよ。
岳道の麓の集落にもたくさん庚申跡が残っています。
行者の歩いた伊勢から熊野への経路にはあるんじゃないかなあ。
帰りは、千秋林道まで戻り、そこから林道を歩いて駐車地にもどった。林道は急な斜面にも作られており、ここを歩くぶんには中腹に木地師の村と暮らしがあり水平な杣道が通っていたなんてことは思わないだろう。
このレポで述べている「千秋林道」とは、「木屋谷林道」の延長の千秋林道(千秋橋以西を千秋林道というわたしの認識)ではなく、木屋谷林道の木屋谷橋を渡る手前から木屋谷川左岸山腹をゲート抜けて登って、菅谷の青田発電所取水堰への地形図にも載っていない林道を指しているかと思うのですが、それならば間違いです。
この林道をなんと云うのか知りませんが、青田発電所取水林道とでもいうのがしっくりくるかも。
それです。発電所取水・・と書いてありました。
すみません。このあたりにうといもので。
わたしも、ひょんなことから「飯高町郷土誌」を読んだ(はじめて読んだのは、飯高町田引のソバ屋さん)。
それを読んでもっとも興味を引かれたのが、大正期の乾溜工場です。いまだにまとまったレポを書いてないけど、これはいま山を歩いても跡は残っているし、当時の富国強兵策や戦争を考えるうえでも底ブル興味深い跡です。是非わりばしさんの食指が伸びることを希望(^^)。
ZIPPさんの追いかけ山行もたくさんあるし、乾溜工場までたどり着けるか・・・
わりばし
木地師の里を巡る旅 in ヤミテン 追記
おはようございます、ZIPPさん。
レポは少しの間難しそうですね。
昨日午後から休みだったのでいつもの県立図書館に行ってきました。
文化財保護委員会が出している「木地師の習俗1 滋賀・三重」の中に詳しい記述があったので紹介します。
林道から河原に下りようと踏み跡を歩いていくと、墓がある。もしやと思い見てみると間違いない。おそらく以前の道は今の林道より2m程低い所を通っていたのだろう、道をかさ上げした時からこの墓も忘れさられていったようだ。
江馬小屋林道へタラノメを探しに行こうとしたら、マスクした人が長靴を履こうと林道をとうせんぼ。それがわりばしさんだった(^^;。
しかし、木地師の墓を見つけられてしまうとは!
木地師の墓は、この本にも詳しく書かれていて、貴重な物のようです。
[筒井八幡は木地師発祥の地の一つ近江の蛭谷にある神社で、この神社はその流れをくむ神社になる。つまり蛭谷系の木地師が中栃村に住んでいた事になり、奥美濃の小津集落の属していた君ヶ畑系とは違う木地師集団になる。
これは、興味深いですね~。緑ちゃんものりだすかも(^^;。
三重南部の大紀町柏崎や大内山も君ヶ畑系だったと記憶しています。蛭谷系って記憶にないもの。
たしかに、三重の木地師の中心地の大紀町柏崎には君ヶ畑にある大皇神社が祀られており君ヶ畑系の木地師ですね。
帝釈山の名は、おそらく庚申信仰によるものだと思われる。江戸時代に伊勢や志摩で庚申信仰はさかんで、中栃村にも庚申跡が残っている。庚申とは帝釈天の生まれた日をさしており、山名が中栃村の庚申からきていることがわかる。
帝釈山の山の由来は、弥勒さんから来ているのではと私の直感では思うのです。あとから名付けた山名ではと。
「九谷山」がここで生活していた人たち山名なのではと。
この本の中に「山村生活の研究」の引用として「三重県森村の九谷部落は越前から来た木地屋が拓いたといひ、蓮部落には寛政八年の木地屋の墓が残って居る」と書かれています。帝釈山が以前は九谷山と呼ばれていた事とこの山の麓に中栃村があることから考えて九谷部落は中栃村の事だと思います。そう考えると越前から来た中栃村だけが、筒井八幡を祀る蛭谷系の木地集団であったのも合点がいきます。
わりばし