【日 付】2024年2月3日(土)
【山 域】高見山地
【コース】浄眼寺駐車場8:35---10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山---14:30浄眼寺駐車場
【メンバー】単独
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置している。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
北畠氏の菩提寺である浄眼寺に駐車する。北畠当主より発給された文書など南北朝時代の多くの文化財が残っている。阿坂城のハイキングコースを歩く。阿坂城は北畠親房が築城し羽柴秀吉により落城するまで217年の歴史があり、南伊勢の入口と多気への入口を監視できる場所になる。城までコースに着かず離れずといった感じで昔の溝道が続いていおり、城には虎口や土塁や堀が残っている。城からは伊勢平野と伊勢湾が見え、西には矢頭山が構えている。
尾根筋の道は自然林が残っており明るく、「鈴の音アルプス」とマジックで書かれたピンクテープが時たま現れる。枳峠は以前は車道があったような5mの切通があるが、今は見る影もない。峠は森本城のあった向山と阿坂を結んでおり、東に下った所に枳城がある。阿坂城から1km離れており、峠の守りとして置かれたのかもしれない。森本城は一志米輸送路線の監視、防衛のために築かれたので、森本城―阿坂城から続く尾根筋を守っていたのだろう。
鉢ヶ峰を越えると岩内方面からの溝道が現れる。北畠13人衆の一人になる岩内氏の岩内城と岩内御所が谷を下った瑞巌寺のあたりにあり、山を越えれば森本城につながる。日川富士に立ち寄って、下ると日川峠でこちらは岩内と与原をつなぐ峠になっている。鈴の音アルプスは北畠氏にとって前線基地となる山脈で、城や集落をつなぐ山越えの道もいくつかあったようだ。
観音岳からは掘坂山と神島が見えた。下りきると堀坂峠で、昔は与原峠と言ったようで本居宣長が吉野の帰路に歩いた道が残っている。松阪と多気を結ぶ最短の峠路になる。
掘坂大権現の鳥居を通り登山道を歩く。整備された道を歩いていくと立派な大日如来の銅像がある。背中には延宝8年(1680)とある。元号が変わった1674年以降、延宝3年「宮川増水の為渡船転覆して百余人溺死す」延宝7年「大雨洪水、十ヶ年未聞の高水」など次々起こる災害の鎮めを願ったのか。藤堂藩お抱えの鋳物師藤原秀種の作で、寄進をした周辺住民の思いが込められている。側には役行者と不動明王の石像もあり神仏習合の密教の色合いが濃い。それぞれの石像にはしきみやみかんが進ぜられ、しめ縄が掛けられていた。古いしめ縄が捨てられてあったので、正月につけかえたようだ。仏像にしめ縄だが、とてもなじんでいる。
すぐに山頂で、大日如来の祠が日の出の方向に祀られていた。春分の日・秋分の日には神島より日が上り、矢頭山・倶留尊山に日が沈むことになる。来た道を堀坂峠まで戻り、デポしておいた自転車に乗る。大宮さんと書かれた鳥居があるので、ガードレールを越えて沢筋に下りると、お地蔵さんがあった。僧の形をした地蔵菩薩で、平安時代後期に流行ったようだ。錫杖と宝珠を持っているので地蔵菩薩に間違いないのだが、古い時代の形のようだ。橋を渡った先には大宮神社と彫られた石がありここにもしめ縄がかけられ地蔵菩薩にはみかんが供えてあった。
道を下ると峠路にあったであろう地蔵さんが道路端にかためられていた。この先には大日如来の石碑があり、しめ縄とみかんが供えてあった。掘坂山より森林公園に下る登山口には十五丁目の丁石があった。掘坂山は伊勢富士とも呼ばれた信仰の山で、参道には丁石が並んでいたのだろう。
高速道路を越えたあたりに灯篭や南無地蔵大菩薩と彫られた石塔に「左ほっさか右よこたき」の道標などが集められている。「ほっさか」は掘坂山(掘坂大権現)「よこたき」は横滝寺のことで信仰の地を示した道標だ。石灯籠を見ると掘坂大明神と彫られている。
伊勢寺神社に立ち寄ると鳥居の横に隠れるように「禁殺生」と彫られた古い石碑がある。見ると掘坂神社と書かれている。そして社殿の端に隠れるように大日如来の祠と金光の石碑が掘坂山を向いて立っていた。目の前に掘坂山が大きく構えるこの地の神社の名には掘坂神社がふさわしい。調べてみると掘坂神社は伊勢寺の魔ヶ谷にあり、岩内城のあたりにあった。創建は明らかではないが延喜式飯高9座のひとつであることや国分寺の旧記に行基菩薩徘徊の時、「掘坂神社はは森林繁茂して日の光漏れず」とあることから相当古くからあったものと考えられる。これだけ歴史のある神社が明治になって合祀の対象となり今の伊勢寺神社に合祀された。掘坂大明神と書かれた石灯籠や「禁殺生」の石碑に大日如来の祠などは魔ヶ谷の掘坂神社を閉社する際に移されたのだろう。
掘坂神社は、神仏習合の色濃い神社であったことと、大日如来を祀っていた事で明治政府に疎まれたようだ。天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に作られた国家神道にとって、天照大神の本地である大日如来は邪魔という事だ。本地垂迹説では、神道の神々は仏が化身として現れた姿であり、仏である大日如来が天照大神に姿を変えて現れたということになる。天照大神は仮の姿で、大日如来が本来の姿というのは到底受け入れられなかったようだ。太陽の道上にあり古代より信仰の対象であった掘坂山や掘坂神社の影響力が低下した背景なのだろう。こうした時代の流れを受けつつも、山麓の人々の信仰はいまなお続いている。
帰りに丹生寺の大日如来の石碑を見に行った。この地も太陽の道の線上にあり、神聖な場所なのだろうが、現在は明治に集められた山の神や庚申塚と一緒に固められていた。
【高見山地】太陽の道と堀坂山
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- 記事: 2244
- 登録日時: 2011年2月20日(日) 10:10
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Re: 【高見山地】太陽の道と堀坂山
わりばしさん、こんばんは。
【高見山地】太陽の道と堀坂山
グー部屋から朝に夕に眺めている山。レスしない訳にはいかないな。
10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山
この間をわりばしさんの足は2時間で歩くのですか。
グーも自宅から堀坂山まで4年前に歩きました。
11:20鉢が峰---13:10観音岳---14:40堀坂山
グーの足では3時間20分もかかりました。
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。
グーのおじいさんも毎朝庭に立って太陽に向かって手を合わせ何やらつぶやいていました。
なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、
ちょっと待った。
月は満ち欠けするけど、太陽は日食でもない限り欠けないでしょう。
阿坂城のハイキングコースを歩く。
このハイキングコースはグーが台高に登れなくなった時の散歩道になる予定です。
難しい蘊蓄はグーの頭の中に入ってこないのでゴメンなさい。
仏像にしめ縄だが、とてもなじんでいる。
言われてみれば、なんだかヘンですね。
掘坂山より森林公園に下る登山口には十五丁目の丁石があった。
どこが始点なんだろう?
本地垂迹説では、神道の神々は仏が化身として現れた姿であり、仏である大日如来が天照大神に姿を変えて現れたということになる。天照大神は仮の姿で、大日如来が本来の姿というのは到底受け入れられなかったようだ。
「本地垂迹説」のヒビキは頭の片隅に残っていましたが意味は全く知らずに今までボーっと生きてきました。
わりばしさんの蘊蓄は勉強になるなぁ~。
現在は明治に集められた山の神や庚申塚と一緒に固められていた。
わりばしさんが頑張ってもいわれも意味も分からないまま埋もれてゆくのだろうな。
こんなレスでごめんなさい。
グー(伊勢山上住人)
Re: 【高見山地】太陽の道と堀坂山
わりばしさん、こんにちは。
>【コース】浄眼寺駐車場8:35---10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山---14:30浄眼寺駐車場
自分も3ヶ月前となる去年11月に同じようなコースで歩いてきました。
> 動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、
>この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置し
>ている。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
お寺やそれぞれの山にそんな意味が込められていたのですね。
> 尾根筋の道は自然林が残っており明るく、「鈴の音アルプス」とマジックで書かれたピンクテープが時たま現れる。枳峠は以前は車道があったよう
>な5mの切通があるが、今は見る影もない。
「枳峠」はいきなり広い道と鋭角な切通に驚かされました。 また、ここからの登りも厳しい感じでした。
>それぞれの石像にはしきみやみかんが進ぜられ、しめ縄が掛けられていた。古いしめ縄が捨てられてあったので、正月につけかえたようだ。仏像にし
>め縄だが、とてもなじんでいる。
堀坂山の山頂には建物や焚き火跡もあり、信仰心の厚さが感じられました。
>来た道を堀坂峠まで戻り、デポしておいた自転車に乗る。
あら? 帰路は自転車ですか。 自分は歩いて寺院巡りしながら帰っていきました。
> 高速道路を越えたあたりに灯篭や南無地蔵大菩薩と彫られた石塔に「左ほっさか右よこたき」の道標などが集められている。「ほっさか」は
>掘坂山(掘坂大権現)「よこたき」は横滝寺のことで信仰の地を示した道標だ。石灯籠を見ると掘坂大明神と彫られている。
歩いていても至るところに石碑や石仏などがあり楽しめました。
わりばしさんのように、歴史などに詳しいと色々と楽しめるので羨ましいです。
おど+
>【コース】浄眼寺駐車場8:35---10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山---14:30浄眼寺駐車場
自分も3ヶ月前となる去年11月に同じようなコースで歩いてきました。
> 動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、
>この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置し
>ている。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
お寺やそれぞれの山にそんな意味が込められていたのですね。
> 尾根筋の道は自然林が残っており明るく、「鈴の音アルプス」とマジックで書かれたピンクテープが時たま現れる。枳峠は以前は車道があったよう
>な5mの切通があるが、今は見る影もない。
「枳峠」はいきなり広い道と鋭角な切通に驚かされました。 また、ここからの登りも厳しい感じでした。
>それぞれの石像にはしきみやみかんが進ぜられ、しめ縄が掛けられていた。古いしめ縄が捨てられてあったので、正月につけかえたようだ。仏像にし
>め縄だが、とてもなじんでいる。
堀坂山の山頂には建物や焚き火跡もあり、信仰心の厚さが感じられました。
>来た道を堀坂峠まで戻り、デポしておいた自転車に乗る。
あら? 帰路は自転車ですか。 自分は歩いて寺院巡りしながら帰っていきました。
> 高速道路を越えたあたりに灯篭や南無地蔵大菩薩と彫られた石塔に「左ほっさか右よこたき」の道標などが集められている。「ほっさか」は
>掘坂山(掘坂大権現)「よこたき」は横滝寺のことで信仰の地を示した道標だ。石灯籠を見ると掘坂大明神と彫られている。
歩いていても至るところに石碑や石仏などがあり楽しめました。
わりばしさんのように、歴史などに詳しいと色々と楽しめるので羨ましいです。
おど+
Re: 【高見山地】太陽の道と堀坂山
おはようございます、グーさん。
10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山
この間をわりばしさんの足は2時間で歩くのですか。
グーも自宅から堀坂山まで4年前に歩きました。
11:20鉢が峰---13:10観音岳---14:40堀坂山
グーの足では3時間20分もかかりました。
この日は、70代の地下足袋でトレランしている人に出会いましたよ。
グーさんもどうですか?
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。
グーのおじいさんも毎朝庭に立って太陽に向かって手を合わせ何やらつぶやいていました。
いい話ですね。生活の営みの中で培ってきたものなのでしょうね。
なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、
ちょっと待った。
月は満ち欠けするけど、太陽は日食でもない限り欠けないでしょう。
形じゃなく日照時間の満ち欠けです。
この日を境にして太陽の力が盛り返すとか衰えるとかいった感じです。
阿坂城のハイキングコースを歩く。
このハイキングコースはグーが台高に登れなくなった時の散歩道になる予定です。
朝早くから地元の人たちがたくさん早朝ハイキングに来てました。
仏像にしめ縄だが、とてもなじんでいる。
言われてみれば、なんだかヘンですね。
これが明治まで1300年続いた神仏習合の形なんでしょう。
神仏を国が分けたのは明治になってからですから。
掘坂山より森林公園に下る登山口には十五丁目の丁石があった。
どこが始点なんだろう?
どこだったんでしょうね。
江戸の松阪領一円図には山の上に赤い鳥居が描かれる程のパワースポットで
この絵図全体で鳥居が描かれているのは掘坂山だけです。
本地垂迹説では、神道の神々は仏が化身として現れた姿であり、仏である大日如来が天照大神に姿を変えて現れたということになる。天照大神は仮の姿で、大日如来が本来の姿というのは到底受け入れられなかったようだ。
「本地垂迹説」のヒビキは頭の片隅に残っていましたが意味は全く知らずに今までボーっと生きてきました。
わりばしさんの蘊蓄は勉強になるなぁ~。
「本地垂迹説」は社会の教科書に載っているので、聞いたことある人は多いと思います。
意味を知る人は少ないと思いますが・・
現在は明治に集められた山の神や庚申塚と一緒に固められていた。
わりばしさんが頑張ってもいわれも意味も分からないまま埋もれてゆくのだろうな。
時代とはそういう物だと思います。
ただ、いわれがおぼろげでも残っているものもあります。
北畠氏につづく峠路では、こうしたものにたくさん出会っています。
10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山
この間をわりばしさんの足は2時間で歩くのですか。
グーも自宅から堀坂山まで4年前に歩きました。
11:20鉢が峰---13:10観音岳---14:40堀坂山
グーの足では3時間20分もかかりました。
この日は、70代の地下足袋でトレランしている人に出会いましたよ。
グーさんもどうですか?
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。
グーのおじいさんも毎朝庭に立って太陽に向かって手を合わせ何やらつぶやいていました。
いい話ですね。生活の営みの中で培ってきたものなのでしょうね。
なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、
ちょっと待った。
月は満ち欠けするけど、太陽は日食でもない限り欠けないでしょう。
形じゃなく日照時間の満ち欠けです。
この日を境にして太陽の力が盛り返すとか衰えるとかいった感じです。
阿坂城のハイキングコースを歩く。
このハイキングコースはグーが台高に登れなくなった時の散歩道になる予定です。
朝早くから地元の人たちがたくさん早朝ハイキングに来てました。
仏像にしめ縄だが、とてもなじんでいる。
言われてみれば、なんだかヘンですね。
これが明治まで1300年続いた神仏習合の形なんでしょう。
神仏を国が分けたのは明治になってからですから。
掘坂山より森林公園に下る登山口には十五丁目の丁石があった。
どこが始点なんだろう?
どこだったんでしょうね。
江戸の松阪領一円図には山の上に赤い鳥居が描かれる程のパワースポットで
この絵図全体で鳥居が描かれているのは掘坂山だけです。
本地垂迹説では、神道の神々は仏が化身として現れた姿であり、仏である大日如来が天照大神に姿を変えて現れたということになる。天照大神は仮の姿で、大日如来が本来の姿というのは到底受け入れられなかったようだ。
「本地垂迹説」のヒビキは頭の片隅に残っていましたが意味は全く知らずに今までボーっと生きてきました。
わりばしさんの蘊蓄は勉強になるなぁ~。
「本地垂迹説」は社会の教科書に載っているので、聞いたことある人は多いと思います。
意味を知る人は少ないと思いますが・・
現在は明治に集められた山の神や庚申塚と一緒に固められていた。
わりばしさんが頑張ってもいわれも意味も分からないまま埋もれてゆくのだろうな。
時代とはそういう物だと思います。
ただ、いわれがおぼろげでも残っているものもあります。
北畠氏につづく峠路では、こうしたものにたくさん出会っています。
Re: 【高見山地】太陽の道と堀坂山
わりばしさん、こんにちは。
「太陽の道」何のこと?
[color=#FF0000]動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置している。太陽神は、大日如来と天照大神になる。[/color]
ああ、そういうこと。太陽を崇拝するのは世界各地で太古の昔から行われてきたことでストーンヘンジは最も日が短い冬至の日に太陽が昇る向きに合せて作られイギリス中から人が集まり新たな年と太陽の復活を祝っていたとか。中南米のマヤ・アステカ文明のピラミッドは一種の天文台で夏至、冬至はもちろん春分、秋分の日には特別な場所に日が当たるように設計されていたそうです。神事を行った神官は暦を司り太陽の恵みに感謝を捧げていたのです。
堀坂山には登ったことないけど太陽の道では重要拠点のひとつなんですね。
[color=#FF0000]峠は森本城のあった向山と阿坂を結んでおり、東に下った所に枳城がある。阿坂城から1km離れており、峠の守りとして置かれたのかもしれない。森本城は一志米輸送路線の監視、防衛のために築かれたので、森本城―阿坂城から続く尾根筋を守っていたのだろう。[/color]
複雑な地形を自然の防衛線利用していたのですね。ロシアがウクライナに作った防衛線みたいに重機を使ったり人力で塹壕を掘る必要もないから効率がいい。しかし一旦作られるとそれを突き崩すのは難しくウクライナ軍も苦労している。でも平和な現代の日本では不便なだけで地域衰退の原因としか見られない。
[color=#FF0000]掘坂大権現の鳥居を通り登山道を歩く。整備された道を歩いていくと立派な大日如来の銅像がある。背中には延宝8年(1680)とある。元号が変わった1674年以降、延宝3年「宮川増水の為渡船転覆して百余人溺死す」延宝7年「大雨洪水、十ヶ年未聞の高水」など次々起こる災害の鎮めを願ったのか。[/color]
大日如来像は随分立派なものですね。無造作にポンッと置かれているのがもったいないくらい。
[color=#FF0000]すぐに山頂で、大日如来の祠が日の出の方向に祀られていた。春分の日・秋分の日には神島より日が上り、矢頭山・倶留尊山に日が沈むことになる。[/color]
神島から昇る日が重要なことは知っていましたが、日が沈む方はあまり気にしたことがなかったな。太陽の道というのだからそちらも大事だ。
[color=#FF0000]お地蔵さんがあった。僧の形をした地蔵菩薩で、平安時代後期に流行ったようだ。錫杖と宝珠を持っているので地蔵菩薩に間違いないのだが、古い時代の形のようだ。[/color]
お地蔵さんと言えば我が家の近くに地蔵大松というのがあり県の天然記念物に指定されています。その言われは587年に曽我氏、物部氏の仏教を巡る対立で崇仏派の曽我氏が勝利し地域信仰の象徴であった地蔵さんを埋めて隠し目印として植えた松が1732年の干ばつの年に湧水路を得るため近くを掘ってみるとその地藏さんが出てきたというのです。大松は今日も元気に立派な姿を見せています。
[color=#FF0000]掘坂神社は、神仏習合の色濃い神社であったことと、大日如来を祀っていた事で明治政府に疎まれたようだ。天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に作られた国家神道にとって、天照大神の本地である大日如来は邪魔という事だ。[/color]
明治期までは神仏習合は普通のことで一般に受け入れられていましたが、天皇の権威を取り戻したい明治政府としてはそのあたりを整理して権威付けする必要があったのでしょう。荒れたままの神社を放置することも権威を貶めるので整理してビシッと立派なものだけを残したかったということでしょう。
太陽の道を巡るてんこ盛りの蘊蓄の数々ありがとうございましt。
「太陽の道」何のこと?
[color=#FF0000]動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置している。太陽神は、大日如来と天照大神になる。[/color]
ああ、そういうこと。太陽を崇拝するのは世界各地で太古の昔から行われてきたことでストーンヘンジは最も日が短い冬至の日に太陽が昇る向きに合せて作られイギリス中から人が集まり新たな年と太陽の復活を祝っていたとか。中南米のマヤ・アステカ文明のピラミッドは一種の天文台で夏至、冬至はもちろん春分、秋分の日には特別な場所に日が当たるように設計されていたそうです。神事を行った神官は暦を司り太陽の恵みに感謝を捧げていたのです。
堀坂山には登ったことないけど太陽の道では重要拠点のひとつなんですね。
[color=#FF0000]峠は森本城のあった向山と阿坂を結んでおり、東に下った所に枳城がある。阿坂城から1km離れており、峠の守りとして置かれたのかもしれない。森本城は一志米輸送路線の監視、防衛のために築かれたので、森本城―阿坂城から続く尾根筋を守っていたのだろう。[/color]
複雑な地形を自然の防衛線利用していたのですね。ロシアがウクライナに作った防衛線みたいに重機を使ったり人力で塹壕を掘る必要もないから効率がいい。しかし一旦作られるとそれを突き崩すのは難しくウクライナ軍も苦労している。でも平和な現代の日本では不便なだけで地域衰退の原因としか見られない。
[color=#FF0000]掘坂大権現の鳥居を通り登山道を歩く。整備された道を歩いていくと立派な大日如来の銅像がある。背中には延宝8年(1680)とある。元号が変わった1674年以降、延宝3年「宮川増水の為渡船転覆して百余人溺死す」延宝7年「大雨洪水、十ヶ年未聞の高水」など次々起こる災害の鎮めを願ったのか。[/color]
大日如来像は随分立派なものですね。無造作にポンッと置かれているのがもったいないくらい。
[color=#FF0000]すぐに山頂で、大日如来の祠が日の出の方向に祀られていた。春分の日・秋分の日には神島より日が上り、矢頭山・倶留尊山に日が沈むことになる。[/color]
神島から昇る日が重要なことは知っていましたが、日が沈む方はあまり気にしたことがなかったな。太陽の道というのだからそちらも大事だ。
[color=#FF0000]お地蔵さんがあった。僧の形をした地蔵菩薩で、平安時代後期に流行ったようだ。錫杖と宝珠を持っているので地蔵菩薩に間違いないのだが、古い時代の形のようだ。[/color]
お地蔵さんと言えば我が家の近くに地蔵大松というのがあり県の天然記念物に指定されています。その言われは587年に曽我氏、物部氏の仏教を巡る対立で崇仏派の曽我氏が勝利し地域信仰の象徴であった地蔵さんを埋めて隠し目印として植えた松が1732年の干ばつの年に湧水路を得るため近くを掘ってみるとその地藏さんが出てきたというのです。大松は今日も元気に立派な姿を見せています。
[color=#FF0000]掘坂神社は、神仏習合の色濃い神社であったことと、大日如来を祀っていた事で明治政府に疎まれたようだ。天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に作られた国家神道にとって、天照大神の本地である大日如来は邪魔という事だ。[/color]
明治期までは神仏習合は普通のことで一般に受け入れられていましたが、天皇の権威を取り戻したい明治政府としてはそのあたりを整理して権威付けする必要があったのでしょう。荒れたままの神社を放置することも権威を貶めるので整理してビシッと立派なものだけを残したかったということでしょう。
太陽の道を巡るてんこ盛りの蘊蓄の数々ありがとうございましt。
Re: 【高見山地】太陽の道と堀坂山
わりばしさん、こんばんは。スカイウォーカーです。
夕食前に投稿したら何故かボットのチェックに引っかかって合言葉を入力したら消えてしまったのですが、ゲストのまま投稿されていました。ゲスト投稿だから直し方が分かりませんのでそのつもりでお読みください。
夕食前に投稿したら何故かボットのチェックに引っかかって合言葉を入力したら消えてしまったのですが、ゲストのまま投稿されていました。ゲスト投稿だから直し方が分かりませんのでそのつもりでお読みください。
Re: 【高見山地】太陽の道と堀坂山
おはようございます、おどさん。
>【コース】浄眼寺駐車場8:35---10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山---14:30浄眼寺駐車場
自分も3ヶ月前となる去年11月に同じようなコースで歩いてきました。
あら歩かれてましたか。
鈴の音アルプスなんて初めて聞きました。
松阪は何でも本居宣長の鈴をからめます。
ベルファームやベルタウンなんかもそうです。
> 動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、
>この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置し
>ている。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
お寺やそれぞれの山にそんな意味が込められていたのですね。
時計や統一されたカレンダーが無かった時代の人にとっては
太陽の動きは生活全体にかかわる
重要事項だったんでしょうね。
> 尾根筋の道は自然林が残っており明るく、「鈴の音アルプス」とマジックで書かれたピンクテープが時たま現れる。枳峠は以前は車道があったよう
>な5mの切通があるが、今は見る影もない。
「枳峠」はいきなり広い道と鋭角な切通に驚かされました。 また、ここからの登りも厳しい感じでした。
テープがあるのでいいですが。
使われない林道の大きな切通ほど無駄なものはありません。
>それぞれの石像にはしきみやみかんが進ぜられ、しめ縄が掛けられていた。古いしめ縄が捨てられてあったので、正月につけかえたようだ。仏像にし
>め縄だが、とてもなじんでいる。
堀坂山の山頂には建物や焚き火跡もあり、信仰心の厚さが感じられました。
今でも伊勢寺、勢津、与原の麓の村々が持ち回りで浅間祭事をしています。
掘坂山頂上から見える日の出(大日)と富士山への畏敬を胸に念じながら
雨乞いを含む旱魃や洪水の水の災害、そして大地を揺らす地震災害から無事でいられるよう祈りが託されるようです。
>来た道を堀坂峠まで戻り、デポしておいた自転車に乗る。
あら? 帰路は自転車ですか。 自分は歩いて寺院巡りしながら帰っていきました。
飯高の山に行くときのルートで毎週のように通っているので
歩く気にはなりませんでした。
> 高速道路を越えたあたりに灯篭や南無地蔵大菩薩と彫られた石塔に「左ほっさか右よこたき」の道標などが集められている。「ほっさか」は
>掘坂山(掘坂大権現)「よこたき」は横滝寺のことで信仰の地を示した道標だ。石灯籠を見ると掘坂大明神と彫られている。
歩いていても至るところに石碑や石仏などがあり楽しめました。
わりばしさんのように、歴史などに詳しいと色々と楽しめるので羨ましいです。
ありがとうございます。
ただ、抜け落ちがたくさんあったので旧掘坂神社から今度は歩いてみます。
>【コース】浄眼寺駐車場8:35---10:25鉢ヶ峰---11:30観音岳---12:25掘坂山---14:30浄眼寺駐車場
自分も3ヶ月前となる去年11月に同じようなコースで歩いてきました。
あら歩かれてましたか。
鈴の音アルプスなんて初めて聞きました。
松阪は何でも本居宣長の鈴をからめます。
ベルファームやベルタウンなんかもそうです。
> 動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、
>この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置し
>ている。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
お寺やそれぞれの山にそんな意味が込められていたのですね。
時計や統一されたカレンダーが無かった時代の人にとっては
太陽の動きは生活全体にかかわる
重要事項だったんでしょうね。
> 尾根筋の道は自然林が残っており明るく、「鈴の音アルプス」とマジックで書かれたピンクテープが時たま現れる。枳峠は以前は車道があったよう
>な5mの切通があるが、今は見る影もない。
「枳峠」はいきなり広い道と鋭角な切通に驚かされました。 また、ここからの登りも厳しい感じでした。
テープがあるのでいいですが。
使われない林道の大きな切通ほど無駄なものはありません。
>それぞれの石像にはしきみやみかんが進ぜられ、しめ縄が掛けられていた。古いしめ縄が捨てられてあったので、正月につけかえたようだ。仏像にし
>め縄だが、とてもなじんでいる。
堀坂山の山頂には建物や焚き火跡もあり、信仰心の厚さが感じられました。
今でも伊勢寺、勢津、与原の麓の村々が持ち回りで浅間祭事をしています。
掘坂山頂上から見える日の出(大日)と富士山への畏敬を胸に念じながら
雨乞いを含む旱魃や洪水の水の災害、そして大地を揺らす地震災害から無事でいられるよう祈りが託されるようです。
>来た道を堀坂峠まで戻り、デポしておいた自転車に乗る。
あら? 帰路は自転車ですか。 自分は歩いて寺院巡りしながら帰っていきました。
飯高の山に行くときのルートで毎週のように通っているので
歩く気にはなりませんでした。
> 高速道路を越えたあたりに灯篭や南無地蔵大菩薩と彫られた石塔に「左ほっさか右よこたき」の道標などが集められている。「ほっさか」は
>掘坂山(掘坂大権現)「よこたき」は横滝寺のことで信仰の地を示した道標だ。石灯籠を見ると掘坂大明神と彫られている。
歩いていても至るところに石碑や石仏などがあり楽しめました。
わりばしさんのように、歴史などに詳しいと色々と楽しめるので羨ましいです。
ありがとうございます。
ただ、抜け落ちがたくさんあったので旧掘坂神社から今度は歩いてみます。
Re: 【高見山地】太陽の道と堀坂山
おはようございます、skywalkeさん。
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置している。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
堀坂山には登ったことないけど太陽の道では重要拠点のひとつなんですね。
本来ならもっと注目してもいい場所なんだと思います。
太陽の道は北緯34度32分です。
峠は森本城のあった向山と阿坂を結んでおり、東に下った所に枳城がある。阿坂城から1km離れており、峠の守りとして置かれたのかもしれない。森本城は一志米輸送路線の監視、防衛のために築かれたので、森本城―阿坂城から続く尾根筋を守っていたのだろう。
複雑な地形を自然の防衛線利用していたのですね。ロシアがウクライナに作った防衛線みたいに重機を使ったり人力で塹壕を掘る必要もないから効率がいい。しかし一旦作られるとそれを突き崩すのは難しくウクライナ軍も苦労している。でも平和な現代の日本では不便なだけで地域衰退の原因としか見られない。
中世の城はこんな作りなので、必然的に山城が多いです。
秀吉以降の権威付けの城とは作り方が大きく違います。
掘坂大権現の鳥居を通り登山道を歩く。整備された道を歩いていくと立派な大日如来の銅像がある。背中には延宝8年(1680)とある。元号が変わった1674年以降、延宝3年「宮川増水の為渡船転覆して百余人溺死す」延宝7年「大雨洪水、十ヶ年未聞の高水」など次々起こる災害の鎮めを願ったのか。
大日如来像は随分立派なものですね。無造作にポンッと置かれているのがもったいないくらい。
頂上にも大日如来像があります。
北畠が治める以前から大陽に対する特別な信仰があった地域なのでしょう。
松阪の宝塚古墳も太陽の道上です。
宝塚古墳の冬至の日の出の線上に内宮があります。
すぐに山頂で、大日如来の祠が日の出の方向に祀られていた。春分の日・秋分の日には神島より日が上り、矢頭山・倶留尊山に日が沈むことになる。
神島から昇る日が重要なことは知っていましたが、日が沈む方はあまり気にしたことがなかったな。太陽の道というのだからそちらも大事だ。
経ヶ峰の春秋分の日没と神島への冬至の日の出の線を結んだ所に高田本山があります。
お地蔵さんがあった。僧の形をした地蔵菩薩で、平安時代後期に流行ったようだ。錫杖と宝珠を持っているので地蔵菩薩に間違いないのだが、古い時代の形のようだ。
お地蔵さんと言えば我が家の近くに地蔵大松というのがあり県の天然記念物に指定されています。その言われは587年に曽我氏、物部氏の仏教を巡る対立で崇仏派の曽我氏が勝利し地域信仰の象徴であった地蔵さんを埋めて隠し目印として植えた松が1732年の干ばつの年に湧水路を得るため近くを掘ってみるとその地藏さんが出てきたというのです。大松は今日も元気に立派な姿を見せています。
そんな話が鈴鹿にあるんですね。
ゲストがskywalkeさんだと思ってました。
掘坂神社は、神仏習合の色濃い神社であったことと、大日如来を祀っていた事で明治政府に疎まれたようだ。天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に作られた国家神道にとって、天照大神の本地である大日如来は邪魔という事だ。
明治期までは神仏習合は普通のことで一般に受け入れられていましたが、天皇の権威を取り戻したい明治政府としてはそのあたりを整理して権威付けする必要があったのでしょう。荒れたままの神社を放置することも権威を貶めるので整理してビシッと立派なものだけを残したかったということでしょう。
太陽の道を巡るてんこ盛りの蘊蓄の数々ありがとうございましt。
奈良時代以前から続く掘坂神社は末梢されたようです。
現在でも地元の祭事は形を変えて残っていますし
江戸時代の地域絵図にも山頂の鳥居が描かれていますので
信仰は厚かったんだと思います。
江戸時代に建立された二体の大日如来が物語っています。
こう見ていくと
蘊蓄漏れがいくつかあるので
また旧掘坂神社から歩いてみます。
動植物の生長や季節を司る太陽は古代より日本で崇拝の対象であった。なかでも太陽の満ち欠けの起点となる春分の日・秋分の日は特別な存在で、この日の日の出と日の入を結ぶ太陽の道には斎宮・三坪山・室生寺・長谷寺・三輪山といった聖地が並び、神島・掘坂山・矢頭山・倶留尊山が位置している。太陽神は、大日如来と天照大神になる。
堀坂山には登ったことないけど太陽の道では重要拠点のひとつなんですね。
本来ならもっと注目してもいい場所なんだと思います。
太陽の道は北緯34度32分です。
峠は森本城のあった向山と阿坂を結んでおり、東に下った所に枳城がある。阿坂城から1km離れており、峠の守りとして置かれたのかもしれない。森本城は一志米輸送路線の監視、防衛のために築かれたので、森本城―阿坂城から続く尾根筋を守っていたのだろう。
複雑な地形を自然の防衛線利用していたのですね。ロシアがウクライナに作った防衛線みたいに重機を使ったり人力で塹壕を掘る必要もないから効率がいい。しかし一旦作られるとそれを突き崩すのは難しくウクライナ軍も苦労している。でも平和な現代の日本では不便なだけで地域衰退の原因としか見られない。
中世の城はこんな作りなので、必然的に山城が多いです。
秀吉以降の権威付けの城とは作り方が大きく違います。
掘坂大権現の鳥居を通り登山道を歩く。整備された道を歩いていくと立派な大日如来の銅像がある。背中には延宝8年(1680)とある。元号が変わった1674年以降、延宝3年「宮川増水の為渡船転覆して百余人溺死す」延宝7年「大雨洪水、十ヶ年未聞の高水」など次々起こる災害の鎮めを願ったのか。
大日如来像は随分立派なものですね。無造作にポンッと置かれているのがもったいないくらい。
頂上にも大日如来像があります。
北畠が治める以前から大陽に対する特別な信仰があった地域なのでしょう。
松阪の宝塚古墳も太陽の道上です。
宝塚古墳の冬至の日の出の線上に内宮があります。
すぐに山頂で、大日如来の祠が日の出の方向に祀られていた。春分の日・秋分の日には神島より日が上り、矢頭山・倶留尊山に日が沈むことになる。
神島から昇る日が重要なことは知っていましたが、日が沈む方はあまり気にしたことがなかったな。太陽の道というのだからそちらも大事だ。
経ヶ峰の春秋分の日没と神島への冬至の日の出の線を結んだ所に高田本山があります。
お地蔵さんがあった。僧の形をした地蔵菩薩で、平安時代後期に流行ったようだ。錫杖と宝珠を持っているので地蔵菩薩に間違いないのだが、古い時代の形のようだ。
お地蔵さんと言えば我が家の近くに地蔵大松というのがあり県の天然記念物に指定されています。その言われは587年に曽我氏、物部氏の仏教を巡る対立で崇仏派の曽我氏が勝利し地域信仰の象徴であった地蔵さんを埋めて隠し目印として植えた松が1732年の干ばつの年に湧水路を得るため近くを掘ってみるとその地藏さんが出てきたというのです。大松は今日も元気に立派な姿を見せています。
そんな話が鈴鹿にあるんですね。
ゲストがskywalkeさんだと思ってました。
掘坂神社は、神仏習合の色濃い神社であったことと、大日如来を祀っていた事で明治政府に疎まれたようだ。天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に作られた国家神道にとって、天照大神の本地である大日如来は邪魔という事だ。
明治期までは神仏習合は普通のことで一般に受け入れられていましたが、天皇の権威を取り戻したい明治政府としてはそのあたりを整理して権威付けする必要があったのでしょう。荒れたままの神社を放置することも権威を貶めるので整理してビシッと立派なものだけを残したかったということでしょう。
太陽の道を巡るてんこ盛りの蘊蓄の数々ありがとうございましt。
奈良時代以前から続く掘坂神社は末梢されたようです。
現在でも地元の祭事は形を変えて残っていますし
江戸時代の地域絵図にも山頂の鳥居が描かれていますので
信仰は厚かったんだと思います。
江戸時代に建立された二体の大日如来が物語っています。
こう見ていくと
蘊蓄漏れがいくつかあるので
また旧掘坂神社から歩いてみます。