これは以前投稿しようとしたネタです。やぶこぎネットが静かですのでお茶代わりにどうぞ。
やぶこぎのメンバーには歴史好きの方が多いようですのでこの事はよく知っているという方もおられるかもしれませんが
ご容赦を。また、山のレポートが主であるこのサイトで、いくら雑談コーナーであるとはいえ、山と全く無関係の記事は
顰蹙を買うのではと躊躇していました。しかし、一度失敗すると人間は強くなるというか、鈍感になるというか、まっいいかという開き直りができました。
若い時に失敗を恐れずにチャレンジすることが大切といわれますが、その通りですね。失敗を重ねて人間は強くなるようです。
先日、新聞に小さな記事で、再来年のNHKの大河ドラマは堺正人主演で真田幸村になったと出ていました。
日本の歴史の中では戦国時代が一番好きで、真田幸村は大好きです。子供のころ田舎で、杉浦茂の漫画「猿飛佐助」で
真田十勇士にわくわくした時からです。杉浦茂と聞いて、ああ、あのマンガかとすぐ分かる方はどのくらい
おられるでしょうか。現在、歴女(おばはんではなく、若い女性)の中でも戦国武将の人気ナンバーワンだそうです。
その後、大人になってから司馬遼太郎の小説で大谷吉継を知り、好きになりました。私の記憶に残る戦績やエピソードが
あるわけではありませんが、関ヶ原古戦場での女性のアンケートではNo1だそうです。
その小説の部分を、薄い記憶で再現するとこうです。
家康が上杉討伐の軍を起こし、諸将に軍を率いて参集するよう命令します。
この時、三成は家康の策にはまって近江佐和山城に蟄居中でした。
吉継は三成の親友でしたが、家康にも認められて悪くない関係でした。
吉継は家康の軍に参加するため、軍を率いて所領の敦賀を出発し、佐和山城の近くを通ります。
当然、親友の三成に挨拶するため佐和山城を訪れます。ここで思いがけない誘いを受けます。
このままでは将来、豊臣家が危ないので、今のうちに家康を討つため挙兵するので加勢してほしいと。
驚いた吉継は、所領の大きさ、歴戦の戦上手、人心掌握の巧みさ、とても三成のかなう相手ではないことを
あげて企てを諦めるよう説得します。しかし、三成は諦めません。4度目の要請に吉継はこう言います。
「分かった。ところでこの話をわし以外の者に話したのか」と。
三成は他の者にも加勢を要請していると答えます。そこで吉継はこう答えます。
「是非もない。わしとお前の二人だけのことならこの話をなかったものにできよう。
しかし、他の者に話したとなれば、いずれこの話は家康の耳にも入るであろう。お前に加勢する」
こう言って敦賀に帰り新たに戦支度をし、関ヶ原で健闘するも裏切りで西軍は負け、自刃します。
この時、介錯する家来に、くれぐれも自分の首を隠して敵に渡さないよう頼みます。
戦後、吉継の首は見つからなかったそうです。
何故、吉継は自分の首を隠したかったのでしょうか。
この写真はテニス仲間のT女史が、ある時、長袖、長ズボン、手袋の上にさらにこのマスクでコートに現れました。
「おっ、大谷吉継か」というと、すかさず
「ライちゃうわい」と切り返されました。
(吉継はライ病だったといわれています。ライ病は現在は差別語とされ使われず、正しくはハンセン病とすべきですが、
ニュアンスはこちらの方が伝わりやすいです。確か、松本清張の「砂の器」の主人公の父親がこの病気のため村々で差別され
全国を放浪する話が出てきますね。)
この病気(梅毒という説もあるようですが)のため顔が崩れてきて晩年はマスク、頭巾をかぶり、輿に乗って
移動していたといわれます。それで自分の首を人前に晒されるのを恐れたようです。
この大谷吉継の信義に厚い行動の場面を読んだ時ジーンときました。
そして、この大谷吉継の娘が真田信繁(幸村)の正妻なのです。
ご存じのように真田幸村は、家康の一国の主の誘いも一顧だにせず、生涯を反家康で貫き通したその潔よさで有名です。
この二人が吉継の娘をを通してつながりがあったというのは何かの因縁ですね。しかも二人とも歴女の間で人気があると
いうことは、彼らの生き様が現代でも人を引き付けるのですね。
現代の国会議員と言えば、当時でいえば一国一城の主です。
「信義に厚く」、「出所進退が潔い」これらの言葉はどこへ消えたのでしょうか。
昔は大河ドラマをよく見ましたが、最近はほとんど見ていませんでした。
再来年の大河ドラマで大谷吉継がどう描かれるのか楽しみなので久しぶりに見てみようと思います。
私がブログに投稿するというと、「マスクの下はきれいだ」と必ず書くよう念をおされました。