矢問さま、田村義彦さま、zippさま、そのほか記事を見て頂いたみなさまありがとうございます。
9月4日の説明会のあと情報が全く出ず、国定公園化構想がどのように進行しているのか見えてきません。
この秋、「京大の芦生OBで以前・・先生とここで研究しました」という方に上谷で出会うことが時々ありました。ところが話がこと国定公園になると、みな急に「どうなるんでしょうね」とトーンが下がるのです。私のような外部のものには分からない京大内の事情があるのでしょうか。
そう言った状況で、事情を知らない部外者が代弁するしかないと思うべきか、事情があるならそっとしておこうと思うべきか悩ましいところです。
だけれども、国定公園化が避けられない以上、その弊害から芦生の森を守るための知恵をそれぞれが考え、意見表明するしか無いとも思っています。
国定公園の根拠となる「自然公園法」。これは田村義彦様のお言葉をお借りすれば「自然公園法は、自然保護法ではありません。」につきます。
自然公園法に、「自然保護」という言葉は全く出てきません。地元協議会が観光客誘致のために、国定公園の指定を自治体に陳情するための法なのです。多くの方が誤解をもたれています。国定公園になったら自然が守られると。
本当に守るためには、「利用調整地区」に指定しなければなりません。ところがこの「利用調整地区」が指定されているのは西大台だけというのが日本の現状です。
国定公園制度の件について、
http://www.geoid.gr.jp/asyu/miyama/sizenkoenhou.html
にアップしましたので、参考にして頂ければ幸いです。
現在の研究林が入林許可制にしていることについて、みなさまが色々なご意見をお持ちなのは承知しています。この制度を国定公園化を期に法的裏付けを持って行おうといういうのが上のサイトの主旨なのでこれにも賛否両論あろうと思います。
ただ、これは山は誰のものか、我々が過去から受け継いでいる「山は皆の財産」という考えの、「皆」「財産」の意味が、ここ数十年で大きく変わってしまったことが齟齬を生み出しているのではないかと感じています。歩いて行ける範囲の「皆」が山から恵みをいただいて帰ることがずっと続けられる継続性という「財産」を共有することと、グローバリズム経済下の消費者としての「皆」が可処分資本としての「財産」を主張することとは概念が根本から違います。わたしは、前者肯定するためには、後者を否定しなければならないとの立場です。
山を観光利用する、そのための利用と保護のバランス取ると発想することは、山を可処分資本と見なし、利子を得るためには元本をどれだけ残すべきかと言う発想に等しいのではありませんか。継続性とは変化しないことに価値を見いだすことです。去年も今年も来年も同じだけ食べ物を頂ける幸せは、去年よりも今年沢山の収穫があったが翌年は失敗して破綻するかもしれないという不安付きの恍惚とは異なる価値観です。
いま、何もかもが、効率化と、成果主義によって、後者の価値観が絶対的であると押しつけられています。
そのなかで、芦生研究林という、これまで営々と受け継がれ日本に残された数少ない自然の森が、癒しのアトラクション会場として商業ベースにのせられようとしている。
それを否定するためには、「あとで皆が使えるように、傷んでいる今は使わずにおこう」という前者の価値観に切り替えるしかないのではと思います。
みなさんはどのように思いますか?